山頭火と猫(6)
昭和6(1931)年12月22日。種田山頭火は熊本を後にして再び旅に出る。『行乞記(二)』の始まりである。
久留米に行ったり,太宰府に行ったり,唐津に行ったり。
昭和7年1月28日には,佐賀県の多久,北方,錦江と行乞(托鉢行)を続けながら移動し,飯盛山福泉寺にたどり着く。そしてその寺の主董・解秋和尚に歓待される。この寺には猫も犬もいた:
猫もゐる、犬もゐる、鶏も飼つてある、お嬢さん二人、もろもろの声(音といふにはあまりにしづかだ)。(『行乞記(二)』,昭和7年1月28日)
この寺にたどり着くまでの道中,山頭火は馬神隧道というトンネルを抜けた。そのとき,かつて山口中学の学生だった頃,佐波山洞道(さばやまどうどう)を通り抜けて帰省したことを思い出す。さらに当時の家族がいまや皆,鬼籍に入っていることを思い,慨嘆する:
馬神隧道といふのを通り抜けた、そして山口中学時代、鯖山洞道を通り抜けて帰省した当時を想ひだして涙にむせんだ、もうあの頃の人々はみんな死んでしまつた、祖母も父も、叔父も伯母も、……生き残つてゐるのは、アル中の私だけだ、私はあらゆる意味に於て残骸だ!(『行乞記(二)』,昭和7年1月28日)
そして歩きながら死に場所を求めるような気持になっていた:
歩く、歩く、死場所を探して、――首くゝる枝のよいのをたづねて!(『行乞記(二)』,昭和7年1月28日)
まあ,死にゃしないんですけどね。
福泉寺で一泊したのち,山頭火は武雄,そして嬉野温泉へと旅を続ける。
昭和7年3月3日。山頭火は佐賀市に到着し,ここで数日過ごすことになる。
3月5日,佐賀市内の大隈重信の生誕地を訪ねる。山頭火は早稲田大学の文学科の学生だったことがあるので,まあ縁の地といえるだろう。この日の日記では,宿のおかみさんの悪口や佐賀の食費の安さなど俗っぽいことをいろいろ書き記した後,猫の句をひとつ書き残している:
樹影雲影猫の死骸が流れてきた(『行乞記(二)』,昭和7年3月5日)
またもや死の影。
このあとも旅を続け,嬉野温泉に戻ったり,佐世保に行ったり,唐津を再訪したり。福岡や小倉を経由し,5月3日には海を渡り下関へ。山口県内を放浪したのち,5月24日から31日にかけて下関,小倉,川棚温泉周辺を行ったり来たりして『行乞記(二)』は終わる。

