2017.08.23

ラオスの街角,コーヒーの店

ラオスの街角の露店を撮影してみた。
日射が強すぎて色調がちょっと変だが。

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よーく見ると,「コーヒーの店」と日本語で書いてある。

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コンビニ"mpoint mart"とか両替店とか,日本人が寄りそうなところの近くで営業しているので,日本語の看板を出してみたのかもしれない。

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2017.08.21

こういう樹木を見ると

スコールもそうだが,こういう気根だらけの樹木を見ると,東南アジアにいるという実感がより高まる。

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2017.08.20

ナンプー公園前にでっかい工事車両が来ている

昼頃,ナンプー公園の周りをぶらぶらしていたところ,ラオプラザホテルからナンプー公園を結ぶ通りに,通りを完全にふさぐほど巨大な工事車両が来ていた。

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いったいどんな工事が始まるのか?

この国はいつも普請中なのだ。

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2017.08.19

よくスコールに見舞われる

ヴィエンチャン3日目。

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毎日一回はスコールに見舞われる。
空を見上げて,どこかで稲光が見えたら,スコールの予兆。
さっさと屋内に移動する。
ドッと降り注いで,短時間で終わる。
気温が一気に下がる。

熱帯にいることを実感するひと時。

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2017.08.18

ヴィエンチャン到着

ラオスの首都,ヴィエンチャンに到着。

到着時の飛行機には結構日本人が乗っていた。日本とラオスを結ぶビジネスが増えているのか?

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ラオスの標準時は日本より2時間遅れている。

日本標準時通りに過ごすと,ラオスでは早起きの生活になるというマジック。

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2017.08.15

1930年代のヴィエンチャンの民族構成

今週からラオスに行くので,予習をしている。

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だいぶ前に買ったSoren Ivarsson"Creating Laos"を再読しているところだが,1930年代のヴィエンチャンの民族構成について面白い記述があったので,紹介する。

1937年,ヴィエンチャンには12400人のヴェトナム人と9570人のラオ人が住んでいた。

つまり,人種構成で言えば,ヴィエンチャンはラオ人の都であるにもかかわらず,ヴェトナム系住民が多数派を占めていたわけである。

なぜ,こんなことになっていたのか?

昨年の今頃,本ブログに書いたように(「ラオス史メモ:チャオ・アヌの戦い」),ヴィエンチャン王チャオ・アヌのシャム(タイ)に対する反乱は失敗し,1827年から28年にかけて,ヴィエンチャンはシャム軍によって徹底的に破壊された。シャムは,さらにヴィエンチャンからチャンパ―サックにいたるメコン沿いの土地の過疎化を図った。これにより,ヴィエンチャン周辺のラオ人人口は激減した。

その後,紆余曲折があって,ヴィエンチャンを初め,ラオ系諸都市はフランスの植民地に組み入れられてしまうのであるが,ラオ人たちを統治するにあたって,フランスはヴェトナム人官吏や活用した。また,農耕・建築を進めるにあたってもヴェトナム人を重用した。

この結果,本来ラオ人たちのものであった,ラオ系諸都市にはヴェトナム人が多く住まうこととなり,ラオ人の人口を上回るようになった。

ヴィエンチャンではヴェトナム人が過半数を占めた程度だったが,1943年のターケークでは人口の85%,サワンナケートでは72%をヴェトナム人が占めるようになっていた。

ラオ人は言語・文化的にはタイ人に近いのにもかかわらず,政治・経済的にはヴェトナム人との強い紐帯を持っているという現状の素地は,フランス植民地時代に形成されたのである。

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2017.08.11

【再読】梅棹忠夫『東南アジア紀行』

1957年11月から翌1958年3月にかけて梅棹忠夫はインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。その時の記録が,『東南アジア紀行』である。

本ブログでは6年ほど前に「梅棹『東南アジア紀行』の時代」という記事で紹介したことがある。

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老生は,この夏もまたラオスに行く。もう9回目となるか。

渡航前に同国に関する知識を整理するために『東南アジア紀行』の下巻,ラオスのことが記されている第17・18章を読み直したのだが,読み直してみると,いろいろな発見がある。

梅棹らの,ラオス滞在は,1958年3月7日から3月17日までの11日間である。この僅かな滞在期間で,ラオスの各地をまわり,自然や文物をよく観察し,充実した記録を残しているのだから大したものである。老生はラオスに行く度に梅棹らよりも長く滞在しているのだが,彼らほど物事を見ていない。

梅棹らはジープで南ベトナムのドン・ハーからアンナン山脈を越えてラオスに入り,チェポン,パラーン,サワナケート(サワンナケート),ターケーク,パーン・ポーン,ナム・カディン,パークサン,とメコン左岸を移動し,ヴィエンチャンに入った。

アンナン山脈の東,ベトナム側では,常緑樹生い茂る雨季の世界だったのが,山脈を超えてラオス側に移ったとたんに,落葉樹林広がる乾季の世界に変わる,というのが面白い。

ヴィエンチャンに入って以降は,飛行機を利用してシエンクワーンルアンパバーンナムターを巡っている。道が整備されていない国では,まず,飛行機が重要な交通手段なのだ。

シェンクワーンに入った梅棹はヴィエンチャン王チャオ・アヌの反乱について触れている。チャオ・アヌ(チャオ・アヌヴォン)がシャムに対して起こした反乱については,本ブログで以前取り上げたことがある(参考:「タイの政治的混乱はチャオ・アヌの呪い」)。梅棹は,シャムに敗れたチャオ・アヌがシエンクワーンに逃げた顛末を書いているが,この話,老生はすっかり忘れていた。

