2009.07.11

『海の帝国』第5章「文明化の論理」

さて、第5章。この章は「インドネシアの近代における『わたし』、カルティニのikとスワルディのsaya」(東南アジア研究34巻第1号、1996年)に加筆修正したものだという。

本章では、西欧によって、東インドというか東南アジアの住民の間に近代的自我意識が植え付けられたプロセスが語られている。

この地域の支配層である白人にとって、現地人たちは何を考えているのかわからない不気味な存在である。それならわかるようにしよう、ということで始まったのが「文明化」、ようするに西欧文明の強制である。

本章ではジャワ人の上流階級に属する、カルティニという若い女性が取り上げられている。彼女はオランダ語教育を受け、西欧的なものの考え方を身につけ、自己の中に「わたし」という自我意識を醸成した。

この自我意識の登場は画期的なものである。なぜかというと、内省したり想像したりすることが可能になり、さらに他人に伝えることが出来るようになったからである。

西欧化以前に内省や想像がなかったかというと、そうではないと思うが、明文化することができるようになったのは19世紀の西欧化によってだろうと思われる。

オランダ語教育を通して、多くのジャワ人は単に現状を追認するのではなく、あるべき理想像を求めるようになる。それが、インドネシア人意識、インドネシア国家意識を醸成し、後のインドネシア独立の基盤となる。

この章で19世紀の話は終わりを告げ、次は風雲急を告げる20世紀に移る。

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2009.07.10

『海の帝国』第4章「複合社会の形成」

「○○人」という民族意識が生まれたのは近代国家=リヴァイアサンのせいであるというのがこの章の内容である。

この章では、ラッフルズの書記として働いていたアブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カディール(1794年マラッカ生まれ。1854年メッカ巡礼途中、客死)という人物が紹介される。

この人の曽祖父はイエメン出身のアラブ人でインドで結婚し、その子(祖父)はインドを出てマラッカで結婚した。そしてその子(父)がマラッカでインド人の娘(母)と結婚してアブドゥッラーが生まれたわけである。アブドゥッラーはタミル語とマレー語、そしてコーランに通じ、アラビア文字でマレー語を書くこと(代書)ができた。当時としては知識階級に属する。

本書ではこの人物に欠けているのは国家や民族の概念であるという。アブドゥッラーにとって重要なのは出自のような社会関係であって、自分が何人であるとか、何国に住んでいるかということは重要ではなかった。しかし、その後、この地域において近代国家が整備されていくとともに状況は急変した。アブドゥッラーの3人の息子たちは「マレー人」として生きていった。

「○○人」というのは、近代国家が住民・土地台帳をまとめたり、統計を取ったりするために恣意的に作った分類である。しかし、いったん成立するとそれが思考の枠組みとなり、分類された人々の間に「○○人」意識が芽生える。本書では、オランダ人男性と現地女性との間に生まれ、オランダ語ができないにもかかわらず「オランダ人」に分類されたメスティーソの女性が子供たちにはオランダ語教育を受けさせ、本国のオランダ人に同化していくという例を挙げている。

西洋から持ち込まれた近代国家は、19から20世紀にかけて、この地域の住民に民族意識を植え付けた。そしてそれがこの地域の現在の国家や民族に関する考え方の基盤となっていったのである。

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『海の帝国』第3章「よちよち歩きのリヴァイアサン」

リヴァイアサンというのは近代国家のことである。リンク先のWikipediaの記事にあるように、ホッブズ以来、政治学の世界では国家の意味としてこの用語が使われるようになった。

「国家」という概念を定義するのは難しいが、本書では東南アジア各国の指導者が国家を乗り物に例えた事例を示している。ビルマ初代首相のウ・ヌーは英国から継承したビルマ国家を乗り物に例え、シンガポールの元外相ラジャラットナムはシンガポール国家を超音速のジェット戦闘機に例えた(小生もよくよく考えてみたが、日本だって「日本丸」という船に例えられることがある)。

こういう「乗り物」全般を一括して定義するとすれば、「足によらない移動手段」という抽象的な定義しかできない。「国家」も同じくらい抽象的に「支配の機構、装置」と定義してかまわないだろう、と本書では述べられている。

この「支配の機構、装置」は明らかに、それまでのマンダラシステムとは異質なものである。マンダラは王と王の主従関係、住民の親族関係、社会関係を存立基盤としていたのに対し、国家は法律、地図、住民・土地台帳などの統治技術を存立基盤としている。マンダラから国家への移行は連続したものではなく、国家は西洋によって、この地域にもたらされたものだと本書では述べられている。

1826年にシンガポール、マラッカ、ペナンで構成される「海峡植民地」が編成され、イギリス東インド会社による(非公式)海上帝国が運営されるようになると、その周辺のオランダ領東インドやスペイン領フィリピンも、これに対抗して新たな政治経済体制を構築し始めた。おぼつかない足取りだが、近代国家の歩みの始まりである。

本書で取り上げられている三つの植民地の現在の姿は次の通りである:


  • 海峡植民地: シンガポール、マレーシア
  • オランダ(領)東インド: インドネシア
  • フィリピン: そのままフィリピン

<海峡植民地>
海峡植民地国家は自由貿易が国是なので関税収入はほとんどない。そこで、国家の運転資金を中国人の経済活動から得た。すなわち、植民地政府がアヘンの独占販売権の入札を実施、これを落札した中国人が胡椒・ガンビル農園やスズ鉱山の中国人労働者に販売して利益を得る、という枠組みによって資金を得ていた。

<オランダ東インド>
オランダ東インド国家の場合、自由貿易ではイギリスに抗しきれないので、保護貿易主義に走った。ジャワ島において現地の農民に砂糖・インディゴ・タバコを強制栽培させ、ヨーロッパで販売し、収入を得た。このシステムを上手く運用するため、ごく少数のオランダ人指導層とジャワ人貴族出身の官僚による行政機構を構築した。

その一方で、海峡植民地の真似をしてアヘン請負販売制度を導入し、中国人がジャワ島農民にアヘンを販売した収益からも国家の運転資金を得た。

<フィリピン>
海峡植民地国家は胡椒・ガンビル農園・スズ鉱山の中国人労働者から収奪し、オランダ東インド国家はジャワ農民から収奪していたのに対し、フィリピンではそのような支配は行われなかった。

フィリピンは自由貿易を行い、活発な交易から関税収入(税率は低いだろうが)を得ることにした。そして、貿易の担い手としてイギリス人商人とともに中国人商人を歓迎した。その結果、フィリピンはイギリス非公式帝国の一翼を担うこととなった。と同時に中国人商人の活動に圧迫される形で、メスティーソ(中国人と現地人の混血)商人は高利貸しや地主に転出した。


さて、ここからはヨーロッパ・ユニバーサリスの話。

EU3は毎日のようにプレーしていて、小生のポルトガル領東インド海上帝国はこのようになっている:
ポルトガル海上帝国1770


フィリピン・ルソン島の植民が進み、あと、スンバワ、チモールなどにも植民地ができた。小生の海上帝国は、イギリス非公式帝国のラインとラッフルズのラインとの間に挟まれた領域に広がりつつあるが、とくに意味はない。現地人がおとなしくて暴動が起きにくい所に植民した結果である。

小生のEU3の世界は1770年代に至っているが、東アジアには明朝がでーんと構えており、東南アジアにはヴィジャヤナガル朝の領土が広がっている。また、西アジアではペルシア(何朝?)が勢力を増し、オスマントルコを押しつぶし、ヨーロッパに入り込もうとしている。防波堤はリトアニア大公国。

ヨーロッパではオーストリア、ブルゴーニュ、イングランド、カスティリア、アラゴン(そしてポルトガル)が覇を競い合っており、フランスが解体されつつある。

新大陸のうち、北米はブルゴーニュ、アラゴン、ポルトガルが三分しているものの、ポルトガル領内では「アメリカ合衆国」独立の気運が高まっており、早く「属国」として独立させてやった方が安全なのかどうか検討しているところである。中米は完全にポルトガル領であるが、「メキシコ」独立運動がはじまりつつあるので要注意。南米は北部+北西部をポルトガルが、東部をカスティリアが、南部をイングランドが支配しているが、ここでも「コロンビア」や「ブラジル」独立運動が起きつつあって油断できない。

アフリカは今のところ、ソンガイ、マリ、スワヒリなど各王国が健在。南アフリカにポルトガルが植民地を広げているぐらいでわりと平和である。というか「永久未知の領域」が広がっていて奥に進めない。まあ、20世紀に入るまで「暗黒大陸」(偏見)と呼ばれていただけある。

さて、今後のポルトガルの展開は?

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2009.07.09

『海の帝国』第2章「ブギス人の海」

『海の帝国』第2章「ブギス人の海」で語られるのは、東南アジアにおける政治経済システム:マンダラシステムの破壊である。この章では東南アジア史研究者であるオリバー・ウォルタース(Oliver W. Wolters, 1915-2000)の説に基づいてマンダラシステムが説明されている。

マンダラシステムというのは仏教画の曼荼羅にたとえた東南アジア独特の支配のシステムである。東南アジアにはムアンとかヌガラとか呼ばれる無数の小王国(といっても村ぐらい)が存在する。この小王国はいわば小マンダラと呼ばれる。小王国の王様たちが、自分たちの間で実力のある王をリーダーとして担ぎ上げる。この王様(地域リーダー)と小国王たちとの間で成立する主従関係が中マンダラ。地域リーダーの中でも実力のあるものが登場すると、それが大王になり、中マンダラと主従関係を結ぶ。これが大マンダラ。

マンダラシステムの特徴は、王様たちの力関係が変化して各王国の地位が浮沈することがあっても、基本的には滅亡しないことである。「併合」という考えが無い。

マンダラにはさらに海のマンダラと陸のマンダラがある。海のマンダラは港町を中心とする貿易主体のマンダラであり、陸のマンダラは農村を中心とする農耕主体のマンダラである。海のマンダラと陸のマンダラの間の力関係は、中国の王朝の貿易政策に左右される。

中国の王朝が朝貢貿易政策を採る場合、朝貢によって公認された海のマンダラが栄える。しかし、中国の王朝が海禁政策(鎖国政策)を採る場合、私貿易が盛んになり、公認された港を持つ海のマンダラの独占体制が崩れ、陸のマンダラも貿易に参加できるようになる。この場合、もともと地力のある陸のマンダラが優位になる。

このような海陸のマンダラの浮沈というか消長が東南アジアにおける歴史のリズムを生み出しているというのがウォルタースの説。

このリズムをぶっ壊したのが、16世紀にマラッカを占領したポルトガルであり、その後を引き継いだオランダであると本書では述べられている。18世紀始め、ブギス人の活動はこの海域で繁盛を極めていたものの、それはマンダラシステム崩壊による混乱の産物であったようである。そのためナポレオン戦争後、ジャワがオランダに返還されてみると、ブギス人にはマンダラシステムの覇権を握ることが出来ないことが判明、結局ラッフルズの構想による自由貿易システム=新マンダラシステムは成立しなかった。

