2018.09.17

周作人とどう付き合うか

丸川哲史『竹内好』(河出ブックス)を断続的に読んでいる。竹内好と周作人との関わりについて論じた第二章を読み終えた所である。

周作人は魯迅の実弟であり,日本語や英語にも通じた文学者であった。日中戦争中,汪精衛率いる親日政権に参与したため,戦後は対日協力者として断罪された。

日中戦争の顛末は,終戦後70年余り経った現在でも日中関係に影を落としており,今後も延々と日中戦争における事実関係ならびに思想的側面について問い直しを続けていかなくてはならないだろう。その問い直しの中で,周作人はキーパーソンの一人として重点的に研究されるべき存在である。

「周作人が現在に至るまで『対日協力者』として名指しされ続けていることは,つまり日本人にとって彼との『尽きることを知らぬ対話』が終わっていないこと,また現時点で終わる可能性がないということを意味していよう。戦争には,必ず戦後処理があらねばならない。そしてさらに戦争はまた,敵側への協力者という特殊な人間を生み出すのであった。その意味でも,『対日協力者』という特殊な身分にかかわる問いは,日本人の戦争責任の中にさらに深い思想的問いを遺したと言えよう。」(丸川哲史『竹内好』,73~74ページ)

今年になって,中島長文訳注の『周作人読書雑記』が平凡社東洋文庫から上梓された。周作人研究の好機到来と見るべきだろう。

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2018.09.14

丸川哲史『竹内好』を読む

丸川哲史『竹内好』(河出ブックス)を読んでいるところ。

本筋と離れたところで面白いと思ったことをメモしておく。


「支那」と「中国」

戦前から戦中にかけて,日本人は中国のことを「中国」と呼ぶ一方で「支那」とも呼んでいた。戦後,ほぼ自動的に「支那」という呼び方はなくなり,「中国」に統一されていった。

「支那」という言葉は,"China"と同様,「秦」に由来する呼称で,本来は中立的なものだった。ところが,近代以降の日中関係の中で,しだいに侮蔑的な意味を含むようになっていった。それが,日本が敗戦するに至り,「支那」という呼称はまずいということで,出版界では,なし崩し的に「中国」という呼称に書き換えられることとなった。

しかし,「支那」が安易に「中国」に書き換えられる事ことに対して,竹内好は批判的だった。

竹内好の考えを本書の著者は簡潔にまとめている:

「『支那』というこのマイナスの負荷を帯びてしまった言葉を通じて中国を理解し切ること,『支那』という言葉が十分に消化されるまでそれを使い切るという態度を表明した。すなわち,そのことで日本人として中国に向かい合う主体性を確保しようとしたように読める。」(丸川哲史『竹内好』,23ページ)

だが,戦後社会の変化は歩みを止めず,竹内好もまた「中国」という呼称を受け入れながら言論活動を続けざるを得なくなる。

ちなみに,「支那」という呼称が主流を占めていた時代に竹内好が所属していた団体の名称は,「中国文学研究会」だった。


◆   ◆   ◆


「何かのための文学」と「そうでない文学」

日本では,娯楽や教養や啓蒙を目的とした文学を「大衆文学」とし,その対極に「純文学」を据える。

中国では「大衆文学」に当たるものとして「通俗文学」があるが,「純文学」に当たるものが無い。

「通俗文学」の対極にあるのは「『何かの為にする文学』ではない文学」である,とするのが竹内好の考えである。その例として魯迅の文学がある。

「『何かの為にする文学』ではない文学」であれば,やはり日本の「純文学」ではないか,と思われるが,日本の「純文学」は非政治性を特徴とする。ところが,魯迅の文学は政治との関わりを持ちつつも文学としての自覚もある。そういった文学のことを本書では「まじめな文学」という言葉で表している。

以下,竹内好『魯迅』の文章の孫引き:

「魯迅の文学は,現われとしてはいちじるしく政治的であり,彼が現代中国の代表的文学者であると称されるのもその意味においてであるが,その政治性は,政治を拒否することによって与えられた政治性である。彼は『光復会』に加わらなかった。」(丸川哲史『竹内好』,42ページ。原文は竹内好『魯迅』,23ページ)

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2018.09.11

また中国関係の本買ってる

東京出張の帰りにまた神保町の東方書店に寄ってしまった。

そうしたら,新古本を格安で売っていたので,3冊も買ってしまった。いかんいかん。

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丸川哲史『竹内好』(河出ブックス)とウォレン・I. コーエン著・川嶌一穂訳『アメリカが見た東アジア美術』(スカイドア)と諏訪春雄・川村湊編『アジア稲作民の民俗と芸能』(雄山閣)。

スカイドアってギャラリーで,出版事業もやっていたようだが,今はどうなっているのだろうか?

