2025.07.09

陳舜臣『孔雀の道』読了

孔雀の道

この物語は昭和43年,梅の蕾がようやく膨らみかけた頃に始まる。

昭和16年,神戸に生まれ,14歳まで日本で育った英日混血児ローズ・ギルモアは,13年ぶりに故郷の地を踏む。

英語教師として女子大学に赴任するためだが,本当の目的は,戦中にスパイ容疑で捕まった英国人の父と戦後直後に火災で死んだ日本人の母の謎を解くためだった。

ローズの手伝いをするのは,インド帰りの三十歳そこそこの男性,中垣照道。ローズが渡日する際に乗っていた客船ウーチャン号の同乗者で,日本への船旅の間に知り合った。聡明でしっかりしたローズと好対照で頼りない感じの宗教家だが,ローズを精神的に支え続ける。

神戸,小諸,金沢,広島と日本各地を巡りながら,ローズと中垣はローズの母の謎に迫る。そして見えてきたのは戦前・戦中の諜報活動,ギルモア夫妻の愛憎劇。

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主人公たちは推理ゲームの駒ではなく,ちゃんと生きている。悩みながら前進していくところが良い。一種の青春小説ですな,これは。

日本推理作家協会賞受賞作というだけある。

陳舜臣は歴史作家として知られるが,昭和物もうまい。

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2025.01.06

小池正就『中国のデジタルイノベーション』を読む

この正月,ツマの実家に行ったのだが,移動中の車中や機上で読んでいたのが,これ。

小池正就『中国のデジタルイノベーション』(岩波新書,2022年)

である。

著者は衆議院議員を務めたこともある研究者というかコンサルタントというか,いくつもの肩書がある人で,中国の清華大学で客員研究員を務めていた経歴を持つ。

本書が出版されたのは,コロナ禍の影響がまだ残る2022年。生成AIブームの前なので,内容は若干古いが,今なお驀進する中国社会のデジタル化の背景というか土壌を知るには丁度良い新書である。

中国のデジタル化とかイノベーションというと,どうも政府あるいは共産党主導というイメージが強い。それは間違いではないが,実は民間が自主的に進めてきた部分も大きい,というのが本書では力説されている。

その顕著な例と言えるのが,ブロックチェーンである。ブロックチェーンの応用ビジネスと言えば,暗号資産(暗号通貨)がまず頭に浮かぶが,中国では2021年に暗号通貨関連業務が全面的に禁止となった。では,中国ではもうブロックチェーンは根絶されたのか?と言うとそうではない。食品やブランド品の通販・流通プロセスにおいて,産地や生産者の偽装を防ぐための手段として利用されているのである。著者が「上に政策あれば,下に対策あり」という中国のことわざを引いて説明しているように,政府の規制があっても,便利な技術,とくにデジタル技術は,どんどん利用するというマインドが中国社会にはある。

 

本書では「イノベーション」という言葉があらゆるところに登場するが,この言葉を正しく使っているので安心した。

「イノベーション」を「技術革新」のことだと思っている人がまだまだ大勢いるが,著者はシュムペーターの定義を正しく踏まえて,「新しい組み合わせによる新しい価値の創造」(p. 19)と言っている。

「インベンション(発明)と混合されがちだが,イノベーションは必ずしも新たな発明や技術革新が求められるものではなく,それらを実際に適用および活用し新たな価値を広げることを示している」(『中国のデジタルイノベーション』p. 19)

この定義を踏まえれば,デジタルイノベーションにおいて大事なのは,デジタル技術そのものではなく,デジタル技術を活用する社会経済環境であるということがわかる。

本書の冒頭「はじめに」で,著者はこう語る:

「現代日本における中国のデジタルイノベーションに関する議論も,表面的かつ部分的なアウトプットだけに焦点を当てた傾向が気になるところである。確かに日本にない物珍しさや利便性を確かに伝えたいという感覚は理解できるものの,SNS投稿と同程度の表面的な情報を基に「日本でも」と企業や政府が総力を挙げてみても,等しく普及するかは難しい。アウトプットとしての成果物を生み出した体制や国民性,社会基盤等の土壌を理解せずして同じ花を咲かせることは困難である」(『中国のデジタルイノベーション』p. ix - x)

