2017.11.23

「暁の寺」ワット・アルンに行った

三島由紀夫「豊饒の海」第三部『暁の寺』の舞台となったワット・アルンに行った。

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公共交通機関でここを訪れようとすれば,こんな感じになる。

たとえば,アソークのあたりに宿をとった場合,

BTSスクンビット線アソーク駅からサイアム駅に移動。サイアム駅でシーロム線に乗り換え南下,サパーンタークシン駅で降りる。

サパーンタークシン駅から水上バス・チャオプラヤーエクスプレスに乗り,ワット・アルンに移動する。

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↑水上バスで移動開始。初心者なので青い旗の船に乗った。料金50バーツ。

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↑20分もすればワット・アルンに着く。

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↑ワット・アルンからの帰りはオレンジの旗の船に乗ってみた。観光客だけでなく,地元の人も通勤などに利用している。料金は15バーツ。

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オレンジの旗のチャオプラヤーエクスプレスは満員。まあ安いから仕方ない。

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2017.11.19

ジム・トンプソン・ハウスに行った

シルク王ジム・トンプソンの邸宅を訪れようという気が起こったのは,「失踪」の二字によるものだった。

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ジム・トンプソン・ハウスはバンコクの公共交通機関で行きやすいところにある。

まず,「スカイトレイン」ことBTSで,アソークからサイアム経由でナショナル・スタジアムに向かう。

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ナショナル・スタジアムに到着すると,観光客がぞろぞろとジム・トンプソン・ハウスに向かうので,それを追っていく。すると,すぐに到着する。

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↑美しいタイシルク。

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↑ジム・トンプソンが設計し,作り上げた邸宅。中は撮影禁止。

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↑ジム・トンプソンが集めた中国の陶器。火鉢のようなもの。これは家の外にあるので撮影OK。

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↑これも撮影OK。ここに置かれているのはイミテーションかもしれないが,7~8世紀ドヴァラヴァティ派の仏像。

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↑ジム・トンプソンは屋敷の設計に取り掛かっていた頃,庭園のことを「ジャングル」と呼んでいた。都会にありながら,ジャングルを思わせる邸宅。それがジム・トンプソンの理想だったのだろう。


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1906年3月,米デラウエア州に生まれたジム・トンプソンは第二次世界大戦終了直前,対日作戦のため,OSSの諜報員としてインドシナ半島に派遣された。任地のタイに魅了されたジムは永住を決意。衰退していたタイのシルク産業を復興し,巨万の富を得た。

1967年3月,休暇で訪れていたマレーシアのキャメロン・ハイランドで失踪。大規模な捜索にもかかわらず,その後の足取りは杳としてつかめないままである。

彼が残した邸宅は今や私設美術館として開放され,バンコク有数の観光スポットとなっている。


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マレーシアのジャングルに消えたシルク王ジム・トンプソン。この事件は松本清張にも影響を与え,推理小説『熱い絹』を執筆させるきっかけとなった。

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バンコクにおります

所用のため,チェンマイからクルンテープ(バンコク)へ。

空港から都内へは"AIRPORT RAIL LINK"を使ってみた。

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スワンナプーム空港からパヤタイまで45バーツ。

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↑こういうトークンを使って乗車する。

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大都会ですなー。

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2017.11.18

まだチェンマイにおります

チェンマイをうろうろしているわけである。

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↑すごい店構え。アクセサリーショップらしい。となりはゴールドショップ。

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↑ここ,BEER LABでは世界各国のビールが飲める。タイ産のビールはあまり無い。フレンチフライズを肴に,オーストラリアやベルギーのIPAを飲んだ。

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↑ムエタイの興行。白人(ファラン)の観衆が多かった。

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2017.11.17

チェンマイにおります

現在,所用のため,チェンマイにおります。

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↑黄昏のスワンナプーム空港

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↑チェンマイ空港の国際線ターミナルに到着

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↑チェンマイ大学の学生たち。

タイの大学には制服があるのはご存知のことと思う。
女学生に関しては高校生のようだ。スカート丈がバラバラ。ラオスのように伝統の巻きスカート(シン)にしたら統一感が出ると思うのだが,余計なお世話か。

