2017.12.10

千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読む(続)

だいぶ前に出た本である。ちょっと前にも紹介した(参考)が,もう一度,読書感想文を書いてみる。

著者は歴史地理学者。

著者は本書で「日本の神道を論じようとしたのではない。伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめようと試みた。」(217頁)

とはいえ,「アマテラスの誕生」に触れないわけにはいかない。第1章「アマテラスの旅路」第2章「中国思想と神宮」では,海洋民の信仰する太陽神が,道教(北極星信仰)と融合し,国家神へと昇格するプロセスが描かれている。

国家神アマテラスが伊勢に鎮座する理由については,東を聖とする思想と,大和と伊勢の位置関係をもとに論じているが,この説などは以前に紹介した西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書)で語られていた「伊勢・大和・出雲の関係性」を思い起こさせてとても興味深い。

「伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめよう」という本書の意図のため,国家神アマテラスの誕生に係る議論は,第1章・第2章に限られており,老生としては物足りない感じがする。

しかし,律令期にアマテラスが国家神として奉祀されたことが,その後,中世・近世・近現代の日本とアジアの関係に影響を与えてきたことを描出した第3章「神国の系譜」,第4章「近大の神宮」,第5章「植民地のアマテラス」は,それはそれで興味深い。

アマテラスに対する民間信仰なかりせば,明治以降の神道の(ほぼ)国教化というのはありえない。しかし,植民地政策の一環として台湾・朝鮮・満洲に神宮創祀が行われたのは,本来の信仰から逸脱していると言わざるを得ない。

戦後,国家と神道とが分離されたことは,伊勢神宮とアマテラス信仰に本来の姿を取り戻させることになったものと見ることができよう。そういう歴史的文脈を踏まえれば,戦後に折口信夫が

「神道にとって只今非常な幸福の時代に来てゐる」

と発言したのはよく理解できる。

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2017.12.03

ニコライ・A・バイコフ『牝虎<めとら>』を読む

ニコライ・A・バイコフ作(上脇進訳)『牝虎<めとら>』(中公文庫)を読んだ。

【あらすじ】

満洲・横道河子(フンダオフーズ,heng dao he zi)に住む<私>は,旧友でベテラン猟師のアキンジン・ステパーノヴィチ・バボーシンとともに海林(ハイリン,hai lin)渓谷の密林を旅する。目指すのはグリゴーリイ・ゾートフの山小屋だ。

バボーシンによれば,グリーシャ(グリゴーリイ)は先ごろ,ナスターシャという美しい娘と恋に陥ったのだそうだ。

バボーシンは,ナスターシャはややこしい女だから付き合わない方がいい,とグリーシャに警告したのだそうだが,果たして,グリーシャの小屋にたどり着いたとき,中にいたのはナスターシャだった。

なぜ,ナスターシャがややこしい女だと言われるのか? それは,彼女には親が決めた結婚相手がいるからである。彼女の実家・チュマコフ家では,ナスターシャを金持ちの材木商ロジノフに嫁がせようとたくらんでいた。しかし,ナスターシャは密林に住むグリーシャのもとに逃げ込んでしまったのである。チュマコフ家の連中が黙っている筈がない。

この後,物語は

  • チュマコフ家の男たちによるナスターシャの拉致
  • グリーシャによるナスターシャの奪還
  • 虎に襲われたグリーシャを救うナスターシャ
  • ジプシー女に心を奪われるグリーシャ
  • 再び虎に襲われたグリーシャの死
  • バボーシンに芽生えた,寡婦ナスターシャへの恋心
  • グリーシャの遺児とともに仔虎を育てるナスターシャ
  • ナスターシャから離れ,満洲の密林の中に消えるバボーシン

というように,息もつかせぬほど劇的に展開する。

台詞回しは古めかしいが,一気に読める面白い小説だ。

この小説のタイトル『牝虎<めとら>』が意味するのは,狩猟の対象であるアムール虎のことではない。美しく力強く,男たちを惹きつけて止まないナスターシャのことである。

ナスターシャがグリーシャの遺児とともに仔虎に母乳を与えるシーンは,衝撃的であると同時に聖母像のように美しく崇高でもある。


◆   ◆   ◆


物語自体も面白いが,原作者バイコフと訳者上脇進の関係も興味深い。

バイコフ(1872年,キエフ生まれ)は,いわゆる白系ロシア人で,満洲に住んでいた。満洲の密林とそこに住む動物たちを描いた作品で知られるが,特に『偉大なる王』はよく知られている。