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ラッフルズの海上帝国構想と小生のポルトガル海上帝国

白石 隆『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書1551、2000年)

第1回読売・吉野作蔵賞受賞作だそうである。

19世紀以降の東南アジアの政治経済システムに興味が沸き、この本を紐解いた。

なぜ、興味が沸いたのかというと、小生はこの頃EU3に嵌っており、(ゲーム内の時間で)18世紀半ばに至り、新大陸からアフリカ南部を経て東南アジアにいたる「ポルトガル海上帝国」を築き上げたからである。

東アジアおよび東南アジアにおいてわがポルトガルが強固な立場を築くためには、セイロン、バリ・ロンボク、マカッサル、カリマンタン、ルソン、台湾といった拠点をどのように連携し運営すればよいかについてのヒントを歴史に求めたわけである。

目次


  • はじめに
  • 第1章 ラッフルズの夢
    • マラッカ/ラッフルズの「新帝国」構想/秩序形成の二つの原理

  • 第2章 ブギス人の海
    • マラッカの情景/「ブギス人の世紀」/歴史のリズム

  • 第3章 よちよち歩きのリヴァイアサン
    • 近代国家とはなにか/海峡植民地国家/オランダ東インド国家/フィリピン国家

  • 第4章 複合社会の形成
    • アブドゥッラーの自己紹介/ラッフルズの都市計画/アイデンティティの政治

  • 第5章 文明化の論理
    • 植民地世界の成立/「文明化」のプロジェクト/近代政治の誕生/リヴァイアサンの二十世紀的展開

  • 第6章 新しい帝国秩序
    • 新しい地域秩序/ジャパン・アズ・ナンバー2/上からの国民国家建設

  • 第7章 上からの国民国家建設
    • タイ――「権力集中」から「権力拡大」へ/インドネシア――「権力集中」から「権力分散」へ/フィリピン――権力分散のシステム

  • 第8章 アジアをどう考えるか
    • 「日本とアジア」vs.「アジアの中の日本」/「海のアジア」vs.「陸のアジア」/「海の帝国」/これからどこに行くのか

  • あとがき
  • 参考文献と注

じつはこの本、2000年ごろに購入したものの死蔵。今年の冬にラオスに行った際に途中まで読んで休眠。そして今再読という、ヴィンテージモノである。

第1章、第2章のキーワードの一つがマレー半島の西岸に位置するマラッカである。同地にはマラッカ王国があり、15世紀以降、香辛料貿易の重要な中心として栄えた。16世紀初頭からはポルトガルの支配下に入り、17世紀半ば~18世紀半ばはオランダ東インド会社の支配下、そして18世紀終わりから20世紀半ばまでイギリスの支配下にあった。

ラッフルズは1811年にマラッカを訪れる。ラッフルズとはあのラッフルズホテルのラッフルズである。マレー語が話せた。当時、ナポレオン戦争のドサクサにまぎれて、イギリスは東インドのオランダ領を切り崩しにかかっていた。ラッフルズは現地の有力者の調略に当たっていたが、その中で構想したのが、イギリスによる海上帝国である。この海上帝国はベンガル湾からマラッカ海峡、スマトラ、ジャワ、バリ、セレベスを経由してモルッカ諸島、オーストラリアに至る広大な海域(ここではマレーとか、東インドとか曖昧に称されている)を支配するもので、次の2つの柱によって成立する:


  • (イギリスの)東インド総督がスルタン、ラジャなどの称号を持つマレー(東インド)の諸王の上に大王(ビタラ)として君臨するという「マンダラ」システムの構築
  • 東インドの島々にある諸王国を連携し、それぞれの地域・海域における防衛と自由貿易の振興にあたらせる。すなわち、自由主義経済システムの構築

ラッフルズの海上帝国がオランダの海上帝国と最も異なるところは、現地人をパートナーと見なすか、収奪対象と見なすか、という点である。ラッフルズは、セレベス島南西半島の住民であるブギス人・マカッサル人を重要なパートナーとして選んでいる。そして、ブギス人たちと連携して中国人、アラブ人、そして新興のアメリカ人に対抗しようとしている。

というように、ラッフルズはイギリスにとっても現地人にとってもバラ色のプランを立てたのだが、実際にはこうはならなかった。

実際に成立したイギリスの海上帝国(本書では「非公式」帝国と呼ばれている)はベンガル湾からシンガポール、香港を経て上海に至るV字様の軸線上に築かれた。ラッフルズの構想と現実の海上帝国の比較を下図に示す(地図は「白地図、世界地図、日本地図が無料」からもらってきた)。

Photo

現実がラッフルズの構想と異なった理由は数々あるが、本書では次のような理由が挙げられている:


  • ナポレオン戦争後、ジャワがオランダの支配権を取り戻したこと。これによりイギリスは東インドの島々への興味を失う
  • 当時、アヘン(インド産)が対中貿易の主要輸出品となったこと。この結果、イギリスはシンガポールを中継地としてインドと中国を結ぶ貿易に集中した
  • ブギス人の交易活動が1830年代以降衰えたこと
  • 中国人裏社会(黒社会)が植民地政府のパートナーとなり、アヘン販売、胡椒・ガンビル栽培から得た資金の一部を植民地経営に必要な資金として供給したこと

ラッフルズの自由主義経済システムは聞こえはいいが、自由貿易ではシステム基盤維持の資金を得られない。現実の植民地政府は中国人裏社会と結託して儲けることにしたわけである。表は自由貿易、裏は中国黒社会との結託という2つのやり方。これを著者は「秩序形成の二つの原理」と読んでいるのである。

先ほどの図であるが、小生のポルトガル海上帝国も灰色で塗って示している。ラッフルズの海上帝国ともイギリス非公式帝国とも違って、バリ・ロンボク、マカッサル、カリマンタン、ルソン、台湾という南北に長い形になっている。こんなので連携できるのか?

「海の帝国」、第1章しか紹介していないので続きはまた後ほど。

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2009.05.28

斎藤貴男『カルト資本主義』を読む

今週は斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫)を読んでいる:

カルト資本主義 (文春文庫)カルト資本主義 (文春文庫)
斎藤 貴男

文藝春秋 2000-06
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この本自体が「カルト」だ、「オカルト」だ、という批判もあるようだが、小生にはそれ程変な本には見えない。取り上げられているのは、ソニーESPER研、永久機関ビジネス、稲盛教、EM菌、脳内革命、アムウェイなどである。バラバラに見えるこれらの活動は根底でつながっており、カルト資本主義を成しているという。

この本で描かれているカルト資本主義の仕組みを、小生なりに大胆に要約すると、


  • カリスマ企業家は神秘主義、東洋思想、ニューエイジ思想から都合のよいところを切り貼りして独自の理論を立て、教祖となる
  • 社員や会員など被支配層はその独自理論を受け入れ、思考停止状態になり、便利な駒となる

ということになる。

ニューエイジに強く影響を与えた東洋思想の一つ、バラモン教の最高原理に「梵我一如」というものがある。宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個人の原理であるアートマン(我)とは同一のものであるという考え方である。この考え自体は無害だと思う。物質界においては、宇宙を構成する様々な法則が個人レベルにも作用する、という意味であると解釈すれば、物理学とも対立しない。

「梵我一如」の「梵」のいいところは、簡単に習得できないことにある。一生涯探求を続けても、あるいは修行しても掴み取ることはできないかもしれない。「梵」はそのぐらい深遠なものなので、「梵」の前では誰もが謙虚になる。

カルト資本主義で唱えられていることには「梵我一如」的な面があるのだが(ホロニズムとか家族主義とか)、問題は、梵に当たるものが誰かにとって都合のよい指導原理だということである。そして、指導層に作られた指導原理を無批判に受け入れた者は大人しい被指導層になってしまうのである。

指導層は必ずしも悪意を持って布教しているわけではなく、被指導層も指導原理を必ずしもいやいや受け入れたわけではないのだが、支配―被支配の構造が成立すること自体が最大の問題である。このあたり、『銀河英雄伝説』でヤン提督がユリアンを前にして開明君主ラインハルトについて語ったことを思い起こすとよいだろう。

本書の狙いは「無批判」を批判することにあると思う。ある真理が存在するとして、そこに到達しようとすれば、仮説を立て、議論を戦わせる必要があるだろう。これは洋の東西、学問、宗教などの分野を問わず共通した探求のスタイルである。カルト資本主義にどっぷり漬かっている人は思考を巡らせ、批判を戦わすような面倒な手続きを経ずに真理に到達したい、不精な人々なのであろうと思う。

この本に関するほかの人の書評として次の2つを挙げておく:

あと、カルトに対する批判を真宗大谷派のお寺がまとめているので、読者諸氏に参考として示しておく:
宗教入門:宗教にだまされないように

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2009.05.26

『山口の不思議事典』?

古川薫ほか編『山口の不思議事典』(新人物往来社、2007年)という本がある。

地元について多少なりとも知識を増やさねば、という思いから、図書館で借りて読んでみた。

どんなミステリーがあるのか、と期待したら、「山口県出身の八人の宰相とは?」とか、「宮本常一の業績は?」とか、それは「不思議」とは言わないのでは?と思う項目が目立った。

他にも「女忠臣蔵といわれる松田さつとは?」とか、「氏原大作の生きざまは?」とか、「大村能章とはどんな人?」とか、「小暮実千代は彦島のどこで育った?」いう、「誰それ?」という項目も。

そんなご愛嬌も多々散見される本ではあったが、以下、小生の興味を引いた項目とその回答を挙げてみる。

  • サバー送りとはどんなこと?――長門市に伝わる祭りで、日本各地にある「虫送り」行事の一種である。サバーとは稲の害虫一般のことで、主としてウンカを指す。ウンカは稲株に足をとられて討ち死にした斉藤別当実盛の生まれ変わりだという。長門のサバー送りではサネモリサマとサバーサマの2体の藁馬人形が村から村にリレーされ、最後は大浦の海岸から海に投げ入れられるという話
  • 全国の八割を占める、おみくじを作る神社とは?――女子道社。女性の地位向上を目指す運動の資金源として、おみくじの製造販売を開始したのだという
  • 萩はなぜ夏みかんの名産地?――明治になって禄を失った旧藩士たちの新たな仕事として夏みかん栽培が始まったから
  • 秋穂で車エビの養殖が始まったのはなぜ?――もともと天然のクルマエビの漁場だった→廃棄された塩田で完全養殖が始まった
  • 民話、厚狭の三年寝太郎は何年寝た?――当然、三年である。三年の熟考の末、佐渡から砂金を持ち帰り、厚狭周辺の村々の灌漑・開拓に投資したのだそうだ

あと、この本を読んで初めて、常盤湖が「東洋のレマン湖」と呼ばれてきたことを知った(本当か?)