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↑会議の休憩時間に供されたお菓子。

この菓子は豆粒程度の大きさ。豆の餡を固めて,周りをゼリーか寒天でコーティングしたもの。フルーツを模した形をしている。色どりが美しい。淡い甘みでおいしい。

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2017.11.07

バンドンに来ております

現在,バンドンに来ております。

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摩天楼こそ無いが,延々と建物が続く大都会。

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植民地時代にオランダ人たちが避暑地として開発したのが,この街の発展の始まり。

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2017.10.31

梅棹忠夫『東南アジア紀行』と松本信広『メコン紀行』

先日,神田神保町で松本信広編『メコン紀行』を購入したわけだが,松本信広率いる「東南アジア稲作民俗文化綜合調査団」がベトナム,カンボジア,ラオス,タイを巡ったのは1957年8月から翌1958年4月のことだった。

ここでふと思い出すのが,ほぼ同じころに梅棹忠夫率いる「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」がインドシナ諸国を巡ったことである。梅棹忠夫らは1957年11月から翌1958年3月にかけてインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。

その時の記録が,『東南アジア紀行』であるということはすでに過去記事に書いた(参照)。

ほぼ同じ頃にインドシナ諸国を回っていたのにもかかわらず,両者の軌跡が重なることがないのは不思議な感じがする。

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2017.10.30

佐藤洋一郎『稲と米の民族誌』を読む

アジア各地に稲作は広がっているが、稲作文化は一つではない。品種も栽培方法も調理法も多様である。その多様な稲作文化を紹介しているのが本書『稲と米の民族誌』である。

著者は農学者。遺伝学の立場から稲の起源を求めて30年に渡ってアジア各地を調査してきた。

本書では各地の稲作・米食文化の紹介に多くの紙数を割きつつ,時折,著者の専門である,稲の起源を巡る論争にも触れる,という形で話が進んでいく。

いま,稲作・米食文化と言ったが、本書では「稲作景観」という言葉を用いて,稲作・米食文化を自然環境と併せて表現している。ここで「景観」とは「人間やその社会とその周囲を取り巻く自然を含む一体的な関係」のことである。

本書では,ブータン、シッキム、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、中国といった地域の稲作景観が紹介されている。老生の仕事先が多くカバーされているので、とても嬉しい。例えば,ラオスではもち米のおこわ「カオ・ニャオ」がとても美味しいのだが,「もち米の国,ラオス」のところでそれが紹介されている。該当部分を読むと,カオ・ニャオの味や触感が蘇ってくるのを感じる。


◆   ◆   ◆


稲作と言っても,ジャポニカかインディカか,うるち米かもち米か,田植えをするか直播でいくか,畦に豆を植えるかどうか,等々,いろいろなパターンがある。

また,米食も,うるち米のご飯を炊いたり蒸したり,もち米をモチにしたりおこわにしたり,また,米を粉にしてライスペーパーを作ったり麺を作ったり,というようにバラエティに富んでいる。米粉の活用,ということではベトナムは群を抜いている。

米は酒造りにも使われる。ラオスでは「ラオラオ」,タイでは「メコン」というもち米由来の強い酒が造られる。

もち米は甘いスナック菓子を作るのにも用いられる。竹筒にもち米を入れ,緑豆,ココナッツミルクを加えて焼く「カオラム」がそれである。老生もラオスで食べたものである。

ということで,本書では多様で楽しい稲作・米食文化が紹介されている。


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以前,「日本の農耕文化の起源:ニジェール河畔からのはるかな旅」という記事で紹介した中尾佐助は,佐々木高明と共に「照葉樹林文化論」を展開した。佐々木高明によれば,ブータンもまた照葉樹林文化の地域に含まれる。しかし,本書によれば,ブータンでは照葉樹林文化の重要な指標である,焼畑もモチ食も見られないとのことである。本書の記述は控えめであったが,ブータンを照葉樹林文化圏に含めるのは結構難しいように老生は思った。


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稲の起源についても触れておこう。

かつては「アッサム―雲南地方」が稲作の起源地とされていた。ジャポニカとインディカという2大グループの共通起源がこの地域にあったという。先ほどの「照葉樹林文化論」と合わせて,この説は一世を風靡した。