上脇(1899年,鹿児島生まれ)は満洲・新京語学院に務めていた折,バイコフと交友を深めた。バイコフの作品をいくつか訳出しているが,そのうち,この『牝虎』は1943年に満洲日日新聞・大連日日新聞両紙に連載されたものである。

翻訳権は満洲日日新聞が所持していたが,第二次世界大戦終結とともに,同社は消滅。また,バイコフも終戦の翌年1946年3月15日にハルピンで発疹チフスのため死去した(と,本書の「はしがき」「あとがき」には記されている)。

これで,著作権者も翻訳権者もいなくなったわけで,「従って,翻訳,出版の権利が存するものとすれば,まず訳者より外に所有する者はない筈と思う」(『牝虎』278頁)と上脇は主張している。

ここまでは「ふーん。そんなものか」と思っていたわけだが,バイコフについて調べてみると,訳者の主張と違うことがわかってきた。

『牝虎』は1950年に万有社から刊行されたのだが,その際,上述の通り,上脇は1946年にバイコフが病死したものとしている。

ところが,バイコフは死んではいなかった。終戦直後,バイコフは中国を縦断し,香港にたどり着いていた。そしてそこから海を渡り,オーストラリアにたどり着いた。そして1958年3月6日にブリスベンで死去したわけである。墓は同地にある(参照)。

上脇は1962年に死去するが,死ぬまで,終戦翌年のバイコフの病死を信じて疑わなかったのだろうか?やはり,通信事情の悪い時代のこと,オーストラリアにバイコフが移り住んだことを知るすべはなかったのだろうか?

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2017.09.04

『馬賊の「満洲」 張作霖と近代中国』を読む

ラオス出張中,毎日わりと忙しくて一冊だけしか本が読めなかった。

読んだのはこれ,澁谷由里『馬賊の「満洲」 張作霖と近代中国』(講談社学術文庫)のみである。

著者は中国近代史が専門で,浅田次郎の『中原の虹』の歴史考証を担当したことがある。

日本での張作霖のイメージは?というと,おそらく

「馬賊の親分で,中国東北部に勢力を張っていて,関東軍の傀儡だったが,利用価値無しと判断した河本大作大佐らによって爆殺された」という

というぐらいのものだと思うが,本書を読むとだいぶイメージが変わる。


◆   ◆   ◆


そもそも,「馬賊」とは何か,という定義をきちんと済ませてから本書は張作霖の話を進める。

本書の定義(本書30ページ参照)では,「馬賊」というのは,満洲で活動している匪賊全般(これを胡子<フーヅ>と呼ぶ)のカテゴリーの一つであり,次のような特徴を持つ:

  • 少なくとも頭目・副頭目は騎馬
  • 「保険隊」「大団」という名称で縄張りを持つ
  • 縄張り内の有力者の支援を受ける
  • 支援者の財産を襲うことはなく,むしろ防衛する
  • 縄張り外で匪賊として活動する

ということで公権力がまともに機能しなくなった時代・場所に登場した,一種の武装自衛集団ということになる。

張作霖が馬賊の親分だったのは事実だが,別に関東軍の支援で成り上がったわけでなく,張作霖個人の才覚と周囲の人々の協力によって,馬賊の頭目→地方軍の幹部→軍閥の総帥へと成長を遂げたことが,本書では詳述されている。


◆   ◆   ◆


張作霖政権(通称:奉天派)の成立に関して重要なことは,王永江という清廉潔白で優れた行政家がいたことである。

王永江は警察制度や税制の改革に腕を振った(保境安民)。警察制度の近代化によって張作霖政権は馬賊集団からの脱皮を果たした。また,税制の改革によって張作霖政権の財政状況は好転した。

張作霖の軍事的な才能と王永江の行政手腕とが相俟って,奉天派は有力な軍閥政権として地位を固めた。張作霖は王永江に厚い信頼を寄せ,宴会の席次は同等とし,呼び方もただ一人,「卿」としたという(本書145ページ)。

後に,張作霖が地方から中国全土へと勢力拡大の野心を抱き,北京での政権闘争に積極的に関与するようになると,張作霖と王永江の間には隙間風が吹くようになる。やがて,王永江は北京政権への介入をやめない張作霖の下を離れる。張作霖は王永江に復帰を求めたが,王は故郷に閑居して1927年に生涯を閉じた。王永江の死の翌年,張作霖は河本大作大佐らの謀略によって爆殺された。


