2015.10.05

『鯰絵』の現代的意義

岩波文庫版『鯰絵』の巻末には宮田登,小松和彦,中沢新一の3者による解説文が掲載されているのだが,東日本大震災後の日本人にとって最も意味のある解説文は中沢新一による「プレート上の神話的思考」である。

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一節を引用しよう:

「鯰絵を前にして,そこに表現されている知性のたくましさ,洒脱さ,高さに,驚かされる。そして同じ大震災を経験した現代日本人との知性における大きな落差に,気づかされることになる。大震災を体験したあと,現代日本人は『絆』だとか『復興』だとか,平板なボキャブラリーを動員しての紋切り型の思考しか生み出せなかったのではないか。そのため大震災があらわにした現実を前にして,大きな広がりと射程をもった根源的な思考で,それを受け止めることがほとんどできなかった。人間も自然の一部分にすぎないという真実が,そういう思考には深い実感として組み込まれていない。ようするに私たちには人間のことしか見えていないのである。」(『鯰絵』582ページ)

そういった現代人とは違い,江戸の庶民たちは鯰絵を通して,猛威を振るう自然に向き合うすべを知っていた。江戸時代の庶民であっても,そこらにいる鯰が地震の張本人だと本気では思っていない。本気では鯰を地震の張本人だとは思っていないが,あえて鯰を地震の張本人として非難したり,からかったりして,「知性とユーモアをもって,乗り越えがたいほどの困難を乗り越えようとしているのだ」(583ページ)

科学技術が発達し,危険の予知や被害の軽減が可能になってくるに従って,災害はあってはならないことになり,人は絶対に死んではいけないことになった。ロングスパンで見れば,必ず災害に遭い,死ぬこともあるというのに,それを無視して幸せな生活が永遠に続くかのような錯覚に陥っているのが現代人である。

何世代もの間に培われてきた神話的思考を土台に,自然と折り合いをつける方法を身につけていた江戸の庶民に学ぶことは多い。『鯰絵』は単に昔の人々の考え方をまとめた本ではない。自然と向き合う,死と向き合う(メメント・モリ)。そういうことを思い出せさせてくれる現代的意義を持っている。

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2014.12.10

毅然と死す

昨日,ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(岩波文庫)について記事を書いたが,何よりも感動的だったのは,死に臨むドローゴの姿だった。

死は恐ろしい。迫りくる死に対応する方法はあるだろうか。

およそ8年前の2006年にそういう記事を書いたことがある(「死を覚えよ(1) 良く死ぬことは可能か?」2006年2月21日)。その後もいろいろ考察したものの,納得できるような答えは見つからないままである。

では別の問い。

毅然として死ぬことは可能だろうか?

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』の最終章におけるドローゴの臨終の場面を読みながら思い出したのが,中井久夫『時のしずく』(みすず書房)に収められた「安克昌先生を悼む」という素晴らしい弔辞だった。

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精神科医であり,翻訳家であり,エッセイストである中井久夫が,2000年に40歳で亡くなった安克昌という精神科医の葬儀の際に述べた弔辞である。

この文の中では安克昌が毅然として逝った様子が述べられている。

二日間の意識混濁ののち,きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。血圧は170に達したという。そして,何かを語ってから,「行くで,行くで,行くで,行くで」と数十回繰り返して,毅然として,再びは帰らぬブラックホールの中に歩み行った。きみの死は素敵だった。きみが好んだことばのようにワンダフルだった。しかし,きみの人生はもっとワンダフルだった。(中井久夫『時のしずく』285ページ)

安克昌の母親は涙をぬぐいながら「あんな素敵な死は見たことがありません」と述べたそうだ。


毅然として死んでいった人がいたことは確かである。

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2006.04.16

別れの歌

エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』では章ごとにタゴールの詩が引用されている。その一つを紹介しよう。

I have got my leave. Bid me farewell, my brothers! I bow to you all and take my departure.
Here I give back the keys of my door -- and I give up all claims to my house. I only ask for last kind words from you.
We were neighbours for long, but I received more than I could give. Now the day has dawned and the lamp that lit my dark corner is out. A summons has come and I am ready for my journey.
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死とその過程について

エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』の最初の章には「死の恐怖について」という題名が付いている。

エリザベス・キューブラー・ロスはこのように語る。

私たちは無意識のうちに「自分に限って死ぬことは絶対にありえない」という基本認識を持っている
私たちの無意識は、自分の命が本当にこの世で終わるとは思っていない


無意識どころか、まさしく私の認識がそうである。このような意識のもとでは、死は自然現象ではなく、悪意や罰として訪れる恐ろしいものとして受け取られる。死は忌むべきものとして遠ざけられる。死に行く人は長らく親しんだ家庭環境から遠ざけられ、縁の薄い高齢者用の施設や病院に押し込められる。

このような状況で死を受け入れることができるだろうか?

この章ではかつて「よく死ぬこと」が許されていた時代の臨終の場面を描いている。

子供のころ、ある農夫の死に出会った。その農夫は木から落ち、助かりそうもなかった。彼は寝室に娘たちを呼び、それぞれと二人きりで数分間ずつ話し合った。激痛に耐えながら、彼は冷静に身辺整理をし、自分の持ち物と土地を分け与えた。<中略>友人たちにさよならを言いたいからもう一度家に来てくれるよう頼んだ。<中略>私たちは彼が息を引き取るまで、彼の家族と悲しみを共にすることを許され、いっしょに心の準備をした。彼は死んだ。

死を自然の現象としてとらえ、日常的な環境の中で死に行く者と時間を共有することこそが、死に行く者に「よく」死を迎えられるようにするということになるだろう。



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2006.02.21

死を覚えよ(1) 良く死ぬことは可能か?

私の最大の関心事は己の死である。私が死んでしまうのが恐ろしい。日中の忙しいときにはそれを考えることがないが、就寝の時、身を横たえている時、ふと、そのことを思い恐怖することがしばしばある。

どうも死後の世界は無いようであるから、死んだら、そこで私の思考や感情は止まり(あるいは消え)、もはや死に怯えることはないだろう。

問題は死に到るまでの過程である。死が迫りつつある時(実は今も一刻一刻迫っているのだが)、死の恐怖に耐えられるのだろうか?もし耐えうる方法があるのなら、あわよくば、充実した思いで過ごせる方法があるのなら、その方法が知りたい。つまり、良く死ぬことが可能であるのかないのかを知りたいのである。

この、良く死ぬことは可能か? という問題についてこれまで様々な知見を集めてきた。以後、それらを紹介し、私の考察を加えて行きたいと思う。

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