同じ主張は最終章「日本にも「プラス」とできるか」でも繰り返される。

著者はアバナシー・クラークのイノベーションの分類に基づいて,日本が今後目指すべきイノベーションの姿を「創設型イノベーション」および「隙間開発型イノベーション」としている。なぜなら,これらのイノベーションは新たな市場価値を生み出し,経済成長を促すからである。ただし,技術革新と市場開発が両立する「創設型イノベーション」はめったに起きるものではない。実際,中国で進むデジタルイノベーションを見ると,それは主として「隙間開発型イノベーション」であることがわかる。既存の様々なビジネスで生じる問題をデジタル技術で解決し,市場拡大につなげているからである。もし中国に倣うとすれば,とりあえずは「隙間開発型イノベーション」を目指すことが日本にとっては重要であろう。

そして「創設型イノベーション」または「隙間開発型イノベーション」を実現しようとすれば,必要なのは何か。著者は次のように語る:

「創設型イノベーションや隙間開発型イノベーションが市場の創出に達するために重要なのは,国内であろうが海外であろうが,「その市場での生活習慣や商習慣はどうなっているのか,その中での課題は何か,潜在的に評価されそうな価値は何か,受け入れられるために必要な体制は」といった,観察眼や嗅覚に基づく市場と技術双方への深い理解である」(『中国のデジタルイノベーション』p. 142)

そしてこうした行為を支えるのが,

「「今その価値がないのであれば創ってしまおう」という起業家精神と,彼らの挑戦と失敗を受け入れる社会の風潮である」(『中国のデジタルイノベーション』p. 142)

と著者は続ける。

起業家精神と失敗に対する寛容性。これらを備えているのはアメリカ社会であり,中国社会である。日本もビジネスの土壌をそのように変えることができるのかどうか。著者はその変化を促すために日々奮闘している。で,老生はというと,老生はもういい年齢なので,あとは若い人たちに期待する。

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2024.09.20

紀蔚然『台北プライベートアイ』を読む

紀蔚然『台北プライベートアイ』(船山むつみ訳,文春文庫)が面白い――と高野秀行がXに書いていた。

よく行く宮脇書店には見当たらなかったが,明林堂書店で見つけたので購入。

台湾気分を味わおうと思って,中華航空の機内で読みふけった。面白かった。

 

主人公は呉誠(ウー・チェン)と言う。大学で英語や演劇を教えていたのだが,公私の人間関係が破綻したことをきっかけに退職。臥龍街(ウォロンジェ)に引っ越し,私立探偵(Private eye)を始めることになった。

攻撃的な発言をしてしまう癖があるというのは,他の探偵小説の主人公にもありそうな話だが,パニック障害をもっている主人公というのはこれまでになかったように思う。

呉誠が髭もじゃの容貌だということに気が付いたのは,この小説の半ば,第十一章に入り,呉誠が連続殺人事件の容疑者として逮捕されてからだった。

髭もじゃでサファリハットの男,呉誠とはどんな容貌か? この疑問は著者の写真を見たらすぐに氷解した(紀蔚然 - 傑出校友 - 輔仁大學公共事務室 (fju.edu.tw))。

 

推理自体はそれほど複雑なものではない。台北の人々の暮らしの描写や主人公・呉誠の考察が読みどころである。

例えば,台湾人の運転の荒さ,クラクションの使い方についての考察:

「台湾人は研究開発を重ねて,クラクションの強さと長さでさまざまな情報を伝える手段を編み出してきた。礼儀正しい「多謝<ドーシャ>(ありがとう)」,「歹勢 <パイセ>(すみませんね)」から,警告のための「気をつけろ」,「目を覚ませ」,挑発を意味する「度胸があるなら,やってみやがれ」,「絶対無理」,「道路はおまえのもんじゃねえ」,驚きを表す「おいおい」,「こんちくしょう」,「ふざけんな」,それから,もちろん,怒髪天を衝く「XXXX!さっさと行きやがれ!」がある。」(『台北プライベートアイ』104ページ)

このすぐ後には台北の街並みに関する考察が続く:

「あくまでも実用的な台湾人は,そもそも美しいか,美しくないかを理解する気もない。どんな物であれ,暮らしを立てるための論理で有機的に繁殖させてしまうので,台湾の風景はなんともいわれぬ独特の情緒を醸し出し,その醜さには親しみをともなう一種の特殊な美が生まれている」(『台北プライベートアイ』105ページ)

主人公が自らの酒癖の悪さについて述べた部分:

「酒の度胸というのには二種類ある。一つは酒を飲む度胸のことであり,もう一つは何度もアルコールに浸されることによって膨れ上がった度胸のことである。おれはその両方に特別に恵まれており,これまで何度となく,酒を飲んでは失言し,他人をめちゃくちゃに攻撃した。」(『台北プライベートアイ』165ページ)

