梅棹忠夫とモンゴル語
「モンゴルはわたしにとって,あこがれの国だった。中央アジアの高原のさわやかな空気にふれたかったのである。」(梅棹忠夫『実戦・世界言語紀行』岩波新書205)
さて先日,モンゴル・ウランバートルに出張した。ウランバートルに行くのはこれで2回目である。
温品廉三『モンゴル語のしくみ』や橋本勝『ニューエクスプレスプラス モンゴル語』でちょっと勉強してきたが,ちょっとのことでは歯が立たないのがモンゴル語。
日本語の「う」や「お」にあたる母音が全部で4種類もあり,とても聞き分けできない。
以前ご紹介した(ご参考),エル="Л (L)"の発音。これも手ごわい。「無声歯茎側面摩擦音」と言い,「ひ」とか「し」に聞こえる。
あとは"Х(kh)"がやたら多いが,これはまあ,ロシア語で練習済みなので,「か」と「は」を合わせたつもりで喉の奥で発音すればよい。
結局,現地ではご挨拶の
"Сайн байна уу?" (サェン バイノー)
ぐらいしかできなかったわけである。
(「ありがとう」を意味する,"баярлалаа"なんか,巻き舌р (r)と無声歯茎側面摩擦音л (l)が混在していて文字通り舌が回らない)
東南アジア諸国と違って,モンゴル人はお愛想で笑ったりしない。なので,通じたかどうかも不明のまま。
…ということで老生は苦戦していたモンゴル語だが,冒頭にあげた梅棹忠夫はあこがれの国の言葉ということで,実用上困らない程度にマスターしていた。
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『実戦・世界言語紀行』の第2章「アジア大陸の奥深く」の半分はモンゴル語の話である。
1944年の春に蒙古聯合自治政府・張家口市に蒙古善隣協会・西北研究所が設立された。所長は今西錦司。梅棹忠夫は今西についていくことを決め,この研究所の嘱託(後に所員)となった。
モンゴルの牧畜社会を研究するにはモンゴル語が不可欠ということで,梅棹忠夫は勉強を始めた。まずは読み書き。なんと,というか当時としては当たり前のことなのだが,縦書きのモンゴル文字の読み書きを学んだということである。
読み書きの次は会話である。1944年5月に梅棹忠夫は西北研究所に着任するが,張家口市は漢族の街なので彼のモンゴル語会話力はなかなか上達しない。モンゴル人の間に入らないとダメだ,と思っていたところ,粛親王府の牧場を訪れる機会に恵まれた。ここでモンゴル人に囲まれて生活する中,ひと月ほどで日常会話ができるレベルになった。
日本語が使えない状況になると外国語が上達するというのはよく言われることである。モンゴル語ではなく,英語であるが,老生もそういう経験がある(上達したというよりも恐れずに話せるようになっただけ)。
梅棹忠夫のモンゴル語力はめきめきと上達。しかし,いよいよ本格的に研究を始めようとしたところで終戦。残念ながら大陸から引き上げざるを得なくなった。以後,数十年にわたってモンゴルに渡航することができなくなった。
しかしながらモンゴル語の能力を生かす機会は意外なときにめぐってくる。アフガニスタンのモゴール族探検(1955年)がそれで,この探検については『モゴール族探検記』(岩波新書青版F-60)に詳しいので,そちらをご参照ください。