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2009.05.01

木下長嘯子

安土桃山時代から江戸時代にかけて、木下長嘯子(きのした・ちょうしょうし)という歌人がいた。

手元に7世紀から17世紀に至る千年間の和歌の傑作を集めた『清唱千首』(塚本邦雄撰、冨山房百科文庫)という本がある。ここに収められた1000首のうちの10首、すなわち1パーセントは長嘯子の歌であり、撰者から非常に高い評価を受けているといえるだろう。

長嘯子の本名は勝俊。木下という姓でもわかるように秀吉の親戚である。おね(北政所)の甥にあたる。豊臣家は大坂夏の陣で族滅させられているが、おね系の木下家は江戸時代になっても生き残っている。長嘯子も無事生き残り、1649年に80で天寿を全うしている。

以下、『清唱千首』春の部に挙げられた長嘯子の歌(挙白集より)を引用する。番号は『清唱千首』の整理番号である。

29 春の夜のかぎりなるべしあひにあひて月もおぼろに梅もかをれる
92 さてもなほ花にそむけぬ影なれやおのれ隠るる月のともしび
107 なべて世は花咲きぬらし山の端をうすくれなゐに出づる月影
151 越えにけり世はあらましの末ならで人待つ山の花の白波

29番の歌では月と梅という絶妙な組み合わせを「春の夜のかぎり」すなわち最高の春の夜だと評している。
151番は、冷泉為景が桜の頃に来ると言って来なかったことに対する怒りと嘆きをこめた歌である。「越えにけり」といきなり感情が炸裂しているにもかかわらず、波頭のごとき山桜の情景で締めるあたり、非常に巧みである。

春ということもあり、月、月、月、花、花、花のオンパレードだが、同じ主題を新たな切り口で詠んで人を驚かし続けるあたり、長嘯子の腕前である。

『清唱千首』の撰者、塚本邦雄は長嘯子を「突然変異的歌人」と呼び、その作風を「新鮮奔放」と評している。

木下長嘯子の歌はここでも紹介されている:「木下長嘯子(木下勝俊) 千人万首

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周達観『真臘風土記』(東洋文庫507)を読む

長らく絶版状態だった周達観の『真臘風土記』を手にいれた。

真臘風土記―アンコール期のカンボジア (東洋文庫)真臘風土記―アンコール期のカンボジア (東洋文庫)
周 達観

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周達観は中国の元代の人。真臘とはアンコール朝の頃のカンボジアのことである。

以前、カンボジアに出張したとき、現地のエージェントからこの本の存在を聞き、読んでみたいと思っていた。昨年9月に第3刷が発行されたが、そのときは気がつかなかった。先日、オアゾの丸善に立ち寄った際に入手できた。

訳者は和田久徳という東南アジア史の専門家である。1917年に生まれ、1999年に没している。この訳書は1989年に初版第1刷が発行されているが、完成までに20年余りかかったと訳者序文に記されている。それだけ校訂や考証に労力を投じたということだろう。

以下、小生が読んでみて興味を覚えたところを引用する:

【国名】

真臘<しんろう>国は、あるいは占臘<せんろう>と称する。その国は自称して甘勃知<かんぼっち>という。(総叙)

当時からカンボジアはカンボジアだったということがわかる。

【服装】

国主より以下、男女はみな椎髻<ついけい>(さいづちまげ)で袒裼<たんせき>(上衣を脱いで肌をあらわすこと)であり、ただ布(綿布)で腰を囲み包むだけである。外出する時には、すなわち大布一枚を〔その上に〕加え、〔腰の〕小布の上にまとう。(服飾)

大抵、一布を腰にまとうほかには、男女〔の区別〕なく、みな乳房を露出し、椎髻で跣足<はだし>である。国主の妻であっても、またただこのようである。(人物)

当時の人々の服装について周達観はこのように記しているが、アンコールワットの壁画などを見る限り、まさしくその通りの服装である。

【通過儀礼】

富家の女は、七歳より九歳までに至ると、至貧の家ではすなわち〔女が〕十一歳になると、必ず僧侶・道士に命じてその童貞の身を取り除かせ、名づけて陣毯<じんたん>という。(室女<おとめ>)

時期に至ると、〔僧は〕女とともにねやに入り、みずから手でその〔女の〕処女を取り去り、これを酒の中にいれると聞いた。(室女<おとめ>)

民俗学によると西欧や日本でもかつて初夜権なるものがあったと聞く。世界的に似たものが存在するのであろうか。

【商売】

国中の売買は、みな婦人がこれをよくする。唐人が彼〔の国〕に到ると、必ずまず一人の婦人を妻とするわけは、他の一方でまた、その〔婦人が〕上手に商売できるのを利用しようとする故である。(貿易)

現代でもカンボジアで店を営んでいるのは女性が多いように思う。統計を取ったわけではないが。基本的に東南アジア各国では女性がよく働く。男性は遊んでばかり?

【水浴】

〔その土〕地は炎熱に苦しむ。毎日、数回水浴しなければ、〔一日も〕過ごすことができない。夜に入ってもまた一、二回〔水浴〕しないわけにはいかない。(澡浴)

あるいは三、四日、あるいは五、六日〔ごとに〕、城中の婦女は三三五五みな城外に至り、河の中で水浴する。河辺に到着すると、〔身に〕まとった布を脱ぎ去って水に入る。(澡浴)
城外の大河では、〔一〕日としてこれがないことはない。唐人は暇な日に、これ(水浴)を見物することを大へん楽しみとしている。また水中に入ってひそかに待ちもうける者もあると聞いた。(澡浴)

東南アジア各国は2月ごろでも日中には30℃を超えることが多い。クーラーがない時代、炎天を凌ぐためには水浴が最も有効な手段だったのである。それにしても唐人の好色さ。

【中国からの移民】

唐人で水夫をしている者は、その国(カンボジア)中で、衣裳を着けず、また米糧が求め易く、婦女が得易く、家屋がととのえ易く、役立つ道具がみたし易く、売買がし易いことを好都合として、しばしばみな、彼〔の国〕に逃げのがれる。(流寓)

当時から中国移民が多かったことがわかる。このようにして華僑社会が成立していったのだろう。

訳者和田久徳の解説によると、周達観がカンボジアを訪ねたのは十三世紀末、ジャヤヴァルマン8世とシュリーンドラヴァルマン(インドラヴァルマン3世)の治世であった。タイにスコータイ朝が興隆し、アンコール朝に衰退の兆しが見え始めたころである。

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2009.04.30

【1946・文学的考察】福永武彦による文壇批判

「現代の日本文学は貧困を極めてゐる」

『1946・文学的考察』所収の「文学の交流」の冒頭、福永武彦はこのように書き出して当時の文学の批判を開始した。

果たして文学といふものが現代、明治以後の日本に、存在しただらうか。敗北とか破産とかの名に値するだけのものを僕たちは復元し得るだらうか。僕は甚だ疑問とする。

福永の考えによれば、作家というものは「彼が最も良く識ってゐる母国の現実を土台にして『人間』を書くもの」である。つまり、個々の特殊な状況の中でに置かれた普遍的なものを描くのが文学ということである。

小生は昔、「文学というものは、自分にしか体験できないことを誰にでもわかるように書くものだ」ということを聞いたか読んだかしたが、「誰にでもわかる」ということは結局普遍的なものが含まれているということである。小生が見聞きした文学の定義は福永にとってのそれと同じものである。

福永はこの文学の定義をもとに日本文学の批判を行う。

日本文学に於ては、すべてがあまりに特殊であって、装飾品を取り除いてみたら後には何も残らなかつたといふ場合が極めて多い。そこに普遍的なもの、コスミックなものが皆無だつた。

なぜこんな事態になったのかという理由について、福永は日本の文壇の「独善主義」「鎖国主義」を挙げる。すなわち、日本の文壇は万葉集、源氏物語以来の詩歌・小説の伝統を誇り、外国文学を相手にしないという態度をとり、また日本文学の優れた部分は翻訳不能なのだと思い上がっていたというのである。

しかし、実際のところ、日本の文壇には日本文学の伝統を継承・発展させる能力も、外国語を理解する能力も無かったのだと福永は指摘する。

言葉の錬金術師である筈の者が、一つの外国語をもマスタア出来ないで、将棋を差したり、カフェに入り浸ったり、禊をしたりしながら、小説が書けると信じてゐたのだ。

外国語の読めない作家たちは、それならば日本の古典を心から勉強してゐただらうか。これまた頗る怪しいものだ。源氏や西鶴を読むことは、原書でジイドやロオレンスを読むことより一層むづかしいのだから。
福永が「文学の交流」で一貫して批判しているのは、当時の日本の文壇の無学(不勉強)・無反省・無力ぶりである。そして、その批判を行ったうえで、外国文学をどしどし批判的に吸収して日本文学を世界水準に近づけようと主張した。

この福永武彦の批判が行われた1946年から既に60数年経過しているが、日本の文学界はどのように変貌を遂げただろうか?

大江健三郎や村上春樹のように、海外文学をその言語で直接学び、吸収し、そして、その作品が各国語に翻訳される作家が既に登場している。一部の作家は福永の批判に応えることができたのではないかと思われる。

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2009.04.28

星菫派(せいきんは)批判とやら

出張のお供としてこういう本を読んでいた:
加藤周一中村眞一郎福永武彦『1946・文学的考察』(冨山房百科文庫)

長らく入手できなかったのだが、つい最近、オアゾの丸善で購入することができた。

これは3名の高名な作家・評論家(「マチネ・ポエティク」と呼ばれる)が終戦翌年の若かりし頃に書いた文学批評集である。ここには戦前・戦中・戦後の日本の文壇に対する痛烈な批判や世界的な文学の情勢の紹介などが収められている。

目次




    • 焦点・新しき星菫派に就いて
    • 時間・ペトロニウスの饗宴
    • 空間・文学の交流



    • 焦点・田舎からの手紙
    • 時間・ダンテの『地獄』と僕たちの地獄
    • 空間・或る時一冊の亡命詩集の余白に



    • 焦点・二つの現実
    • 時間・1945年のウェルギリウス
    • 空間・もう一人のモオリヤック



    • 焦点・焼跡の美学
    • 時間・「アガメムノン」と共に
    • 空間・二人の復員兵



    • 焦点・或る女友達の疑問
    • 時間・ボオドレエル的人生
    • 空間・我々も亦、我々のマンドリンを持つてゐる



    • 焦点・作家と行動
    • 時間・金槐集に就いて
    • 空間・ラニイ・バッド



    • 焦点・知識人の任務
    • 時間・エロチスムの不易と流行
    • 空間・ジャン・ポオル・サルトルとジョン・ドス・パソス



    • 焦点・70歳の論理
    • 時間・オイヂプスの運命
    • 空間・オルダス・ハックスリの回心



    • 焦点・人間の発見
    • 時間・寓話的精神
    • 空間・日本に於けるヘルマン・ヘッセ

最初のエッセイ(というのか批評というのか)「新しき星菫(せいきん)派に就いて」は加藤周一によるものだが、星菫派論争なるものを引き起こしたという。星菫派とはWikipediaにもあるように「星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたった浪漫主義文学者のこと」だが、ここで「新しき星菫派」と命名されているのは、戦時中の文学青年たちのことである。新しき星菫派に対して加藤がどのような批判をしたのかについての情報があまりネット上に見当たらないので(わずかにブログ記事「加藤周一 死去の報を聞いて」に取り上げられている程度)、本記事で紹介しようと思う。