 

教養と深い洞察力を持ち合わせているものの,パニック障害を抱え,失言・暴言癖を持つ主人公・呉誠が,果たして初めて依頼された事件を解決することができるのか,また,殺人の容疑を晴らすことができるのか,さらにまた,近所づきあいはどうなるのか,そして恋愛関係は進展するのか,最後まで目の離させない探偵小説である。

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2024.08.23

『ワープする宇宙』|松岡正剛に導かれて読んだ本

宇宙論は趣味レベルで好きだが,宇宙論に関する本は専門書から一般書まで非常に多く,どの本を読むのか決めかねる。

選書にあたっては,誰かの導きがあるとありがたい。

リサ・ランドールの『ワープする宇宙』(NHK出版)を手にしたきっかけは,松岡正剛の導きによるものだ。

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我々が住むこの宇宙は,上下・左右・前後を示す空間の3次元に時間を加えた4次元でできているというのが従来の考え方だが,その他にも余剰の次元がある,という説が提案されている。リサ・ランドールはその説を提唱している科学者の一人である。

本書のあらすじはAIたちに任せることとして,老生の手元にあるこの本の見開きには松岡正剛の添え書きとサインがある。

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宇宙論は空気が澄み切った冬の夜にふさわしいのかもしれない。

セイゴオの訃報は21日に耳にした。巨星墜つ。

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2024.07.11

Azureの勉強をする本

いつまでもクラウドサービスから目を背け続けるわけにはいかないので,Microsoft Azureの勉強を始めた。

まずは,ただで勉強ができるMicrosoft Learnをやってみたのだが,英文直訳風の文章と,単に英単語をカタカナに直しただけの用語だらけなので,いきなり挫折。

デジタルネイティブな世代の方々であればMicrosoft Learnの方が良いのだろうが,当方,昭和生まれの紙ベース人間なので,本を読んで学修する方針に転換。

いろいろな書籍がある中で,挫折せずに読み通せたのがこれ,

新井 慎太朗著『1週間でMicrosoft Azure資格の基礎が学べる本』(インプレス)

である。

一日あたり20~30ページずつ読んで,1週間で読み終えるという仕組み。

とにかく一日1時間確保できれば,飽きたり挫折することなく1週間で最低限の知識を身に付けることができる。

1日分終わったところで知識整理のための問題が7~9問出てくる。これを解くことで,やり遂げた気持ちになる。

 

小生の場合,6日目に2日分を読んだので,この本を6日で終えることができた。

そして7日目にMicrosoft Learnに戻ってみたところ,あら不思議,すいすいと説明文を読むことができ,確認問題も解け,バッジやトロフィーをもらうことができた。

慣れって大事。そして慣れるためには何でもよいので優しい解説本を読み切ることが大事。高校や大学の受験と同じです。

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2024.05.23

『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む

有志舎からこの春に刊行された『<学知史>から近現代を問い直す』を読んでいる。

「学知史」という言葉は聞きなれない言葉だが,人文科学諸分野(歴史学とか思想史とか)の学説史・研究史を横断的に研究する方法論(リサーチ・メソドロジー)である。とは言っても形成途上の方法論なので,スタイルは固まっていない。

本書には大正期から最近までの様々な分野の研究の歴史をまとめた論文が収められている。

例えば斎藤英喜「『日本ファシズム』と天皇霊・ミコトモチ論―丸山真男,橋川文三,そして折口信夫―」とか山下久夫「『文献学者宣長』像をめぐる国学の学知史―芳賀矢一・村岡典嗣・西郷信綱・子安宣邦・百川敬仁―」とか。

学説史・研究史というのは研究者ありきなので,具体的な研究者名がサブタイトルに登場する。やはり人は人のことを知るのが好きなんですよ。

さて,面白そうな論文がひしめき合っている中,最も目を引いたのが,

栗田英彦「ポスト全共闘の学知としてのオカルト史研究―武田崇元から吉永進一へ―」

である。

最近「オカルト2.0」なんか読んだから「オカルト」に過剰反応する。

この論文,出だしの一文が良い:

「近年,オカルト(オカリティズム・エソテリシズム)史研究が国内外で脚光を浴びている。」(『<学知史>から近現代を問い直す』280ページ)

まさしくそんな気がする。

以降,オカルト史(エソテリシズム史)研究の日本代表として吉永進一を取り上げ,その研究の変遷,アプローチ手法のみならず,ニューウェーブSF読書経験やオカルト体験についても概説してくれる。要するにこの論文はほぼ吉永進一の評伝となっている。