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2018.07.06

三皇とは?

中国哲学書電子化計画」に収められた古典を拾い読みすることが日課となっているというのはすでに述べた。

後漢末期,応劭によって書かれた『風俗通義』の「皇覇」の章には「三皇五帝」の「三皇」について諸説がまとめられている。

三皇とは

  • 伏羲,女媧,神農である(『春秋運斗樞』説)
  • 伏羲,祝融,神農である(『禮號謚記』説)
  • 虙戲(=伏羲),燧人,神農である(『含文嘉』説)

このほか,『易経』では伏羲と神農だけが触れられており,燧人のことには触れていないという。

要するに,伏羲と神農は確定。あとの一人に女媧が入るか,祝融が入るか,燧人が入るか,ということである。


◆   ◆   ◆


伏羲(Fu Xi)について

さて,伏羲は『易経』の著者とされ,同書「繋辞伝下」にはその業績が次のように記されている:

いにしえの世は伏羲(包犧)の天下であった。伏羲は天文地理,鳥獣の様相を観察し,その成果をもとに八卦を作り,これを用いて神明の徳を理解し,万物の本質を見極めた。

また,縄を結んで網をり,狩りや漁をした。これらはまさしく「離卦」を参考にしたのだろう。

古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文,與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。

作結繩而為罔罟,以佃以漁,蓋取諸離。

八卦を作ったということはさておき,伏羲は人々に狩猟を教えた文化英雄なのである。


神農(Shen Nong)について

易経』によれば,神農は伏羲没後の指導者である。「繋辞伝下」にはその業績が次のように記されている:

伏羲の没後,神農が頭角を現した。木を切ったり曲げたりして農具を作り,天下に広めた。これらはまさしく「益卦」を参考にしたのだろう。

日中に市場を開いて天下の人々や品物を集め,交易させて帰らせた。品物が人々に適切に配分された。これはまさしく「噬嗑」の卦を参考にしたのだろう。

包犧氏沒,神農氏作,斬木為耜,揉木為耒,耒耨之利,以教天下,蓋取諸益。

日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸噬嗑。

つまり,神農は人々に農耕を教えた文化英雄ということになる。

神農は農耕を教えたほかに,薬草・毒物の分類を行った偉人としても知られている。そのあたりは例えば,『淮南子』「脩務訓」に記されている:

ここにおいて神農は民に,五穀の種の撒き方,農地の適否,乾漆肥痩高低などを教え,また多種の植物の滋味,水源の良し悪しを味わい,民に利用すべきか忌避すべきかを理解させた。まさにこの時,神農は毎日70回もの中毒に遭ったという。

於是神農乃始教民播種五穀,相土地宜,燥濕肥墝高下,嘗百草之滋味,水泉之甘苦,令民知所辟就。當此之時,一日而遇七十毒。

神農はいつもいつも中毒になっていたため,寿命が短くなったという。


◆   ◆   ◆


女媧(Nu:wa)について

女媧は伏羲の妹と言われている。例えば,北宋の字書(韻書)『廣韻』「上平聲・佳」の章には

女媧:女媧伏羲之妹

と記されている。

その業績だが,

  1. 土を捏ねて人類を作った。
  2. 笙のリード(簧)を作った。
  3. 天地が傾いたとき,それを修復した。

という。三番目の天地修復に関しては『列子』や『淮南子』に記されている。二番目の笙のリード作成に関しては『礼記』「明堂位」や『説文解字』巻六に記述がみられる。

ただし,一番目の人類創成については小生はまだ出典資料を見つけていない。

なお,唐代に書かれた『三皇本紀』によれば,女媧,そして上述の伏羲は頭が人間で体が蛇という姿だったという。伏羲と女媧は夫婦だったともいい,人類はこの二匹の蛇神様によって作られたようでもある。