加藤周一が矛先を向けている「新しき星菫派」とは、戦時下の文学青年たちのことで、加藤は次のように糾弾している:


  • 寸毫の良心の呵責を感じることなしに、最も狂信的な好戦主義から平和主義に変わり得る青年
  • 殆ど総てのよき芸術に可なり深い理解を示しながら、その教養が彼の父親の戦時利得を俟って始めて可能であったと云ふことを理解しない青年
  • かなりの本を読み、相当洗練された感覚と論理とをもちながら、凡そ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判もなし得ない青年
  • 充分に上品であり、誠実であり、私の如き友人に対してさへ遺憾なく親切でありながら、例えば彼の父の如き軍国の支配階級の犬共が搾取し、殺戮し、侮辱した罪なき民衆に対しては、全く無感覚な青年

よくもまあ、これだけ悪口を並べることができるものだと感心する。加藤はさらに星菫派を
軍国主義を脱れながら、軍国主義政府とその弾圧とを間接に利用し、資本主義社会を呪ひながら不労所得に依て生活し、自由なる個人を装いながら、明らかに封建的支配階級のために、人民を戦争と飢餓とに駆立てた宣伝に対して、旗幟を鮮明にしなかった

と批判する。

加藤は星菫派の唱える芸術、哲学、思想なぞ「子女の玩弄に供しうる」程度のものだとも言う。加藤にとっては「危険な『人生を確実に歩むために真を偽から区別する』ことを教えるのが哲学」であり、「『解釈するのではなく、改造する』ことを目的とするものが思想」である。星菫派が持っているのは「現実に対して無力な哲学、歴史を判断することのできない思想」なのである。

加藤は星菫派は教養があるかのように見えて実は無学であるとも批判している。

試みに、最近リルケに就いて書いた星菫派の詩人乃至は詩論家の任意の十名をとつて「悲歌」を与へ、解釈の答案をつくらせれば、抑々リルケの流行が何であり、星菫派の独逸文学理解が何の程度のものであるか忽ち明白になるであろう。例へば、十中の五人は全く独逸語を解しない。三人は独逸語を介するが、「悲歌」は読んでゐないと白状する。多くて二人が読んだこともあり、翻訳も出来ると云ふにすぎないであらう。

最後に加藤はこのように書いて文章を結んでいる:

要するに新しき星菫派は小児病患者の芸術的思想的遊戯に過ぎないが、流行は全く嘔気を催させるものであり、筆者は衷心からその流行の中絶と、彼等が理性の道へかへることを希望している。

加藤は、戦争中は現実から逃避していながら、戦後は無批判に平和主義に転向した人々を無学・無力・無節操と批判し、また同時に彼らに対して勉学と過去への反省と現実の直視とを要請しているのである。まっとうな批判だと思うが、当時こんなに徹底的に批判された側はムカーッときただろうと思う。

それにしても当時27歳の青年だった加藤周一。たいした文章力だと感心した。

戦前・戦中・戦後の文壇の無学・無力さかげんについては福永武彦が「文学の交流」や「二つの現実」で徹底した批判を行っているが、これについては別の記事で紹介する。

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2009.04.14

【自爆する若者たち】ユース・バルジ(若年層突出)の脅威

テロ、内戦、戦争を引き起こす根本的な原因は民族対立でもイデオロギー(や原理主義)対立でも貧困でもなくユース・バルジ(若年層の人口突出)であるというのがこの本の主張である。

自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来 (新潮選書)自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来 (新潮選書)
Gunnar Heinsohn 猪股 和夫

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ユース・バルジとは人口ピラミッドにみられる若年層の異様なふくらみの事を指し、ハインゾーンによると、15歳~24歳までの者が全人口の20%以上を占めるとき、あるいは0歳~15歳未満の年少人口が30パーセント以上を占めるとき、「ユース・バルジが見られる」というのだそうだ。

なぜ、ユース・バルジが脅威なのかというと、その状況下では若者が望んでいる社会経済的地位を獲得できないからである。

若者が多すぎると、しかるべきポストにありつけない。また遺産相続の際も、相続分が少なくなるか、全く相続できなくなるか、という状況に陥る。伝統的な社会の場合、男子であれば次男以下は家を出て他に活路を見出さなくてはならない。

大都市や外国があふれた若者を吸収することができれば良いが、そうでなければ、余剰と見なされた若者のフラストレーションが高まり、テロ、内戦、戦争が引き起こされる・・・というわけである。別の言い方をすれば、上昇志向の若者の野心を社会が吸収できなくなったときにテロ、内戦、戦争が発生するということである。

この説によれば、飢餓対策や教育の普及は根本的な問題解決にならない。飢えているわけでも教育レベルが低いわけでもない国々でテロリストが生まれるのは、ユース・バルジが原因だからである。

ハンチントン『文明の衝突』風に考えるとイスラム原理主義がテロを生み出しているかのように思えるが、この本によれば、そうではなく、イスラム社会のユース・バルジがテロの原因ということである。

ユース・バルジ理論は現代社会だけでなく、世界史にも適用できる。この本によれば15世紀から20世紀の間のヨーロッパ人による世界制覇はヨーロッパにおけるユース・バルジが原因である。テクノロジーレベルに関してはヨーロッパ、イスラム、アジアに大差は無かったにもかかわらず、ひとりヨーロッパのみが世界制覇を成し遂げたのは、ヨーロッパにおけるユース・バルジの発生により居場所のない次男坊、三男坊が地位と財産と名声を求めて新大陸やアフリカ、アジアに乗り出したためだと著者は説明する。

ユース・バルジ理論を将来に当てはめると中国は脅威ではない。なぜなら、15歳未満の年少人口が15%程度であるからだ。先進国と同様に、大事な一人っ子である「小皇帝」たちを戦地に赴かせたいとは中国の親たちは思わないだろう。

オッカムの剃刀」という言葉がある。「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである」という考え方である。

テロや紛争の発生原因には様々なものが考えられるが、「ユース・バルジ」はこれらの現象を非常にすっきりと、そして統一的に説明できる概念である。「オッカムの剃刀」を適用すれば、民族対立・イデオロギー・貧困よりも「ユース・バルジ」理論の方が説得力があると考えられるが、読者諸氏はどう思うだろうか?

たとえ理論として「ユース・バルジ」理論に欠けているところがあるとしても、テロや紛争の脅威を予測する上で「ユース・バルジ」が重要なインディケーターの役割をしてくれることは間違いが無いと思う。

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2009.04.02

デフォルト・ポリシーの重要性: Importance of default policies for products and services

Harvard Business Reviewにデフォルト・ポリシー(default policy)の重要性を訴える記事が載っていたので紹介:
Daniel G. Goldstein, Eric J. Johnson, Andreas Herrmann, Mark Heitmann: Nudge your customers toward better choices, Harvard Business Review, December 2008, pp. 99 - 105

製品やサービスのデフォルト設定にはしかるべきポリシーが必要だという話。パソコンとかソフトウェアとかを購入すると、デフォルト設定のせいで結構悩まされることが多い。当たり前といえば当たり前の話であるが、この記事では考え方が良く整理されている。いずれ日本語版に訳されるだろうから(商売の邪魔をしたらいけないから)、ここでは要約というかメモを記述するだけに留める。

デフォルト設定に対する考え方がいい加減だと、ユーザから猛反発を受けることがある。この記事によるとSNSのFacebookが2007年にデフォルト設定で、ユーザの購入品を表示するようにしたら、「プライバシーを侵害するな!」と猛反発を受けたという。

一方でデフォルト設定は余分な経費をかけずにユーザを誘導するのにも使える。というのも多くのユーザは心理的惰性で製品やサービスをデフォルト設定のまま放置することが多いからである。例としてこの記事では臓器ドナー登録の話を挙げている。ドイツではドナー登録は市民が自主的に行うものとなっているが、12%のドイツ市民のみがドナー登録をしている。これに対しオーストリアでは全市民が初めからドナー登録されている。もちろん、登録解除は自由にできるのだが、99.98%のオーストリア市民がドナー登録を保持している。

この記事ではデフォルト・ポリシーを類型化しており、各企業はそれらの中から製品・サービスに応じたポリシーを選択すれば良い。デフォルト・ポリシーの類型は以下の通り。選択の仕方(decision tree)については同記事を読まれたし。

 大衆向けデフォルト設定


  • Benign defaults 優しいデフォルト設定:企業がユーザにとって最も良いと(使いやすいとか便利とか)判断した設定
  • Hidden options 選択肢の秘匿:他にも選択肢があるにもかかわらず、コスト的判断により、デフォルト設定が唯一のオプションであるかのように見せる方法。 飛行機などの食事では「ビーフかチキンか」以外にも隠しメニューがあるが、明示しておくといろいろと面倒なので、2つしか選択肢が無いかのように見せている。
  • Random defaults ランダム・デフォルト設定:これはマーケティング手法である。何種類かのデフォルト設定をしておき、ユーザーが最初の設定からあとでどのように設定を変えていったのかを調べることによって、ユーザの嗜好を知るのである。

 個別デフォルト設定


  • Smart defaults ユーザの嗜好にもとづいてデフォルト設定を行うこと
  • Persistent defaults ユーザの過去の選択傾向にもとづいてデフォルト設定を行うこと
  • Adaptive defaults ユーザーの最新の選択傾向にもとづいてデフォルト設定を行うこと

Persistent defaultsやAdaptive defaultsはインターネットでの本の購入や航空機・ホテル予約などでよく応用されている。禁煙ルームを良く選択するユーザが、新たにホテル予約をする場合、企業側はあらかじめ禁煙ルームのオプションを選んでおくわけである。PersistentとAdaptiveの違いは準静的(持続的)か動的(変動的)かという程度の違いに過ぎないと小生は思う。

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2009.01.21

【経済学?】「市場(スーク)の中の女の子」読了

図書館の経済学の棚にこんなものが入っていたので借りてみた。2時間ぐらいで読了。

市場(スーク)の中の女の子市場(スーク)の中の女の子
スドウ ピウ

PHP研究所 2004-10-21
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文は経済学者の松井彰彦、絵はスドウピウ。