栗田氏は吉永進一の発言を踏まえて,その研究姿勢を次のようにまとめている:

「つまり,アカデミズムのエティックな概念で対象化することで安全な立場に立つ,つまり「客体として取り出して整理する」というのではなく,「自己に戻って」自分の問題として捉えることを重視する。その意味で「オカルト」とは実体的領域を示す客観的概念というよりは,むしろその実体性や客観性を掘り崩して,自分の問題として考えるための方法論的な概念として用いられていることがわかる。」(『<学知史>から近現代を問い直す』295ページ)

そういえば,先日読んだ「オカルト2.0」の著者もオカルトを研究対象としつつも,自分の問題として捉えていた。オカルト史研究の典型的な研究姿勢なのだろう。

竹内裕=武田崇元=有賀龍太からの影響のほか,浅田彰や安彦良和にも少し触れられていたりして,オカルト史研究というのは,在野とアカデミズムの境目の無い,学際的な領域なのだなぁと感心した。

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2024.05.22

トマス・リード『人間の知的能力に関する試論』を読む

昨年から時折,トマス・リードの『人間の知的能力に関する試論』(上下 戸田剛文訳 岩波文庫)を読んでいるのだが,トマス・リードの正直さには感心する。

何が正直かというと,わからないものはわからないと述べていることが正直だというのである。

例えば,あなたにAさんという友達がいるとして,あなたがAさんについて何を知っているかというと,Aさんの属性(背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとか)しか知らないでしょう,本質はわからないでしょう,ということをリードは述べている。

今の例では人物を取り上げたが,物でも現象でもおなじことで,リードは『人間の知的能力に関する試論』の中で,あらゆる対象について

属性は明確にわかるけど,本質はわからない

ということを述べている。

具体的には第5巻第2章「一般概念について」の中でこういうことを述べている:

「われわれがあらゆる個体について持っている,あるいは得ることができるすべての判明な知識は,その属性の知識である。というのも,われわれは,どのような個体の本質も知らないからだ。それは人間の機能の届く範囲を超えているように思える」(下巻141ページ)

もちろん,背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとかいった属性はAさんという主体なしには存在できない。赤い色は,赤い色をした自動車とか服とか具体的な主体がなければ存在できない。

だが,主体の本質となるとわからない。お手上げである。

「自然は,われわれに,思考することと推論することは主体なしには存在できない属性だと教えてくれる。しかし,その主体について,われわれが作ることのできる最良の思念も,そのような属性の主体だということ以上のことをほとんど含意していないだろう」(下巻143ページ)

今では,「複雑系」のように「全体は部分の合計よりも大きな何かである」という考え方がある。しかし,実際にわれわれが主体に関して語ることができるのは,属性の総和が関の山で,本質については想像以上のことを語ることはできない。

トマス・リードはスコットランド常識(コモン・センス)学派の代表格である。彼の著書には常識学派という通称に違わぬ考え方が示されている。

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2024.05.17

『オカルト2.0』を読む

竹下節子『オカルト2.0』を読んだ。

近年のフランスのオカルト事情や動物磁気説で知られるメスメル(1734~1815)の栄光と挫折の生涯など,興味の尽きない話題が提供されている。

著者はオカルトのビジネス化やカルト化に警戒しつつも,カオスの時代を生きる方法としての可能性を「オカルト2.0」に見出している。

死,病,事故,別れなど人生には避けられない「悲劇」もあるけれど,それはある意味で単純なものだ。その他に自分でややこしくこじらせているさまざまな心理的葛藤がたくさんあって毎日の現実を汚染している。

実存的な悲劇と心理的葛藤とを分けなくてはいけない。葛藤を一つひとつ解決する「治療」を求めるのではなく,それらを抱えたままで「大いなる健康」に向かう一つの方法がオカルト2.0であるかもしれない。(「あとがき」より)

従来のオカルトは正統的な科学や宗教の裏側に在ったり対抗していたりしたのだが,今や科学とオカルトは対立するものではなく,協調しうるものだ,というのが本書のスタンスである。

それにしても,ビジネス界隈で流行していた「コーチング」の源流が,神秘思想家ゲオルギイ・グルジエフやその影響下で形成されてきたエニアグラムにあったというのは初めて知った。不明を恥じる次第である。