しかしながら,その後の考古学や遺伝学の研究の蓄積により,ジャポニカは長江流域で生まれ,インディカはその後で熱帯のどこかで生まれた,という二元説が有力となった。この二元説の前半部分は「ジャポニカ長江起源説参照)」と呼ばれ,本書の著者もその立場に立っている(その後,バイオインフォマティクスの発達によって,異説が登場。稲作起源論争は今もなお継続中とのこと)。

著者が「アッサム―雲南地方」起源説に与しないのは,同地方に近い地域での調査経験も踏まえてのことだろう。著者は上述したブータンの他,シッキムにも足を運んだ。この時,現地の稲作景観をつぶさに見て,稲作・米食文化の歴史の浅さを感じ取っている。「研究者が感覚に頼ってものをいうのは控えるべき」と断りつつも,体験によって著者は意を強くしたようである。

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2017.10.20

桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』を読む

このところ,東南アジア史の本ばかり読んでいる。この方面での仕事が山のようにあるからだ。

この『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著,山川出版社・世界史リブレット)は薄い割には情報がてんこ盛り。2度読んで,ようやく全体像が掴めた。非常に刺激的な一冊だった。

著者はベトナムおよびチャンパーの歴史研究者である。

著者は本書の中で,東南アジア史の研究史を振り返り,前近代の東南アジア国家がどう理解されてきたのかを論じている。そしてその作業を通じて東南アジアという歴史世界が持つ特質を示している。

東南アジア史はここ数十年で興隆してきた分野である。そもそも,東南アジアという言葉自体,第二次世界大戦中に普及してきた用語[1]であり,この地域をまとめて論じようという学者はかつてはほとんどいなかった。

東南アジアの地理や歴史には,「多様性の中の統一(ビネカ・トゥンガル・イカ, Bhinneka Tunggal Ika)」というインドネシア共和国の国是がぴったり当てはまる[2]。様々な人々や勢力が渦のように離合集散し,複雑な姿を見せながら,それでいて,東南アジア的としか言いようのない,共通した何かを印象付ける。

それ,つまり複雑・多様でありながら統一性を持つ東南アジアの歴史をうまく言い当てようとして,日本史,中国史,西洋史の概念やモデルを持ってきてもダメ。例えば「東洋的専制」とか「封建制国家」といった概念は東南アジアの歴史には適用できない。東南アジアの歴史を語るためには,東南アジアの歴史のための概念やモデルが必要なのである。

そこで登場するのが本書で紹介される様々なモデルや概念である。例えば,タンバイヤの「銀河系的政体」,ウォルタースの「マンダラ」,ギアツの「劇場国家」である。

東南アジアの歴史研究には,従来型の歴史学者だけでなく,文化人類学者,民族学者,地理学者,経済学者,農学者等々,多様な分野からの研究者が参加しており,先日紹介したグローバル・ヒストリー(参照)の先進地となっている。上に述べた,東南アジア史独自のモデルや概念はグローバル・ヒストリー的なアプローチの成果である。

「○○国の歴史」という一国史のスタイルは東南アジアの歴史には相応しくない。地域・海域で総体的にとらえることが必要なのである。

著者が専門とするチャンパー史もベトナムの一地域の歴史に留まるものではない。チャンパー人は東南アジアの交易の担い手として,長きにわたって活躍してきた。チャンパーの歴史は決してベトナム南部の地に封じ込められるものではなく,広大な時空間の広がりを持つものだというのが,著者の主張である。

東南アジアの歴史を研究していくと,その多様性や関係する時空間の範囲の広さ故に,東南アジアの歴史とは結局何なのか,という根本的な疑問にたどり着いてしまう。たとえば,交易の範囲を考えると,インドや沖縄までが範疇に入ってしまう。東南アジアにこだわる必要性があるのだろうか,ということである。オーストラリアの研究者,ジョン・レックはその著書の中で「東南アジア史の脱構築」という一節を設けてしまったぐらいである。

この難問を前に,著者は最後にこう締めくくる:

「ややこしい時代になった。だがこれも東南アジア史研究が一人前になったからこその試練だ。学問はこうでなくてはおもしろくない」(桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』,87頁)


※注釈

[1]本書だけでなく,ジャン・デルヴェール『東南アジアの地理』でも,東南アジアという呼称がわりと新しいものであることが述べられている。

[2]レン・タン・コイ『東南アジア史』(文庫クセジュ)でも東南アジア史について「ビネカ・トゥンガル・イカ」という言葉で表現している。

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2017.10.08

八木澤高明『ネパールに生きる』を読む

ネパールに行ったのは今年の3月が初めて(参照)で,しかもカトマンドゥから一歩も出ていないので,ネパールについては知らないことばかり。


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なので,ちょっと勉強しようと手に取ったのがこれ,八木澤高明『ネパールに生きる』(新泉社,2004年)である。



本書の表紙を飾っているのは,笑顔が印象的なマオイストの女性兵士,コムレット・ノビナ。戦闘服を着て,ダルバートを食べている。

ノビナは取材後,政府軍との戦闘で命を落とす。ノビナとは誰か,マオイストとは何か,政府軍とマオイストがなぜ戦っているのか,その辺りが気になった人は本書を読んでいただきたい。

本書で取り上げられているのは今から十数年前,2000年代あたりのネパールの実情。今述べたマオイストと政府軍による内戦のほか,児童労働やアウトカーストのことが記されている。さらに,ミャンマーに生きる元グルカ兵のことや「東電OL殺人事件」のことなど,ネパール国外のネパールに関わる話題も取り上げられている。

<目次>

  • プロローグ ヒマラヤの向こうへ
  • 児童労働 こどもたちの現実
  • 王宮事件 見えざる王室の闇
  • マオイスト1 銃を取る若者たち
  • マオイスト2 出口なき混迷
  • グルカ兵 忘れられた兵士たち
  • アウトカースト・バディ 逃れられない宿命
  • エイズ 日常に潜む影
  • 東電OL殺人事件 夫の無実を信じて
  • ある女性兵士の生と死 あとがきにかえて

「東電OL殺人事件」は本書が出たずっと後,2012年にゴビンダ・プラサド・マイナリ氏の無罪が確定して一段落したため(事件自体は未解決だが),隔世の感を覚える。しかし,それ以外の章は現在のネパールの社会経済状況に直結する話ばかり。特に,貧困,不平等という,本書のあらゆるところに顔を出す問題は,この国が今もなお抱える病魔である。

内陸国で貧乏国といえば,老生がよく訪れるラオスもそういう国なのだが,ラオスとネパールとでは貧困や不平等の性質が全く異質。

ラオスの場合は現金の流れが悪いだけ。自給自足・物々交換のおかげでお金が無くても生きていける。貧富の差は拡大しているが,それが即差別等に結び付いたりはしない。

ネパールの場合は貧困・不平等の背後にカースト制が存在し,それが貧困・不平等の解決に対する大きな障害となっているように思う。カースト制度を何とかしない限り,この国に明るい展望は開けないのではなかろうか?

ちなみに,「立命館大学人文科学研究所紀要 No.102」(2013年11月)所収の「ネパール人のカースト序列認識の客観性と恣意性―ポカラ市住民のアンケート調査による考察―」(山本勇次,村中亮夫)という論文によれば,ネパールのカースト制度はネパール最初の成文法「ムルキ・アイン(Mulki Ain):民法典」(1854年)によって恣意的に導入されたものであるという。本家インドのカースト制度が長い年月を経ながら自生的に確立されていったのとはだいぶ異なる。ネパール人自身がネパールのカースト制度の歴史の浅さと恣意性を強く認識すれば,状況は変わるかもしれない。ということで,教育は重要だ。


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著者は1972年生まれの写真家・作家。写真週刊誌「フライデー」専属カメラマンを経て,フリーに。1994年からネパールに通い,児童労働,カースト制,マオイスト等,同国の社会問題を取材してきた。1998年には現地の女性と結婚している。本書の取材テーマから派生して,『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』や『娼婦たちから見た戦場』等の本を出している。

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