サブタイトルは「市場の経済学・文化の経済学」であるが、固い本ではなく、「路香(みちか)」という女の子を主人公としたファンタジーである。市場と文化の関係を分析する経済学の入門書ということだろうと思う。

各章の扉に引用された語句、そして内容を以下に示す。

「無知は死んだ」(『マリアによる福音書』)

第1章 図書館
「書棚の間を行く散策は、およそ散策のうち、最も楽しく、最も快いものです!」(千夜一夜物語)
主人公、路香(みちか)は経済学を学ぶ大学院生のお姉さん(実は叔母さん)と貨幣について会話する。そしてお姉さんに連れられて(東大の)図書館に行く。路香は図書館の地下階からいつしか昔のベネチアに迷い込む。ベネチアで奴隷として売られそうになるが、ギルという少年の手引きで逃れる。

第2章 アラビア
「売買は市場(スーク)においてなされなくてはならない」(イスラムの『伝承(ハディース)』)
路香はアラビアに行く。ギルはアラビアのジャジーラ国の王子だった。ジャジーラ国では市場での物々交換が行われていたが、塩を貨幣とする動きがあった。路香とギルは奴隷として売られていたニーモシュネ姫を買取り、自分たちの家庭教師とする。路香とギルはことあるごとに奴隷を買い取って解放するのだが、市場での奴隷販売の活発化を招いてしまう。

第3章 東の方
「遊牧民国家には国境がない」(安部公房『内なる辺境』)
路香、ギル、ニーモシュネ姫、ギルの家臣イブンらはカーペットに乗って東方への旅に出る。まず、元の上都(シャンドゥ)では紙幣が用いられていることを知る。つぎにジパングに行くが、金が余りすぎていて金が貨幣の役割をしていないことを知る。

第4章 家
「慣習は万物の王」(ヘロドトス『歴史』)
路香は夢から覚め、お姉さんに夢の中の旅について語る。お姉さんは夢の中の貨幣の話から貨幣の数量方程式:
  (貨幣量M)×(流通速度V)=(物価水準P)×(取引量T)
の話に触れる。また、お金も文化も「戦略的補完性=みんなが従うから私も従う」という点では同じだと述べる。

第5章 塔
「暴力は無能者の最終手段である」(アイザック・アシモフ『ファウンデーション』)
再び夢の世界。ニーモシュネ姫にジグラット(バベルの塔)を案内される。また、ギルの家臣イブンは「忘却」の化身、ニーモシュネ姫は「記憶」の化身だったことがわかる。路香は「記憶」=ニーモシュネ姫から「欲望が経済の第一原理」だということを教えられる。しかし限りない欲望をコントロールするために経済学が必要であるとも教える:

限りない欲望をどのようにコントロールするかということ。それを忘れたら人間はただのけだものよ。機械でもけだものでもない人間を育てていくことがあなたたちの『経済学』にもとめられているのよ。

あとがき
以下一部引用

市場の経済に反発する人たちも多い。 <中略> でも、反対ばかりしていても前へは進まない。いや、というより市場の経済学もたくさんいいことを言っている。その成果に耳を傾けないのはもったいない。

市場と文化は対立するものでも分離できるものでもなく、お互いに響き合っているものだ。

市場と文化の関係を分析する新しい経済学が少しずつだけど蕾をつけつつある。路傍にひっそりとたたずむ野の花のように。その香りをきみに伝えられたとしたら少しうれしい。


中表紙裏に引用された「無知は死んだ」という言葉、そして第5章における「忘却」の悪役っぷりから窺われるのは、無知は悪いことだという著者の考えである。とくに経済学において。

逆に「知」といっても、教条的で偏狭な「知」も悪いことだという考えが窺われる。路香の旅は経済システムの多様性を知る旅だった。

この本は、経済や文化についてなんらかの知識を与えてくれるタイプの本ではなく、多様性を認めること、過去の成果をふまえること、この2つのことの重要性を教えてくれる本である。

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2008.12.22

【「構造改革」への反転攻勢】「資本主義はどこまで暴走するのか」

毎日新聞の片隅に広告が載っていたのでピンと来て買ったのがこれ:
森永卓郎、吉田司『資本主義はどこまで暴走するのか』(青灯社、1575円)
Yoshidamorinaga

アキバ好きの経済評論家として知られる森永卓郎(もりなが・たくろう)氏とへんてこな文体が特徴のノンフィクション作家吉田司(よしだ・つかさ)氏による対談集である。

短い書評(レビュー)をアマゾンの方に書いておいたが、そこでは字数制限の都合上、書ききれないことがたくさんあったので、ここに記す次第である。

この本はいわゆる「構造改革」路線への反撃の狼煙(のろし)である。「構造改革」が「自己責任」の名の下、セーフティネットを破壊し、格差社会を生み出した。いまこそ日本を「構造改革」という魔法から解放しなくては!という主張の本である。

本の内容は大きく2つに分かれる。

前半は「構造改革」を掲げる新自由主義(※)≒金融資本主義によって、平等を旨とする日本型資本主義(※※)社会が破壊された経緯の検証である。あれこれ問題を抱えながらも、日本は日本型資本主義によって格差の少ない社会を築いていたのだが、日本の富に目をつけた米国(の支配層)によって、新自由主義が強制的に導入され、旧来のシステムが破壊されたという。米国の画策だけではこれは実現しない。日本における新自由主義の展開には対米協力者(コラボレーター)の手引きがあったのだという。コラボレーターは米国留学組であり、米国支配層の豊かさに圧倒され、「日本もかくあるべし」と洗脳されて帰ってきた人々である。この本ではコラボレーターとして日銀エリート行員たちや竹中平蔵が挙げられている。日本の土地バブルとその崩壊はコラボレーターによって引き起こされたのだとか、まあ、「陰謀論」くさい感じもするが、帝国主義リバイバル版の新自由主義によって日本は1920年代に戻されてしまったというのは、歴史を学んだものとしてはわかり易い構図である。

新自由主義信奉者に対する森永氏、吉田氏の怒りは凄まじい。以下、爆発した瞬間を引用:

森永卓郎:「てめえら、金を右から左に動かしているだけで何の文化も創っていない。私すごくむかつくんですよ。やつらは音楽の話、文学の話、いま話しているような経済の歴史についての話なんかしないんですよ。金の女の話だけ。そんなやつらが、日本の支配者になっているというのが私はとても気に入らないんです(65ページ)」

吉田司:「僕は経団連会長の御手洗冨士夫のやり方についてはものすごく腹が立っているんですよ。会長職にあるキヤノンで派遣労働、偽装請負が発覚したら、法律の方が悪いから、法改正しろというやり方、ふざけんなというか(79ページ)」「(御手洗資本主義について)この本質は一体何なのかというと、偽装労働のピンはねでしょ。あるいはネットカフェの<タコ部屋>労働。これは<ヤクザ資本主義>としか言いようがないんです(80ページ)」


しかし、悲しいかな、新自由主義は格差社会で負け組となってしまった人たちから支持をうけてしまうのである。規制のない世の中だし、能力とチャンスがあれば、一発逆転、億万長者になれますよ、ということで。でもそんなに世の中甘くない。能力というのはコツコツと時間をかけて勉強しなければ身につかない。勉強を続けるためにはある程度の資金が必要。また、チャンスも情報収集能力や人脈がないとつかめない。そういうものを持つためにはやはり資金が必要。結局、お金がないと一発逆転すらできないのである。

後半は新自由主義にどう抵抗するべきかという話である(というか現時点では新自由主義は崩壊寸前なので、その崩壊後、どういう経済体制を築こうかということになる)。森永氏と吉田氏は新しいタイプの経済について模索している。森永氏としてはヨーロッパ型社会民主主義を一つの手本として考えている。また、作り手と買い手が互いに顔の見える範囲で取引をしている、アキバの「共同生産共同分配の原始共産制みたいなもの」にも注目している。

まあ金の魅力はすごいから、そんなにうまくいくのだろうか?という疑問は残る。しかし、「何でもかんでも金で買えると思ったら大間違い」という状況を作り出すことができれば、新自由主義の復活を防ぐことができるだろう。
とりあえず、リスクは売買できない、ということを今回の金融危機は示してくれたと思う。

アマゾンでの紹介:

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青灯社での紹介:「資本主義はどこまで暴走するのか


※新自由主義
新自由主義は新古典派経済学に基礎を置いている。新古典派経済学の主張するところによれば、「均質で原始的な経済人のおのおのが合理的判断と完全な情報に基づき、貨幣を媒介として市場で利己的に競争しあうことにより、「見えざる手」による均衡が訪れる」(Wikipediaより)のだそうだ。

しかし、実際にはそんなことにはならない。例えば「完全な情報」などということがありえるだろうか?競争開始時点で情報が全ての人に行き渡ることなどありえない。一握りの人々に偏るのが常である。また、その一握りの人々とは大体の場合、権力か富を支配する人々である。他にもおかしいのは「利己的に競争」という点。自己犠牲など利他的行動の可能性を忘れているし、競争を好まない人々もいるということを忘れている。新自由主義とは万人が万人と争うという、野獣のごとき人間観もしくは社会観ですわ。

新自由主義の考えの下、1980年代からサッチャー、レーガン、中曽根康弘が規制緩和、国営企業の民営化、社会保障制度の見直しを開始した。この時点では新自由主義は硬直化・停滞した社会経済システムの効率化を進めるという好影響を与えた。しかし、その後、新自由主義の信奉者たちは各国の社会的な事情を考えない強引な市場のグローバル化を推し進め、資本移動の自由を確保した。さらに金融工学でフル装備してなんでもかんでも市場で取引できるようなシステムを作り上げた。日本においては究極の新自由主義は小泉純一郎&竹中平蔵による一連の経済政策である。その結果はご覧の通り。

※※日本型資本主義
日本型資本主義は1940年代から始まる統制経済の流れを汲む修正資本主義である。様々な規制があったり、談合があったりするため、その枠内では能力のあるものがその能力を出し切れないという問題がある。しかしながら、コツコツ努力すれば報われるし、オチコボレないように助けてもらえるという点は優れている。

実は麻生太郎首相の祖父、麻生コンツェルンの創始者、麻生太吉氏は1920年代の不況による農村の壊滅的状況を見て、「…巨大資本の所有を萬悪の源なりとなす」と主張し、統制経済の道を選択したとか(本書138ページ参照)。

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2008.11.23

高野史緒『赤い星』

沼野充義による毎日新聞の書評(2008年11月16日)を読んで買うことを決定。しかし、小生御用達(ごよう「たつ」と読む奴がいるのには困ったものである)の宮脇書店には在庫無し。こんな有様だから新刊書店がつぶれんるんだよと悪態をつきながら、やむを得ずアマゾンで購入。まだ読んでいる最中だが面白いので紹介する次第。