オカルトとビジネスは実に相性が良い(有名な経営者がスピリチュアルなものに傾倒している例はいくつもある)。

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2024.05.07

ダイ・シージエ『バルザックと小さな中国のお針子』を読む

ダイ・シージエの『バルザックと小さな中国のお針子』を読んだ。

こんなあらすじである:

文化大革命下の中国。知識階級の子供と見なされた主人公と友人の羅(ルオ)の二人は下放された。

生まれ故郷の大都会・四川省の成都を離れ,電気もないド田舎,鳳凰山で農作業に従事することになった。

主人公と羅が住んでいる村には,時折,仕立屋がやってくる。その仕立屋の娘が表題の「お針子」である。「小裁縫」と呼ばれている。とても美しい娘で主人公と羅は恋をした。

毛沢東語録以外の本は所有禁止という状況下で,主人公と羅はフランス文学の翻訳本を入手した(盗んできた)。

娯楽に飢えていた二人はむさぼるようにそれらの本を読む。

そして,羅は小裁縫にバルザックなどを読み聞かせ,だんだんと親密になっていく。

羅は小裁縫に教養を付け,田舎には似つかわしくない洗練された女性に仕立てようとするわけだが・・・。

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フランス在住の中国人映画監督が綴る青春小説。

ある程度予想されていたことだが,最後のどんでん返しがとても良い。

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2024.04.30

『デルスウ・ウザーラ』読了

デルスウ・ウザーラ』(東洋文庫55)を読み終わった。

アムール川流域の先住民ナナイ(ゴリド)の猟師デルスウ・ウザーラと,ロシア人探検家アルセーニエフが,1907年から1908年にかけてシホテ・アリニ山脈を踏破する話である。

この本に感銘を受けた黒澤明がソ連の全面的協力の下,映画『デルス・ウザーラ』を撮り,モスクワ国際映画祭金賞やアカデミー賞外国語映画賞を獲ったのは有名な話。

はじめは一日1章のペースで読んでいたのだが,この本に描かれている状況が理解できるようになると読むのが早くなり,最後は2,3章まとめて読むようになった。

読者はデルスウの素朴な世界観と狩猟民族としての知恵に惹かれるだろう。

デルスウの世界観はアニミズムのそれであり,人間も動物も機能するモノも全て「ひと」と見なされる。

それらの「ひと」たちに対する知識や態度は,デルスウとの関わり合いによって濃淡が変化する。

天体に対してはわりと塩対応だ。こういうエピソードがある。

・・・1907年8月25日の夜明け,東の水平線付近に彗星が見えた。

アルセーニエフが率いる探検隊のメンバーたちは彗星が何を予言しているのかと議論し合った。

アルセーニエフがデルスウに意見を聞いてみたところ,次のように答えた:

「あれはいつも空をいく,人のじゃまはしない」彼はつまらそうに答えた。

自然を人格化してみる彼の考えではあるが,それでも彼は正しかった。彼は事物をそのあるがままに判断した。

(長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ』「第7章 シャオケムに沿って」より)

このあと,アルセーニエフが太陽についてもデルスウに訊いてみるのだが,これも面白い:

「デルスウ」私は彼にきいた。「太陽とは何かね?」

彼はふしぎそうに私をみて,こんどは彼の質問を出した。

「あんたみたことないのか。みなさい」彼はこう言って,手でちょうど水平線にのぼった太陽の円板を示した。

みんなは笑った。デルスウは不満だった。その太陽自体が眼前にあるのに,太陽とは何かと人にたずねる。彼はからかわれたように思ったのだ。

(同じく『デルスウ・ウザーラ』「第7章 シャオケムに沿って」より)

天体に対してはこんな様子だが,魚やカラスやトラに対しては深い洞察を示す。

 

デルスウはこの旅の途上,老いによる視力の低下にショックを受ける(とは言ってもまだ58歳だったのだが)。旅の終わり,アルセーニエフはデルスウを自宅に引き取ることにした。

しかし,都市の生活はデルスウにはなじまなかった。なぜ,薪や水に金を払わないといけないのか? なぜ,街中で猟銃を撃ってはいけないのか? デルスウはアルセーニエフのもとを離れ,森に帰っていく。

それから二週間ほどたったある晩,デルスウは寝ているところを,何者かに襲われ,殺される。加害者はロシア人と推定されるが,捕まらないままであった。

デルスウは,事件を聞きつけたアルセーニエフに見守られながら埋葬された。

その2年後,アルセーニエフはデルスウを埋葬した場所を訪れようとするが,その場所には町が広がっていて,もはや探し当てることができなかった。

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