◆   ◆   ◆


張作霖が日本軍と関係を持っていたことは事実だが,傀儡という表現はあたらない。清朝や民国政府の力が及ばず,また日本やロシアなどの列強の介入が著しく,政治・軍事・社会・経済的に不安定極まりない状況にあった中国東北部/満洲に現れた,自主自立的な政権として張作霖の政権をとらえなおす必要がある。

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2017.08.13

エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』を見てきた

YCAMでエドワード・ヤン(楊徳昌)監督『クーリンチェ少年殺人事件』が上映されているので,観てきた。

実際に台北で起こった,少年による殺人事件をモチーフにした映画である。

1991年の作品の4Kレストア・デジタルリマスター版。英語のタイトルは"A Brighter Summer Day"。劇中に流れるプレスリーの曲"Are you lonesome tonight?"の一節から採られた。

Gulingjie

伝説の傑作との噂にたがわぬ映画で,3時間56分を費やして観た価値があった。

舞台は,1960年代初頭の台北。喧嘩に明け暮れる不良グループ,少年の淡い恋心,不器用な外省人一家。社会には閉塞感と焦燥感が蔓延,若者たちはこれに鋭敏に反応し,暴力や一時的な享楽に耽る。小津と『ゴッド・ファーザー』の間に位置する映画だという「ヤヌス・フィルムズ」の評価はまさにその通り。

ストーリーをものすごく簡単に述べると,小四(シャオスー)という少年が,可憐で薄幸な少女・小明(シャオミン)に恋したところ,ファム・ファタルでした,という話(もちろんそんな簡単な話ではなく,既に述べたように,当時の世相,若者たちや家族の生きざまが丹念に描かれている。だから4時間近く必要なのだ)。小明に係った男性はみな,エライ目に遭う。なんか『吉祥天女』の叶小夜子を思い出したぞ。

男たちがエライ目に遭うのは,小明のせいではない。男たちが小明を善導しようなどと思いあがるからである。

"你怎麼就是不明白? (どうしてわからないの?)
這個世界是不會為你而改變的, (あなたはこの世界を変えることはできない)
我就好像這個世界, (私はこの世界とおなじ)
是不會為你而改變的! (変えることなんかできないわ)"

(字幕では「私を変える気? この社会と同じ,何も変わらないのよ」)

という小明の諦観に基づく発言は,小四のみならず若者たちの希望を完全に打ち砕く。

台湾の若者たちが希望を持てるようになるには,1990年代の李登輝総統による民主化を待たなくてはならない。

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2015.08.12

人民元基準値切り下げ:この夏は中国にやられっぱなし

昨日,中国が人民元の基準値を1.9%切り下げた。

その時の日本市場の反応はそれほど過剰なものではなく,日経平均株価の終値は前日比で88円下がった程度だった。

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一夜明けても日経平均株価の始値は20633円でそれほど下がってはいなかった。しばらくはそこから持ち直すような感じだったのだが,10時を過ぎたころから一転,急激な下落が起こった。中国がさらなる人民元の切り下げを行ったからである。

連日の切り下げから,市場では中国の経済状態が相当悪くなっているのではという懸念が広がったわけである。

7月の上旬と下旬にそれぞれ上海総合指数が大幅下落し,世界の市場を揺るがせたことがあったが,今度は通貨切り下げショック。この夏は中国にやられっぱなしである。


ただ,今回の中国の人民元の切り下げは,より実態に即した為替レートに移行しようとする自由化の動きでもある。

人民元の対ドル基準値のコントロールはこれまでに議論の対象になっていた。

人民元の為替レートは基準値の上下2%までしか変動させられない。これを利用して中国の中央銀行である中国人民銀行は意図的に基準値をコントロールしてきた。

しかし,これからはそういうやり方を改め,前日の取引を考慮に入れる方針を示した。それがたまたま(意図的かもしれないが)今回,連日の切り下げという形で世界にショックを与えてしまったわけである。

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2015.07.21

中国歴代王朝の不安定度指数を考えてみた

このところ,宮崎市定の『中国史』を断続的に読んでいる。ようやく下巻の近世史(宋以降)に入った。

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この通史を読みながら思ったのが,中国歴代王朝の安定度ないし不安定度を表す方法は無いかということ。