赤い星 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)赤い星 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
高野 史緒

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目次は以下の通り:

口上
大序 モスクワ・新帝戴冠(しんていのたいかん)ボリス・ゴドゥノフ
一段目 江戸・窶皇子(やつしのおうじ)ドミトリー吉原登楼(よしわらとうろう)
二段目 ペテルブルク・帝室劇場夢幻舞(ていしつげきじょうむげんのまい)
三段目 江戸・赤星封印列車(あかいほしふういんれっしゃ)
四段目 ペテルブルク・忍恋革命戦闘団(しのぶこいかくめいせんとうだん)
五段目 択捉(えとろふ)・シベリア横断問答大旅(おうだんウルトラクイズ)
大詰 江戸・小石川御薬園(こいしかわおやくえん)
あとがき・謝辞

大序では老若二人の修道僧がロシア新皇帝、ボリス・ゴドゥノフの戴冠式のインターネット中継を観ているところから話が始まる。ロシア皇帝とインターネット…?さらに二人の会話から日本がロシアの属国となっているらしいこと、日本には徳川幕府が存在するらしいこと、かつてはソヴィエト連邦という国が存在していたらしいこと、などが浮かび上がってくる。また、ボリス・ゴドゥノフは先帝の皇太子、ドミトリーを暗殺した疑いがあるというのだが…。いったいこの世界では何が起きているのだろう?読み始めた最初の段階で様々な謎が提示され、読者は一気に引き込まれる。

先帝の皇子であると称する「ドミトリー」、将軍のご落胤と称する吉原の花魁真理奈太夫、この二人を結びつけて帝位簒奪を狙うクプルスリー公爵、その陰謀を阻止しようとする幕府大老シュイスキー公爵、真理奈太夫の幼馴染で江戸のソフトウェアエンジニアおきみ、おきみが思いを寄せるペテルブルクのピアニスト龍太郎、龍太郎につきまとうケーニヒ博士、そしてインターネット上で噂される「赤い星」という存在。江戸とペテルブルクを舞台に、謎めいた登場人物たちによって物語が展開していく。

元ネタの一つはプーシキンやムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』である。老若二人の修道僧たちがボリス帝によるドミトリー皇太子暗殺疑惑について語るという導入部分は全く同じ。また、吉原の花魁の「真理奈」という名前は『ボリス・ゴドゥノフ』のポーランド貴族の娘、マリーナから来ている。著者は、光瀬龍『征東都督府』(※)、ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』などの歴史改変モノを髣髴とさせる舞台設定(※※)とインターネットという小道具によって新しい物語を作り出している。ただし、舞台の壮大さに比べると、人物の造形がやや甘いのが難かもしれない。

※ 『征東都督府』:日清戦争で日本は破れ、清朝の属国となり、李鴻章都督の支配を受けている。またこの世界では戊辰戦争の折、幕府が勝利しているらしい。青龍寺笙子率いるタイムパトロールがこの歴史改変問題に取り組むという話。
※※ 江戸+IT技術というアイディアは『大江戸ロケット』が近いかもしれない

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2008.09.29

『鹿と少年』下巻読了【やっと】

7月初旬に『鹿と少年』の上巻を読了したものの、下巻はしばらく放置していた。

鹿と少年(下) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-2)鹿と少年(下) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-2)
土屋京子

光文社 2008-04-10
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米国出張時の旅のお供として持参し、なんとか下巻を読み終えたので報告する次第である。心の荷が少し下りた気がする。

上巻ではジョディーの父、ペニーがガラガラ蛇にかまれるのが最大の事件であった。このとき、ペニーは応急処置として雌鹿を殺し、その肝臓を傷口に当てて毒を吸い出すことによって、ペニーは九死に一生を得た。

そして、雌鹿の子供フラッグをジョディーが育てることになったわけである。ジョディーは自分に従順な自分だけのものが手に入ったことで大喜びであった。何をするにもフラッグを連れて回っていた。

下巻ではバクスター家はハリケーンに見舞われる。このハリケーンはフロリダ半島に惨禍をもたらした。ハリケーンが引き起こした洪水によってバクスター家の畑は完全に荒廃し、森の中は死の世界と化した。

スカンクとオポッサムが最も大きな被害を受けたようで、何十という死骸が地面に転がっていた。水が引くときに取り残されたのだろう。くずと一緒に木の枝にひっかかっている死骸もあった。(下巻45ページ)

高台に棲む爬虫類の死骸がびっしりと水面を埋めて、まるで倒伏したサトウキビ畑のようだった。ガラガラヘビ、キングスネーク、クロヘビ、ムチヘビ、チキンスネーク、ガーターヘビ、サンゴヘビ。(下巻46ページ)

水が完全に引いた後も、被害は続く。動物たちの間に疫病(黒舌病)が広がったのである。小動物の減少によって、クマやオオカミなどの肉食動物たちはバクスター家など開拓者の家の家畜を狙い始める。バクスター家のペニーとジョディーはフォレスター家の男たちとともにオオカミ退治に乗り出すが、この狩りの際のいざこざによって、バクスター家とフォレスター家の間に亀裂が入る。

クリスマスが近づいたころ、バクスター家の牝牛が雌の子牛を産む。これで乳牛が増えたと喜ぶバクスター家の一同だったが、スルーフットとあだ名されるクマの襲撃によって子牛は殺される。ペニーとジョディーは夜に昼を継いでの追跡行の末、スルーフットを仕留める。スルーフットは巨大なクマであり、運ぶのは困難だった。ペニーは道の途中で偶然に出会ったバクスター家の男たちにスルーフットの輸送を頼んだ。

スルーフット退治がきっかけでバクスター家とフォレスター家の間の溝は埋まったかのように見えたが、フォレスター家の男たちがヴォルーシャという町でクリスマスに引き起こした事件(バクスター家と親しい「ハットーばあちゃん」の家屋への放火)によって両家の関係は完全に断たれてしまうことになる。

3月になりペニーとジョディーが畑作りに励んでいた時のこと、ペニーが切り株を引き抜こうとして力を入れた時に足の腱を切ってしまう。これでペニーは満足に歩けない体に。以後はジョディーが畑作りを担うことになる。ところが、成長したフラッグが芽を出したばかりのトウモロコシを食い荒らすという事件を引き起こす。ジョディーは母親の協力を得て畑の周りに柵を作るが、フラッグは軽々と柵を乗り越え、再びトウモロコシの芽を食い荒らす。ペットの悪戯によって生命の危機に陥るバクスター家。

ペニーは言った。「ジョディ、できることはすべてやった。残念だよ。おれがどれほど残念に思ってるか、言葉ではとても伝えられん。だが、一年分の作物をだめにされるわけにはいかん。食うものなしで生きていくことはできんのだ。フラッグを森に連れてって、木にしばりつけて、撃ち殺せ」(下巻345ページ)

さて、少年ジョディーはどうするのか?というのが、この小説全体のクライマックスである。

上巻は『鹿と少年』あるいは『仔鹿物語』という題名から連想されるような、「知恵と勇気と優しさをそなえた父親の背を見ながら、少年が自然の中でのびのびと育つ」という話だったのだが、下巻では自然の脅威にぶちのめされながら少年が成長するという話になっている。決して児童文学などではなく、全年齢層向けのハードな小説である。

上下巻通して感じたことを2つ。

1. 自然をよく描いている
著者、マージョリー・キナン・ローリングスはフロリダの原生林で生活していただけあって、非常に詳しく自然の様子を描いている。前に引用した蛇の名前の多さもそうだが、矮樹林(スクラブ)、沼地(スワンプ)、樹林地帯(ハンモック)、樹島(アイランド)、湿地林(ベイヘッド)など森や地形の区別をあらわす言葉や大王松(ダイオウショウ)、オーク、常緑カシ、パームツリー、ヒッコリー、イトスギ、スパニッシュ・モス、ゴールドベリー、ミクリ、チェロキー・ビーンなどの草木の名前を駆使して多様で複雑なフロリダの自然を描き出し、読者を圧倒している。

2. 白人しか出てこない
この小説には原生林およびそれに隣接する町で生活する貧しい白人(プア・ホワイト)たちしか登場しない。解説によれば、こうすることによって、プア・ホワイトと黒人との激しい対立を描かないようにしているとのことである。自然にぶちのめされながら少年が成長する話として小説を完結させようとすれば、現実の一部をカットせざるを得ない。この技巧によって『鹿と少年』はすぐれた小説として成立することになった。

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2008.08.14

黒井千次『たまらん坂』読了

黒井千次という作家を知らなかった。すみません。

しかし「たまらん坂」というユーモアを含んだ不思議な書名に魅かれてこの短編集を読んでみた。すぐれた作品はタイトルからして違うという話があるが、これはまさにそういった作品集だと思った。

たまらん坂 武蔵野短篇集 (講談社文芸文庫 くA 5)たまらん坂 武蔵野短篇集 (講談社文芸文庫 くA 5)
黒井 千次

講談社 2008-07-10
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この本は「たまらん坂」、「おたかの道」、「せんげん山」、「そうろう泉園」、「のびどめ用水」、「けやき通り」、「たかはた不動」という武蔵野の地名を取った7つの短編で構成されている。どの作品でも主人公はそろそろ定年を迎えようとする男たちである。主人公たちがこれらの地名を聞くことによって古い記憶を呼び起されたり、あるいはその地名の場所に赴いて非日常的な光景に出会うというのが基本的なパターンである。

はじめの「たまらん坂」は一種の謎解きの要素がある小説である。毎日、多摩蘭坂を上って帰宅する主人公が、多摩蘭坂は落ち武者が「たまらん」と言いつつ逃亡していった坂だという説に魅かれ、落ち武者のイメージと自分とを重ねつつ、「たまらん」の由来を確かめようとする話である。由来を知ることで主人公は救われるのだろうか?

つぎの「おたかの道」もまた、謎解きの要素をはらんでいるが、その謎は主人公の妻によって瞬時に解消されてしまう。だが「おたか」という音の響きは主人公に青春の艶めかしい記憶を呼び起こさせる、という話である。

「そうろう泉園」の主人公は近所の庭園で、休憩所に備え付けの感想ノートを開く。そこには見覚えのある書体による文章が寄せられているのを見て、衝撃を受ける。

蝉の鳴かない夏なんて、嫌い。蝉の鳴かない庭なんて、いくら樹があっても庭じゃない。でももう一度来てみよう、今度は九月の敬老の日に。思い出が老い果てたのを確かめるために。
これは怖い。主人公はその敬老の日に再び庭園を訪れることにする。

「のびどめ用水」、「けやき通り」はこれらの地名の場所で主人公たちが非日常的な光景に出合う話である。「のびどめ用水」の黒いベレーを被ったコートの女性、「けやき通り」の猫を拾う女性、いずれも現実で出会ったら怖いだろうと思う。

全編を振り返ってみると、サスペンスとでもいうべき怖い作品が多いことに気がついた。日常はサスペンスに満ちているのか?