燧人(Suiren)について

燧人の燧は火打石である。その名の通り,人々に火の起こし方,火を使った調理法を教えた文化英雄である。いわば,プロメテウス。

『韓非子』「五蠹」にはこのように書かれている:

人々は果実や貝類を生のまま食べていたが,生臭く,腹痛を起こすなど,病気が多発していた。そのとき聖人が現れ,火打石で火を得て調理する方法を民に教えた。人々はこの人物に天下の統治をまかせ,燧人氏と呼んだ。

民食果蓏蚌蛤,腥臊惡臭而傷害腹胃,民多疾病,有聖人作,鑽燧取火以化腥臊,而民説之,使王天下,號之曰燧人氏

狩猟を教えた伏羲,農耕を教えた神農と並べるのであれば,火の使い方を教えた燧人が相応しいような気がする。

ちなみに,『韓非子』「五蠹」には,人々に住居を作ることを教えた「有巣氏」という人物が登場する。この人物も三皇レベルの偉人なのだが,三皇に数えられたことはない。


祝融(Zhurong)について

祝融の業績について述べた資料はあまり見つからない。後漢の班固が書いた『白虎通徳論』巻一によれば,

祝とは属の意,融とは続の意。三皇の道を継承(属続)して,よくこれを行ったので,祝融と呼ぶ

祝者,属也。融者,續也。言能屬續三皇之道而行之,故謂祝融也

とあるが,伏羲・神農の行いをトレースしたというだけでは何者なのかよくわからない。

『管子』「五行」によれば,南方を司る神だという。また,『春秋左氏伝』昭公29年秋,魏献子と蔡墨の会話中に,祝融とは火を司る長官で,五帝の一人・顓頊が息子の犂(れい)を祝融に任じたという話が出ている。

まとめると,南と火を司る神を祝融と呼び,後の五帝の時代にその名の官職ができた,という感じだろうか?

ちなみに先に触れた唐代に書かれた『三皇本紀』によれば,共工という者が天下の覇権を狙って祝融と戦って敗れ,不周山にぶつかってこれを破壊し,天地が崩れかけたという。それを修復したのは先に触れた女媧である。


◆   ◆   ◆


以上,三皇についていろいろと書いた。

文化英雄としての伏羲・燧人・神農はまあいいとして,人類創成・天地修復に従事した人頭蛇身の女媧や南方と火炎の神様,祝融などは,もう完全に神話の世界である。

司馬遷が三皇の時代をカットし,史記の最初にもっと人間らしい帝王たち・五帝の物語を置いたのは,合理的な判断だと言えるだろう。

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2018.07.05

麒麟がケンカすると日食が起き,鯨が死ぬと彗星が現れる?

先日,『群書治要』の紹介をして以来(参照),「中国哲学書電子化計画」に収められた古典を拾い読みすることが日課となっている。

宋の太宗が毎晩3巻ずつ読んでいたという,宋代初期の類書『太平御覧』の「天部七・妖星」の章を読んでいたところ,

『春秋考異郵』曰く,鯨魚死して彗星出づ

という面白い話が出ていた。鯨が死ぬと彗星が出るのだそうだ。

『春秋考異郵』という書物は知らないが,『淮南子』「天文訓」にも同じ話が出ていた:

麒麟闘而日月食,鯨魚死而彗星出,蠶珥絲而商弦絶,賁星墜而勃海決。

「麒麟が闘うと日食や月食が起こり,鯨が死ぬと彗星が出現し,蚕が糸をはくと弦が切れ,流星が落ちると大海が溢れる」ということである。陰陽に関するたとえ話,つまり天界での動きと地上の動きはリンクしているよ,という話なのだろうが,あるいはこういう言い伝えが中国のどこかにあったのだろうか?

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2018.06.29

『群書治要』の内容

この度,細川護熙元首相から寄贈された4175冊の漢籍の中に『群書治要』という,日本に残存していた書物が含まれていた,ということはすでに述べた(参照)。また,習近平国家主席と『群書治要』には浅からぬ縁があることも述べた。

では『群書治要』とはどのような書物なのか?