とりあえず思いついたのが,ある皇帝の「在位年数の逆数」を「不安定指数」として,その皇帝の治世の各年に割り振る方法である。

不安定指数[代/年] × 在位年数[年] = 1[代]

という式が成立する。

このとき,在位年数は宮崎市定流に,即位の翌年を元年とし,最終年(没年)までを数えるものとする。あと,旧暦で考えることとする。

例えば清朝の乾隆帝の在位は西暦1735年10月8日から1796年2月9日(旧暦だと1995年末)なので,在位年数は1736年から1795年とする。

そうすると,在位年数は60年で,不安定指数は1/60=0.017[代/年]となる。乾隆年間の各年には不安定指数0.017を割り振ることとする。

このような作業を明朝と清朝でやってみた結果が次の図である。

Dynastyver1_2

明朝なんか,在位1年程度の洪熙帝や数か月程度の泰昌帝のところできついピークが現れるわけである。清朝の場合はラスト・エンペラー宣統帝のところでピークが出現するが,その他の皇帝たちの治世では明朝に比べてそんなにエッジが立っていない。

明朝と清朝が重なっているところ(1616年~1644年)はいわば動乱の時代である。このあたりはもっと不安定指数が上がるべきだろう。

そういう反省をもとに,新たなルールを加えてみる。

併存する王朝がある場合には,不安定指数に併存する王朝の数を掛ける

明朝と清朝が重なっている期間はそれぞれの王朝の不安定指数を2倍するわけである。そういう補正を行うと,次の通りとなる。

Dynastyver2_2

この指数にはまだまだ改善の余地があるとおもうが,王朝末期や帝位簒奪がある場合にはだいたい皇帝の在位期間が短くなるから,不安定度をある程度表しているのではないかと思っている。

以下は宿題:

○皇帝が単に長生きするだけで不安定度が低くなるのはいかがなものか?
○長い治世の間には農民反乱などがおきるのではないか?
○短い治世だからと言って不安定とは限らないのではないか?(たとえば,雍正帝の治世(1723~1735年))

これからおいおい改良していく予定。

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2015.07.13

加上説:古い話はあとから作られる

宮崎市定の『中国史』の古代編を読んでいると,「加上説」というのが出てくる。

神話時代の物語は,古い時代に関する話ほどあとから作られたものである可能性が高いという説である。

これを加上説というが,日本神話でも同じようなことがあると言われているので両方を取り上げてみた。

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下の図は日中の神話に対する加上説を並べて図示したものである。

Kajousetsu


まず,中国の神話時代の帝王たちの系譜について。

孔子は理想的な帝王の姿として周の文王・武王を描いた。これに対抗して墨子は文王・武王よりも前に手本とするべき帝王として禹を置いた。これにさらに対抗したのが孟子で,禹の前に,堯・舜といった帝王を置いた。老子・荘子の流れをくむ道家はさらに古い時代の帝王として黄帝を置き,農業の専門家たちである農家は神農をその前に置いた。易学を専門とする儒家の一派はさらに前に伏犠を置いた。

ということで,春秋戦国時代の学者たちは自分たちの学問の祖となる人物をライバル学派の祖の前に置くということを繰り返し,その結果,古代帝王の長い系譜が出来たというわけである。これが中国神話の加上説であり,宮崎市定『中国史(上)』の166~167ページに出てくる。


つぎに日本の記紀神話の加上説について。

これは4年ほど前,本ブログの記事「松前健『日本の神々』(中公新書)を読む」で紹介したので採録になる。松前健『日本の神々』の文章をもう一度引用しよう:

イザナギ・イザナミの国生み神話は,もともと淡路島付近の海人の風土的な創造神話,天の窟戸神話は,もと伊勢地方の海人らの太陽神話,スサノヲの八岐大蛇神話は,出雲の風土伝承,天孫降臨は宮廷の大嘗祭の縁起譚,というように,記紀の各説話はめいめい異なった出自・原素材を持っている。それらの原素材は,それだけで完結していて,互いに無関係であったに違いない。ところが,ある一時代にこれらの説話を操作し,これらを人為的に一定の構想をもって,結びつけ,大和朝廷の政治的権威の淵源・由来を語る国家神話の形とした少数の手が感じられるというのである。(松前健『日本の神々』189~190ページ)