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眉村卓『消滅の光輪』読了

眉村卓の司政官シリーズは面白い。だが、長編『消滅の光輪』には手を出さないままだった。あまりにも長いので、途中で挫折するかもしれないと思ったからだ。しかしそうこうするうちに、ハヤカワ文庫から姿を消してしまった。

それ以来すっかり忘れていたが、7月下旬、創元SF文庫に復活した。これを機に購入し、読了した。

消滅の光輪 上 (1) (創元SF文庫 ま 1-2)消滅の光輪 上 (1) (創元SF文庫 ま 1-2)
眉村 卓

東京創元社 2008-07
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司政官というのは、連邦経営機構(銀河連邦か地球連邦かわからないが、その中心的な組織)が植民惑星に派遣する役人のことである。植民惑星が自治できるほど政治的に発達していない間、司政官がその惑星の行政をしきるのである。

司政官は一定期間で交代する。日本史でいえば、地元に根付く大名ではなく、中央政府から派遣される国司に当たる。

司政官を支えるのは、現地に配備されたロボット官僚機構である。ロボット官僚は私利私欲がなく清廉潔白だが、連邦の法制度の範囲でしか行動しない頑迷さをもつ。このロボット官僚をうまく駆使して担当した惑星の治安、経済成長、先住民と植民者との調停を行うのが司政官の仕事である。

「消滅の光輪」のあらすじは、「恒星の新星化(大規模なガス爆発)によって惑星ラクザーンが滅亡するという危機のもと、司政官が住民退避を推進する」というものである。

そのようなあらすじから、「消滅の光輪」というのは恒星の新星化による惑星ラクザーンの滅亡を暗示したタイトルだと思っていた。しかし上巻に描かれた主人公マセ司政官とトド巡察官との会話によれば「司政官の光輪が現代では消えかけている」という意味であるようだ。

この時代、連邦経営機構による植民地政策、つまり司政官制度が黄昏を迎えつつある。そんな状況の下で、新人司政官マセは司政官制度の権威を一身に背負って惑星ラクザーンに着任する。ラクザーンの太陽が新星化する前に居住者全員を別の惑星に移住させることが最大の使命だった。

しかし、ラクザーンには司政官制度などものともしない連邦直轄あるいは現地の事業体、まったく別の指揮系統で動く連邦軍、人類と共存しつつも同化を拒む現地先住民たち、マセに真意を告げることなく活動を続ける巡察官トドなど様々な障害が存在していた。こうした多数のステークホルダーの思惑が交錯する中で司政官制度の権威の失墜を防ぎつつ、退避計画を完遂するためにはどのような手を打つべきか?というゲームとしての面白さがこの小説にはある。

ゲームとしての面白さに加えて、この小説にはビルドゥングスロマン(主人公が環境と闘いながら成長する小説)としての面白さがある。上巻では気負いすぎの感があるマセが、下巻では苦境(先住民の退避拒否、大規模な反乱、連邦軍の陰謀、司政官更迭)を経て厚みを持った人間に変化していく過程が描かれている。こうした変化を無理なく描くためには上下巻で1000ページ近いボリュームが必要だったのだろうと思う。ゲームとビルドゥングスロマンという二つの性質が相俟って、この小説は傑作となった。

以下は補足事項。

小説の冒頭で数多くの登場人物の紹介、惑星ラクザーンの各大陸や首都ツラツリット市街の地図、ロボット官僚機構の組織図などが示されている。しかし、これらを頭に叩き込まないとこの小説を読破できないかと言うとそんなことはない。さしあたっては、以下の人物だけ把握しておけばよい:

マセ: 主人公。新人司政官
ラン: ヒロイン。ラクザーン科学センター職員
トド: 巡察官
カデット: マセの後任。大物ベテラン司政官
イルーヌ: 地元の大企業、ツラツリ交通幹部
チュン・~: ラクザーン先住民の皆さん

特に、マセが先住民のことを深く知るきっかけをつくったり、マセの左遷後もそれ以前と同じようにマセとの交流を続けたりすることによって、マセの精神に影響を与え続けたランは重要人物である。

また、ラクザーンの先住民たちも、マセに司政官制度に対する考察を深めさせたという点で重要である。

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2008.08.01

本買いすぎ

昨日は近所の宮脇書店でバンバン本を買ってしまった。

本買いすぎ

アーサー・ケストラー『ヨハネス・ケプラー』(ちくま学芸文庫) \1,500
 ラディカルな科学哲学者・ジャーナリストとして知られたアーサー・ケストラーによるケプラー伝。ケプラー自体も興味深い人物だが、それを、パーキンソン病と白血病を理由に夫人とともに服毒自殺したアーサー・ケストラーが書いているというのが興味をそそる。

田中芳樹『銀河英雄伝説9』(創元SF文庫) \800
 SF界の金字塔。この巻ではローエングラム朝銀河帝国の双璧と謳われる、フォン・ロイエンタール元帥とミッターマイヤー元帥が相撃つことになる。

山田剛史、杉澤武俊、村井潤一郎『Rによるやさしい統計学』(オーム社) \2,700
 最近、仕事で統計処理言語Rを使うことが多くなっているので、まじめに勉強しようと思って。エクセルばかり使っていちゃいけません。

ユリイカ8月号「特集*フェルメール」 \1,300
 フェルメールについて浅田彰先生と森村泰昌先生が対談しているので購入。浅田先生も美術系大学の要職に就きましたし。

COURRiER Japon8月号「『エコ』をリアルに考える」 \600
 「『エコ』をリアルに考える」という特集も面白そうだし、バラク・オバマの生い立ちやチベット・ゲリラ活動秘史にも魅かれたので購入。世界中のメディアの面白い記事を集めて翻訳・再編集するというこの雑誌の仕組みは面白いと思う。現地語でなくとも日本語で読めるというのはありがたい。

ということで、本の買い過ぎには注意しましょう。あと、『鹿と少年』の下巻を読みましょう(<-自分に対する戒め)。

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2008.07.08

売った本:本宮ひろ志『夢幻の如く』

BOOK・OFFに売却した漫画の一つが本宮ひろ志『夢幻の如く』である。

どんどん話のスケールが大きくなりすぎるという、
本宮ひろ志らしい作品である。
あらすじは以下の通り:

本能寺の変(1582年)で、信長が死んでいなかった、というところから話が始まる。 秀吉を裏で操り、家康と和睦させ、とりあえず天下統一。

そのあと、大軍を率いて大陸遠征に出ようと九州に軍勢を集めていたところ、家康に裏切られ、秀吉や柴田勝家とともに日本を脱出。途中で嵐に遭い、朝鮮半島を経て満州にたどり着く。

満州では若き女真族の王、ヌルハチ(1559~1626年)に出会い、これを従えて、満州族を統一。ヌルハチからは「親父」と呼ばれ絶大なる信頼を得る。満州をヌルハチに任せた後、信長はモンゴルに行き、モンゴル人を味方につける。

そのころ、日本では信長と「くノ一(くのいち:女忍者)」の間にできた子供、夢暴丸が育っていた。日本を統一した家康は、夢暴丸を捕まえようとするが失敗。夢暴丸は父、信長を追って大陸に逃げる。母親は家康の下に囚われの身となった。

当時、すでに死んでいるはずのイワン雷帝(1530~1584年)が何故か蘇り、チンギス・ハーンの財宝を奪うべくモンゴルに攻め込んできた。信長はモンゴル人たちとともに戦ってこれを撃破。イワン雷帝の部下を配下に加える。ここで、信長はモンゴル人たちの信頼を得、「大ハーン」に即位する。

大ハーン信長は、今度はヌルハチとともに明を攻撃。北京を陥落させ、ヌルハチを皇帝位に就ける。中国全土を支配下に置いた後、信長は南へ西へと勢力拡大を図る。また、夢暴丸、ヌルハチの息子ホンタイジ、秀吉らに大軍を率いさせ、日本遠征を任せる。

家康はあらかじめ信長の逆襲があることを予想して、迎撃体制を整えていたものの、いきなり江戸を襲撃され、信長軍に降伏。ここで夢暴丸と囚われの身だった母の涙の対面。日本占領後、秀吉が日本を治めることになり、家康は夢暴丸のお供を命ぜられる。夢暴丸は海路でインドに向かう。

インドに着くとすでにインドは大ハーン信長の支配下にあった。ということはムガル帝国(1526~1858年)は滅ぼされたわけである。インドでは福島正則の歓迎を受ける。夢暴丸は父を追ってさらに西へ。

大ハーン信長はサファヴィー朝(1501~1736年)の領土の手前まで来て、進軍を停止。オスマン帝国やヨーロッパ各国からの使者を出迎えたりして時間をつぶしていた。イギリスのエリザベス1世(1533~1603年)やスペインのフェリペ2世(1527~1598年)は「なにをイエローモンキーが偉そうに」と対決姿勢。一方、オスマントルコ帝国は信長を懐柔しようと企む。しかし、信長は一人でらくだに乗ってウロチョロしていたところ、サファビー朝の兵士に殺されてしまった(実は殺されていなかった)。

信長の衣鉢を継いだ夢暴丸は大軍(500万人?)を率いてサファヴィー朝へ侵攻、あっという間に首都イスファハンを陥落させる。サファヴィー朝の次は、オスマントルコ帝国。

オスマントルコはヨーロッパ各国と和議を結び、イスタンブールの手前、ポスポラス海峡にイギリス・スペイン連合艦隊を送り、夢暴丸軍を倒そうと計画する。また、地中海に夢暴丸の海軍が入ってこれないように、ジブラルタル海峡を閉鎖。

しかし、ヨーロッパ各国の予想を裏切り、夢暴丸の海軍はスエズ地峡を超えて(人力で船を運んだのである)地中海に侵入、イギリス・スペイン連合艦隊は敗北し、1600年、ついに夢暴丸は世界を統一したのであった。

やがて、夢暴丸のもとに、「新大陸に信長生存」の情報が伝わる。夢暴丸は海を渡って新大陸に上陸し、インディアンの酋長になっている信長に対面。信長は夢暴丸に「新大陸に殖民してはいかん」と諭し、また自分の人生は夢か幻のようだったと感慨深げに語って物語終了。