これは,春秋戦国から晋代までの様々な書物から国家統治に関する部分を抜き書きして作った,統治論のアンソロジーなのである。

全50巻の各巻の内容は以下のとおりである:

  1. 周易
  2. 尚書
  3. 毛詩
  4. 春秋左氏伝上<欠落>
  5. 春秋左氏伝中
  6. 春秋左氏伝下
  7. 礼記
  8. 周礼,周書,国語,韓詩外伝
  9. 孝経,論語
  10. 孔子家語
  11. 史記上
  12. 史記下,呉越春秋
  13. 漢書一<欠落>
  14. 漢書二
  15. 漢書三
  16. 漢書四
  17. 漢書五
  18. 漢書六
  19. 漢書七
  20. 漢書八<欠落>
  21. 後漢書一
  22. 後漢書二
  23. 後漢書三
  24. 後漢書四
  25. 魏志上
  26. 魏志下
  27. 蜀志,呉志上
  28. 呉志下
  29. 晋書上
  30. 晋書下
  31. 六韜,陰謀,鬻子
  32. 管子
  33. 晏子,司馬法,孫子
  34. 老子,■冠子,列子,墨子
  35. 文子,曽子
  36. 呉子,商君子,尸子,申子
  37. 孟子,慎子,尹文子,荘子,尉繚子
  38. 孫卿子
  39. 呂氏春秋
  40. 韓子,三略,新語,賈子
  41. 淮南子
  42. 塩鉄論,新序
  43. 説苑
  44. 桓子新論,潜夫論
  45. 崔寔政論,昌言
  46. 申鑒,中論,典論
  47. 劉■政論,蒋子万機論,政要論
  48. 体論,典語
  49. 傳子
  50. 袁子正書,抱朴子

ここで,第34巻「■冠子」の■は鶡(カツ)という漢字であり,ヤマドリという意味である。
また,第47巻「劉■政論」の■は廙(ヨク)という漢字である。劉廙は魏の政治家。曹操と曹丕に仕えた。

上述のリストのうち,<欠落>としているのは日本でも既に失われている巻である。春秋左氏伝,漢書からの抜粋部分が抜け落ちているわけだが,これらはメジャーな中国古典なので,どのあたりが抜粋されていたのかは,予測可能である。従って欠落した巻があってもそれほど問題は生じない。

実際に内容を見たいと思えば,江戸時代・弘化3(1846)年に刊行された『群書治要』を国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。

また,電子化された『群書治要』を読もうと思えば,中国哲学書電子化計画で読むことができる。

つまり『群書治要』は唐代に亡失されたとはいえ,すでに電子化され,日本でも中国でも自由に閲覧し研究できる状態にある。

今回,細川元首相が寄贈した漢籍の中に『群書治要』が含まれていたことは,学術的な意義よりも外交的な意義が大きいといえるだろう。

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2018.05.24

東方書店で『中国質屋業史』を購入

東京出張のついでに神保町の東方書店に立ち寄り,同書店刊行の本を買ってきた:

浅田泰三『中国質屋業史』(東方書店,1997年)

この本によると,質(抵当)をとるという行為は大昔から存在するが,業として質屋が営まれるようになったのは南北朝時代らしい。

南朝の仏教寺院が経営する「寺庫」が最初の質屋業ということである。

坊主丸儲けとはこのことかと。

最初は伽藍建立や慈善のための資金を稼ぐことが目的だったらしいが,後には単なる金儲けと化していく。唐代になると民営の質屋業(質庫),宋代になると官営の質屋業が加わり,質屋業は隆盛を極める。

この本で初めて知ったのだが,「寺庫」の発展を支えたのは,当時の仏教界にあった「福徳」思想と「無尽蔵」思想なのだという。

福徳思想とは,善行を施すことによって幸福と利益が得られるとする思想である。

そして,無尽蔵思想とは,日本における「頼母子(たのもし)」と同じで,母子が無限に続くように,金が利を生み,利が利を生むことによって無限に利が生産されるという思想である。

そもそもの原始仏教にはこれらの思想はなかったと思うのだが,古代・中世の中国仏教(三階教)ではこういう思想が広がっていたようである。

なお,現代の中国語では質に入れることを「典当(ディエンダン,diǎndàng)」という。

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2018.05.07

趙汝适『諸蕃志』を読む

引き続き,「四庫全書」に収められた書物の話。

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『諸蕃志』は南宋の官僚・著述家,趙汝适の著作。趙汝适は北宋太宗より8世の子孫である。

泉州の市舶司だったときに,地理・風土・物産に関する海外情報を集め,この本をまとめた。

これもまた,ネット上で読むことができる:

諸蕃志』(維基文庫,自由的圖書館)


『諸蕃志』は上下2巻に分かれ,上巻は地理・風土,下巻は物産を記している。

  • 卷上 志國 交趾國 占城國 賓瞳龍國 眞臘國 登流眉國 蒲甘國 三佛齊國 單馬令國 凌牙斯加國 佛囉安國 新拖國 監篦國 藍無里國 細蘭國 闍婆國 蘇吉丹 南毗國 故臨國 胡茶辣國 麻囉華國 注輦國 鵬茄囉國 南尼華囉國 大秦國 天竺國 大食國 麻嘉國 層拔國 弼琶囉國 勿拔國 中理國 甕蠻國 記施國 白達國 弼斯囉國 吉慈尼國 勿厮離國 蘆眉國 木蘭皮國 勿斯里國 遏根陀國 海上雜國 渤泥國 麻逸國 三嶼 蒲哩嚕 流求國 毗舍耶 新羅國 倭國
  • 卷下 志物 腦子 乳香 沒藥 血碣 金顏香 篤耨香 蘇合香油 安息香 梔子花 薔薇水 沉香 箋香 速暫香 黃熟香 生香 檀香 丁香 肉豆蔲 降眞香 麝香木 波羅蜜 檳榔 椰子 沒石子 烏滿木 蘇木 吉貝 椰心簟 木香 白豆蔲 胡椒 蓽澄茄 阿魏 蘆薈 珊瑚樹 琉璃 猫兒睛 珠子 硨磲 象牙 犀角 膃肭臍 翠毛 鸚鵡 龍涎 瑇瑁 黃蠟 海南

例によって日本(倭国)の項を読んでみると,冒頭はこんな感じである:

倭國在泉之東北,今號日本國。以其國近日出,故名。或曰惡舊名改之。

訳: 倭国は泉の東北にある。今は日本国と号する。日の出に近いので,そのように名付けた。倭という旧名を憎んで,解明したという話もある。

有水牛、驢、羊、犀、象之屬。

とも書かれているが,日本には水牛や犀や象はいない。誤情報。

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2018.05.06

張燮『東西洋考』を読む

東西洋考』は明代の文人,張燮によって編まれた地誌・歴史書である。万暦45(1617)年発刊。

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乾隆帝の勅命により編纂された「四庫全書」に収められているのだが,中国の人々は大したものでテキストデータがアップされており,自由にネット上で読むことができる:

四庫全書」(維基文庫,自由的圖書館)
東西洋考』(維基文庫,自由的圖書館)

『東西洋考』は全12巻から成り,各巻の内容は以下の通りである:

  • 卷一 西洋列國考 交阯〈清化 順化 廣南 新州 提夷〉
  • 卷二 西洋列國考 占城 暹羅〈六坤〉
  • 卷三 西洋列國考 下港〈加留[𤣩+巴]〉 柬埔寨 大泥〈吉蘭丹〉 舊港〈詹卑〉
  • 卷四 西洋列國考 麻六甲 啞齊 彭亨 柔佛 丁機宜 思吉港 文郎馬神 遲悶
  • 卷五 東洋列國考〈東番考附〉 呂宋〈大港 南旺 玳瑁 中邦 呂蓬 磨荖央 以寧 屋黨 朔霧〉 蘇禄〈高藥〉 貓里務〈網巾礁老〉 美洛居 文萊 東番考〈鷄籠淡水〉
  • 卷六 外紀考 日本 紅毛番
  • 卷七 餉稅考〈清化 順化 廣南 新州 提夷〉
  • 卷八 稅璫考
  • 卷九 舟師考
  • 卷十 藝文考
  • 卷十一 藝文考
  • 卷十二 逸事考

老生としては,柬埔寨(カンボジア),柔佛(ジョホール),日本の項が興味深い。

日本の項を読んでみると,秀吉に関してこういう記述がある:

倭自平清盛秉政,一門並據要路,為淫暴於國。萬曆十四年,平信長為關白,其義子平秀吉者,先是母為人婢,得娠,欲勿舉,念有異徵,育之。秀吉幼微賤,販魚為業,醉臥樹下。信長出獵,吉驚起衝突。將殺之,見其鋒穎異常,因留養馬,名木下人。嗣從征伐,有功為大將。已而信長為明智所殺,秀吉與行長誅明智,廢信長子自立為關白。倭奴既盛,散入諸國間。萬曆初,使臣封琉球,聞中山王往往為倭所苦。至十八年,阻中山王勿通貢,閩撫以聞。朝議置腥氈不問。