つまり,大嘗祭の縁起譚として天孫降臨神話があり,天孫降臨神話の前の話として天の窟戸神話が結び付けられ,天の窟戸神話の前の話として国生み神話が結び付けられた可能性があるというわけである。

ちなみになぜ,天の窟戸神話と天孫降臨神話が直接結びつき,八岐大蛇神話が脇に追いやられているのか,という疑問がわくかもしれないが,そのあたりは本ブログの過去記事「アメノイワヤト神話と天孫降臨神話は直結していた」をご覧いただきたく。

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もし加上説が正しいとすると,史書に記された歴史のうち,信ぴょう性の高い部分が短くなり残念な思いをする人もいるかと思われる。

しかし,それは史書に記載された歴史,つまり文書化された歴史が短くなっただけのことである。

考古学が教えるように,中国の場合,彩陶文化や黒陶文化といった文化が太古に栄えていたことは確かであるし,日本の場合も,紀元前145世紀から紀元前20世紀にいたる長期間にわたって高水準の縄文文化が栄えたわけである。文字になった歴史が短くとも嘆く必要はない。

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2015.07.12

中国史の時代区分

中国史に限らないのだろうが,時代区分をどのように設定するか,ということは中国史をどのように認識しているのかを如実に表す重要な作業である。

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宮崎市定以前には3分法というものがあった。

<戦前・守屋美都雄ほか>
古代: 上古~戦国末
中世: 秦漢~明末
近世: 清初~現代


<戦前・内藤湖南ほか>
古代: 太古~後漢
中世: 後漢~五代
近世: 宋以後


<戦後・唯物史観>
古代: 上古~唐末
中世: 宋~明末
近世: 明末~現代


これらのうち,真ん中の内藤湖南説では,太古から後漢までを古代とするが,これは漢,すなわち古代帝国の成立と維持を古代の歴史的潮流の頂点とする考え方である。西洋史においてローマ帝国を古代の頂点としているのと同じ考え方である。そして,中世を貴族制度の時代,近世を庶民勢力の台頭の時代としてとらえ,時代を区分している。

これに対し,戦前の守屋美都雄らによる3分法では皇帝制度の成立と発展維持の期間を中世としている。清朝以後に関しては西洋の影響が加わっているので近世。しかし,この区分法では中世が長すぎるという問題がある。

唯物史観は労働制度による区分法である。古代は奴隷制度,中世は農奴制度,近世は自由労働制度という考えに基づいて時代区分を行っている。この枠組みでは例えば唐の佃戸は農奴ととらえられている。しかし,宮崎市定が指摘するように,唐律によれば佃戸は小作人に近く,契約によって労働に当たる者である。また唐代には他に奴婢,部曲という身分があり,奴婢は奴隷,部曲は農奴に比定される。つまり唯物史観で中世とされる時代には複数の労働制度が混淆しているわけで,単純に労働制度によって時代を区分することはできない。


というわけで,上述の3つのうち2つの3分法にはいろいろと難がある。これらの3分法に対し,宮崎市定は4分法を唱えている。すなわち,


<宮崎4分法>
古代: 太古~漢代
中世: 三国~唐末五代
近世: 宋~清末
最近世: 中華民国以後


基本的には内藤湖南の3分法を継承している。ただし,西洋文化の衝撃を踏まえ,清と中華民国との間に区切りを設けるという考え方である。

宮崎史観では,経済や権力のダイナミズムが重視される。

古代というのは,バラバラだった中国の都市国家が次第に統一され,経済活動が一層盛んになる求心的傾向が見られる時代のことである。中世というのは中央政府が弱まり,皇帝と貴族たちとが強調したり対立したりを繰り返す,遠心的傾向が見られる時代のことである。この遠心的傾向が再び求心的傾向に転じるのが宋代以降の近世である。


本書ではなく,『大唐帝国』という宮崎市定の著した別の本には,宮崎史観を如実に表す概念図が示されている。

宮崎市定は中国歴代王朝の経済活動の状況を「景気」と呼び,それをグラフ化したものを「中国史上景気循環概念図」と名付けて同署に掲載している(『大唐帝国』,431ページ)。

中国史上景気循環概念図」を書き直したものを下に示す(20世紀以降の状況は小生が独断と偏見で書き加えた)。

Keikijunkan
中国史上景気循環概念図」(宮崎市定『大唐帝国』,431ページに基づく。20世紀以降加筆)