当時のラオス人口は推定130万人,公定レートは1ドル=35kip,というようなこと,シエンクワーンには総督がいたこと,等々,読み直すと,ああそうだったか,と再発見が多くて面白い。

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2017.04.23

井出穣治『フィリピン -急成長する若き「大国」』

フィリピンはASEAN諸国の中で最も日本に近く,また人口1億人を超える大国として存在感を強めつつある。

井出穣治『フィリピン -急成長する若き「大国」』(中公新書)は,「アジアの病人」扱いだったフィリピンが,今や「アジアの希望の星」に変貌しつつあることを教えてくれる。

フィリピンとこれからどのような関係を築いて行くのか,それが日本の将来を左右することになりそうだ。


本書の中核となるのは,フィリピン経済の可能性についての議論であり,第1章から第5章までが費やされている。

日本,NIES諸国,タイ,インドネシア,マレーシアといった国々は製造業が主導する形で経済発展を遂げてきた。

しかし,本書が紹介するように,フィリピンは製造業の発展を経ずに,いきなりサービス業が主導するという全く異なる発展ルートをたどっている。

ちょうど世界規模でグローバル化やICT化が進展するタイミングだったこともあり,BPO(バック・オフィス・アウトソーシング)を軸としてフィリピンのサービス業は急成長した。

BPOとは,コールセンター,ソフトウェア開発,文書処理といった企業の業務プロセスの一部を外部委託することである。

本書ではフィリピンにおけるBPO発展の一例として,米国などのコールセンター業務の委託先として,訛りのきついインドよりも,癖のない英語を話すフィリピンが好まれることが紹介されている。

このように,サービス業が牽引する形でフィリピン経済は急成長しているわけだが,問題が無いわけではない。

貧富の差,汚職の蔓延,犯罪の多さなど,解決しなければならない社会・経済の問題が山積している。これらに加え,遅々として進まない農地改革,脆弱なインフラ,未発達の製造業といった問題も挙げられる。これらの問題はフィリピンの経済成長にとってのボトルネックとなっている。

これらの問題のうち,犯罪の多さに対するフィリピン国民の危機感が生んだのが,ドゥテルテ大統領である。

マスメディアではドゥテルテ大統領の暴言や強権的手法ばかりが取り上げられる。しかし,ドゥテルテの経済政策はアキノ前政権のそれを継承しており,税制改革とインフラ投資が進めば,フィリピン経済は飛躍を遂げる可能性がある。


◆   ◆   ◆


日本は輸出入合わせた総額ではフィリピンにとって最大の貿易相手国であるが,そのことを認識している人は多くない。

また,かつての太平洋戦争においてフィリピンは戦場となり,日米の兵士だけでなく,多くのフィリピン人が犠牲となったことは忘れられがちである。

このように現在から過去にいたる,日本人が忘れがちな,日比関係について論じているのが,本書の最終章「地政学で見るフィリピン,そして日本」である。

太平洋戦争で莫大な犠牲が払われたにもかかわらず,なぜ,戦後,日本とフィリピンがうまく和解できたのか,それを知るためにも最終章は必読。

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2017.04.05

ドゥワリカホテルでダルバート

ネパールの話。

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カトマンズ(カトマンドゥ)滞在中,ネパール料理らしいものを食べようということで,ドゥワリカホテル (Dwarika's Hotel) でダルバート (dālbhāt) を食べた。

まず,これ(↓)がドゥワリカホテルの中庭。夜に撮影したのでうまく取れていないが,シックな建物:

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そして,これ(↓)がダルバートである:

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米飯を中心に,小皿のおかずが並んでいる。

ダルバートのダルとは豆スープ,バートとは米飯のことである。豆スープは写真右下にあるのがそれ。濃い味噌汁といった感じ。そして豆スープの上(奥)にチキン・カレーがある。

おかずのことを「タルカリ」というので,単にダルバートと呼ばず,ダルバート・タルカリと呼ぶこともある。

ダルバートは要するにワンプレート定食。家庭の味で,本来は安価に気軽に食べられるものだが,ドゥワリカホテルはお上品なホテルなので,1500円ほどした (^-^;

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2017.04.04

ネパール旅行のためのガイドブック

今回,ネパールのカトマンズ(カトマンドゥ)に行ったわけである。

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初のネパール行きということで,ガイドブックとしては次の2冊を携帯した。

まずは定番中の定番,「地球の歩き方」『ネパールとヒマラヤトレッキング』

「地球の歩き方」は,ホテル,観光スポット,ショッピング情報など,漏れなく書いてあるので安心。ネパールの地理や歴史,政治,経済,民族,芸術,神様仏様,カレンダーなど基本情報も充実している。

今回の出張では,残念ながらトレッキングなど余暇を楽しむすべはなかったが。

街歩きを極めたければ,矢巻美穂『トレッキングとポップな街歩き ネパールへ』

これもトレッキングが前面に出ているが,街歩き情報も充実している。

観光スポット情報も載っているが,お洒落な飲食店,ハンドクラフト・工芸品のショップ情報に力が入っている。

この本で紹介されていたDhuktiという店ではパソコンケースやペンケースなどの布製品をたくさん購入した。

小生は海外のお土産としては,布製品ばかり買っている。理由は壊れず,軽いから。

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