二十年正月,秀吉帥行長、清正等入犯朝鮮。朝鮮承平久,武備盡弛,王李昭聞變恇怯,遂陷三道。太妃及世子為倭所執,昭北走義州,絡繹告急。遣祖承訓往援,全師皆沒。上震怒,以來應昌為經略,率大將軍李如鬆督諸將東征,渡鴨綠江,戰平壤,大破之。倭奴宵遁,我師追討,遇伏發,戰碧館,師遂少挫,自是連戰不利。大司馬石星度內閣有厭兵意,力主和議。以布衣沈惟敬往遊說焉。倭遣小西飛來議貢。〈顧養謙、孫钅廣相繼為總督,俱掣肘不得展。〉中朝力陳其偽,章滿公車。大司馬持之堅,上為下禦史曹學程於獄,至論死。於是中外莫敢言。乃遣臨淮勳衛李宗城及沈惟敬持冊封秀吉為日本國王。使至,秀吉不受封,宗城遜還。朝鮮陪臣李元翼知關白無意罷兵,議乘釜山漸弛,作攻復之計,為惟敬所阻。久之,倭益肆,羽檄旁午,和議訖不成。上始暴大司馬星誤國狀,下獄論死。

二十五年,邢玠為經略,楊鎬為經理。鎬誓師躬自督戰,屢破清正,圍秀吉。秀吉糧盡請和。鎬曰:「受降不受和也。」倭窘甚。會大雨雪,我師沾濕,不得駐,倭突圍出戰,我師敗歸。鎬坐奪職。萬世德為經理。無何秀吉死,倭人反首拔舍而還。世德追破之,斬獲甚夥,朝鮮以寧。

(『東西洋考』巻六,日本)

信長と秀吉の姓は平ということになっている。そして,秀吉は信長の義子とのこと。秀吉は「幼微賤,販魚為業,醉臥樹下」,つまり若い頃は貧しく,魚を販売して生計を立て,木の下を寝所としていたと書いてある。信長が明智に殺されたので,明智を誅し,信長の子を廃して,自ら関白になったとも書いてある。

細部に誤りがあるものの,わりと正しく伝わっているといのが老生の感想。

むしろ,同時代の日本の人々はこんなには知らなかったのではないかと思う。

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2017.12.10

千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読む(続)

だいぶ前に出た本である。ちょっと前にも紹介した(参考)が,もう一度,読書感想文を書いてみる。

著者は歴史地理学者。

著者は本書で「日本の神道を論じようとしたのではない。伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめようと試みた。」(217頁)

とはいえ,「アマテラスの誕生」に触れないわけにはいかない。第1章「アマテラスの旅路」第2章「中国思想と神宮」では,海洋民の信仰する太陽神が,道教(北極星信仰)と融合し,国家神へと昇格するプロセスが描かれている。

国家神アマテラスが伊勢に鎮座する理由については,東を聖とする思想と,大和と伊勢の位置関係をもとに論じているが,この説などは以前に紹介した西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書)で語られていた「伊勢・大和・出雲の関係性」を思い起こさせてとても興味深い。

「伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめよう」という本書の意図のため,国家神アマテラスの誕生に係る議論は,第1章・第2章に限られており,老生としては物足りない感じがする。

しかし,律令期にアマテラスが国家神として奉祀されたことが,その後,中世・近世・近現代の日本とアジアの関係に影響を与えてきたことを描出した第3章「神国の系譜」,第4章「近大の神宮」,第5章「植民地のアマテラス」は,それはそれで興味深い。

アマテラスに対する民間信仰なかりせば,明治以降の神道の(ほぼ)国教化というのはありえない。しかし,植民地政策の一環として台湾・朝鮮・満洲に神宮創祀が行われたのは,本来の信仰から逸脱していると言わざるを得ない。

戦後,国家と神道とが分離されたことは,伊勢神宮とアマテラス信仰に本来の姿を取り戻させることになったものと見ることができよう。そういう歴史的文脈を踏まえれば,戦後に折口信夫が

「神道にとって只今非常な幸福の時代に来てゐる」

と発言したのはよく理解できる。

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