この図によれば,中国史の中世とは大いなる景気の谷間の時期である。群雄割拠して人々が不安に苛まれていた時代であり,経済活動も一進一退であったというわけである。


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2015.07.07

宮崎市定『中国史』を読む

先々月,先月と,東洋史学の泰斗・宮崎市定の著書,『中国史』が上下巻に分けて岩波文庫から上梓されたので,購入し昨日から読書中。

中公文庫で出ているこの人の本はほとんど購入し,岩波文庫のものもいくつか読んでいるが,中国の通史はこれが初。

小生の頭の中では,宮崎市定(東洋史),中村元(仏教),井筒俊彦(イスラーム)が三大東洋学者であり,文庫本が出たら読まなくてもすぐ購入することにしている。

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この通史を貫くのは上巻の総論に記述されているように,歴史は単なる事実の集積ではなく,論理の体系であるという主張である。それも抽象的な論理ではなく,「事実の論理」の体系でなくてはならないということ。

読者の中には,早く古代から現代にいたる歴史の流れを知りたくて,上巻の総論を読み飛ばしたいと思う人もいるだろう。しかし,上巻の総論こそが宮崎史学のエッセンスなので,じっくり読むべきである。

かつてE. H. カーが『歴史とは何か』の中で「歴史は現在と過去の対話である」と述べた。しかし,いまいち小生にはピンとこなかった。

ところが,今回,『中国史』の総論を読んでいたら,歴史というものの意義についてはっきり述べている箇所があって,心中の霧が晴れた。

人間の実生活には,絶えず将来を予測し,将来に備えながら,現在の瞬間を生き,新しい歴史を作っていく一面と,また絶えず過去を振返って過去を整理する一面とがある。そして過去を整理しておかなければ,明日の生活に支障を来すことになるのである。過去はそのまま消えて行くものではなく,その中の必要な部分は将来に再生する。だから過去を整理するという仕事は,それ自身が生活の進行なのである。何だか反対の方向に向いているように見えて,実際はそのいずれも,我々が生きて行く間に起る,生活の営みに外ならない。(『中国史 (上)』,33ページ)

歴史の意義が明確になったので,今後も安心して歴史書を読み散らかすことができる。

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2015.05.11

3年ぶりに台湾に行ってきた件(その8)黒岩の八寶冰

台湾旅行4日目(5月6日)。いよいよ午後から帰国するのだが,その前に宿泊先のホテルからさほど離れていないところに,話題のかき氷屋があるというので,訪ねてみることにした。

行き先は「黒岩」という店。MRT行天宮駅の4番出口から歩いてすぐ。「台北ナビ」でも紹介されている。

Xingtian4

4番出口を出て右の通り(写真だと左側の自転車が並んでいるところの通り),錦州街と言われている道を進む。

Jinzhou01

どんどん進む。

Jinzhou02

すると現れたのが「黒岩」の看板。

Heyyuan01

早く来すぎたのか,シャッターが閉まっていた。この時朝10時30分。近づいてみると開業は11時からということ。なので,近くの松江市場やその周りの八百屋を回ったりして時間を潰すことにした。

Shop01

Shop02

↑ブロッコリーは「1粒」と数えるらしい。

Heyyuan02

11時になったのでいよいよ「黒岩」に再チャレンジ。台湾名物「八寶冰」70元を注文した。ツマは「黒岩糖剉冰(4様)」50元。4様というのは白玉団子の様なものとか緑豆とかタピオカとか4つの具材(トッピングというかボトミングというか)を選べるということ。八寶冰の方は初めから8つの具材が入る。

Heyyuansweets

まずこれ(↑)が「黒岩糖剉冰(4様)」。黒蜜のタレがかかっている。

Papaoping01

つぎにこれ(↑)が「八寶冰」。黒蜜のタレかと思ったら,ジャムのような味もした。大変おいしい。「八寶」が埋もれて見えないが,食べ進めると見えてきた(↓)。

Papaoping02

店内の壁にはファンシーな絵が描かれており,ゆるい感じがしてとても良い。

Heyyuan03

Heyyuan04

Heyyuan05

この猫(↑)が見つめるシャボン玉の中には「台北101」が映っている。


◆   ◆   ◆


黒岩で八寶冰を楽しんだ後は,行天宮などを見学し,そのあとはホテルからバスに乗って桃園国際空港へ。

あれこれ食道楽した台湾旅行も終わり,チャーター機で宇部へと戻った。

Toube

好吃,台湾。再見,台湾。

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