うろ覚えなので、間違っている部分があるかもしれないが、そこはご寛恕いただきたい。

ここまでスケールのでかいほら話はあまりないと思う。面白かったけど、愛蔵するほどのことはないと思ったので、売却した次第である。

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BOOK・OFFに売却

本棚が埋まってきた。というか本があふれ出している。

どげんかせんといかんと思い、文庫本だの、漫画だの、新書だの、単行本だの、とりあえず惜しくない32冊をセレクトしてダンボールに詰め、BOOK・OFFに行ってきた。

まあ500円ぐらいになれば万々歳だと思っていたところ、計1720円になった。概算で一冊50円というところか。内訳の一部を示す:

コミックス 4冊 120円
文庫   6冊 130円
単行本  8冊 770円

買ったときはもちろん10倍ぐらい金がかかっているわけだが、資源ごみになるよりは遥かにましである。

一般の古本屋というのは看板に買取を掲げていても、実際には買取をしないところが多い。
ガンガン買い取ってガンガン売りさばくBOOK・OFFは貴重な存在。BOOK・OFF様様である。

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2008.07.03

鹿と少年

4月に買って以来、ダラダラと読んでいたこの小説、ようやく上巻を読了した。

鹿と少年(上) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-1)鹿と少年(上) (光文社古典新訳文庫 Aロ 3-1)
土屋京子

光文社 2008-04-10
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通常は『仔鹿物語』として知られている作品で名前だけは小生も聞いたことがある。童話だろうと思って見向きもしなかったのだが、今回光文社古典新訳文庫に入ったので初めて読むことにした。光文社のことだから、何か意図があるに違いないと思って。

仔鹿と少年の交友を描くほほえましい物語かと思っていたら、案の定裏切られた。仔鹿が登場するのは上巻の後半14章であり、仔鹿と少年の交友の話は当分おあずけである。

この作品の主人公はバクスター家の一人息子ジョディ。矮樹林(スクラブ)に囲まれた開墾地で小柄な父親ペニー(ペニーは愛称。本名はエズラ。何でペニーかと言うと小柄なので、1ペニー硬貨に例えられたため)と大柄な母親オリー(本名オーラ)と暮らしている。

上巻では主人公ジョディよりも父親ペニーが圧倒的な存在感を示している。上巻はペニーの物語といったほうがいいかもしれない。

上巻ではフロリダ半島の開墾地の自然の厳しさを知り、そこで家族を守りながら生活を続けるペニーの偉大さをじっくりと感じることが中心となる。

開墾地の自然がどう厳しいかというと、まず、開墾地を囲む矮樹林(スクラブ)にはガラガラヘビだの、パンサーだの、クマだの、危険な動物がいっぱいすんでいることが挙げられる。クマは時々バクスター家の開墾地まで侵入し、バクスター家の豚を殺してしまったりする。バクスター家の開墾地には水は出ず、遠くにある陥落孔(シンクホール)まで水を汲みに行かなくてはならない。バクスター家はトウモロコシ、ササゲ、エンドウ、サツマイモなどの畑を持っているが、そこで得られる食料は一家三人が生きていくので精一杯である。離れたところに住むフォレスター家のバックがジョディにこう語る:「おまえん家、かつかつなんだな」(318ページ)

ペニーの偉大さだが、次の通り。ペニーは余分にもらったつり銭を返すために数マイルを往復するほどの正直者として通っており、知り合いは抜群の信頼を寄せている。しかし単なる馬鹿正直者ではなく、嘘をつかずに駄犬と最新式の銃との交換を成功させる知恵を備えている。また知り合いが1対3の喧嘩をしているときには、1人で戦っている方に助太刀する正義感と勇気を持っている。

こんなに偉大だと厳格な父親のような気がするが、遊んでいられるのも少年のうちだ、と考えて自由奔放にさせ、口うるさい母親からジョディを守っている。そんな父親をジョディは常に尊敬のまなざしで見ている。

上巻の最大の事件は、ジョディの目の前でペニーがガラガラヘビに噛まれる事件である。腕を噛まれながらもペニーはガラガラヘビを殺し、近くにいた雌鹿を殺して肝臓を取り出し、傷口に当てて毒を吸い出す作業を行う。そして、ジョディに救援を呼びに行かせる。危機的状況でもパニックに陥らず、冷静に対処するあたり、ペニーがただ者ではないことを示している。

なお、この事件で殺された雌鹿の子供がジョディが飼うことになる仔鹿「フラッグ」である。

さて、下巻ではどんな展開になるだろうか?

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2008.06.25

久々に『有閑階級の理論』

4月に3章まで呼んでサボっていた、ヴェブレン『有閑階級の理論』を再び読むことにした。

有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫) ソースティン ヴェブレン Thorstein Veblen 高 哲男

これまでのあらすじは以下の記事に書いてある:

今回読んだのは第4章「顕示的消費」である。結論から言うと、「浪費するほうがもっと偉い」と言うことが書いてある。

時代が進んで都市化が進むと、知らないもの同士が接触するようになる。このときに自分の偉さを示す手段としては、「閑暇(生産的な労働に従事していないこと)」を示すよりも、「浪費」をすることの方が便利になる。これを「顕示的消費」と言う。

階層分化がいっそう進展し、より広範な人間環境にまでひろげてゆく必要が出てくると、世間体を保つ手段としては、閑暇よりも消費のほうが評価され始める。(『有閑階級の理論』101ページ)

都市住民はお互いに負けまいとする闘争のなかで、自らの通常の顕示的消費の標準をよりいっそう高いところに設定する。(『有閑階級の理論』103ページ)

顕示的消費はいわば「見栄を張る」行為のことであり、例えば酒場でおごるのもその一例である。

日常生活における冷淡な観察者たちに、自らの金銭的能力を印象づけるために利用しうる唯一の手段は、たえず支払い能力を見せつけることなのである。(『有閑階級の理論』102ページ)

こうした見栄張り競争の原因となっているものは、自分がより上流に位置していることを示したいという欲望である。そして、上流と下流を分けるものは:


  • 上流階級:贅沢品や生活の快適さを与えるものを消費する
  • 下流階級:おのれの生存に必要なものだけを消費する

という消費内容に基づく基準である。

みんな勤勉や倹約を美徳として認めていながら、実際にはセレブ生活に憧れるもんなぁ。

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2008.06.11

死ぬまでにしたい100のこと

『最高の人生の見つけ方』という映画があった。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演の映画だ。末期ガンの二人が、金に糸目をつけず、死ぬまでにやっておきたいことを達成していくという内容。えらそうにあらすじを述べたが、実は見ていない。

同じようなテーマの映画としては『死ぬまでにしたい10のこと』という2003年の映画がある。これは余命2カ月のガンだと宣告された23歳の女性が「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書きだして、一つ一つ実行していく話。

いずれの話も、死を前にして、残された日々を充実させるために、最も自分がやりたいことを選び出して実行していくという内容である。

今日本屋で手にしたのはロバート・ハリス『人生の100のリスト』(講談社+α文庫)である。

人生の100のリスト
人生の100のリストロバート・ハリス

講談社 2004-02-24
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おすすめ平均 star
starおもろ
starまず100のリストを作ってみましょう
star毒薬でもある

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ロバート・ハリスはJ-WAVEのナビゲーター。1948年横浜生まれ。高校卒業後、海外を放浪。シドニーで本屋兼画廊を経営したり、香港で映画制作に携わったりしたのち、活動の中心を日本に移している。

「人生の100のリスト」とは、一生の間に達成したい100のことを挙げたリストのことである。著者は高校卒業後、シベリア鉄道経由でヨーロッパに渡り、そのあと、中東、インドを巡った。その旅の中、あるホステルでアメリカの冒険家が「一生のうちにやり遂げたい100の冒険」というリストを作り、挑戦をしているという雑誌記事を目にする。

著者はこれに影響を受け、自分の「100のリスト」をつくった。そして、それから30年以上このリストに取り組んでおり、いくつかは達成し、いくつかは現在も進行中ということである。

著者のリストの内容はこんな感じ:


  • アマゾン川をイカダで下る
  • 1000冊の本を読む
  • 武道の黒帯を取る
  • ファッション・モデルと付き合う
  • 日本を飛び出る
  • ・・・

「人生の100のリスト」づくりは人生に生きがいを見つけるための一つの手法である。死期に迫られていなくても、人間はやがて死ぬので、それまでにやるべきことをリストアップしておくのは悔いを残さないためにいいかもしれない。生きている間は張り合いがあるし、死ぬまでに全て達成していなくても、ある程度達成していれば、満足感を持って瞑目できるだろう。

目標が1つでないということも重要だと思う。人生の目標がたった一つであれば、挫折した場合、取り返しのつかないことになる。あらかじめ100も準備しておけば、おそらく大丈夫。100個の目標がそれぞれ方向性が違うことも重要だろう。同じ方向だったら全滅(全部未達)の可能性がある。

先日の秋葉原殺戮事件、犯人は非常に早い段階で挫折した「エリート」であるようだ。本人にとって人生は勝つか負けるか、でしかなかった様子。本人に100のリストさえあれば・・・と思う。

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2008.06.07

英語の冒険

久々に書評をする。今回取り上げるのは英語史を面白く描いた『英語の冒険』である。

英語の冒険 (講談社学術文庫 1869)英語の冒険 (講談社学術文庫 1869)
三川 基好

講談社 2008-04-10
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英語は5世紀頃、ゲルマン人(ローマ帝国の傭兵部隊)によってイングランドにもたらされた。当時は15万人程度の話者しかいなかった。そんなローカルで小さな言語が今や15億もの人々が使用する言語に成長しているのである。その成長過程を描いているのが本書。

本書によれば、英語はバイキングの襲来とフランス系王朝の支配(ノルマン・コンクエスト)によって二度滅亡の危機にさらされている。

バイキング(デーン人)の襲来は、ケルト文化を駆逐し、イングランドの地に根付きつつあった英語を根こそぎ滅ぼしかねない事態だった。しかし、アルフレッド大王(英国史唯一の大王)がエサンドゥーンの会戦でデーン人に打ち勝ったおかげで、この危機を脱することができた。この後、デーン人とイングランド人の間で交易が行われることになり、その過程で英語は語尾が変化する「屈折語」であることを辞め、前置詞を利用する「孤立語」へと姿を変えた。

つぎの危機はノルマン・コンクエストである。ノルマンディー公ギョーム(ウィリアム)がイングランド(というかアングロ・サクソン)のハロルド王を戦死させたのである。これによってイングランドの支配層はノルマン人になった。ノルマン人はもともとはバイキングであるが、フランス王の支配下にあるので、広い意味でのフランス語を使っている。この結果、支配層はフランス語、非支配層は英語という二重構造が生まれる。

ノルマン・コンクエストによって約10000のフランス語彙が入ってきた。しかし、ここで、英語は持ち前の柔軟性を見せた。もともとの英語単語とフランス語単語とを置き換えるのではなく、吸収してしまったのである。

例えば果物一般を表していたappleに対し、フランス語からfruitが入ってきたとき、果物一般を表すときにはfruitを、りんごを表すときにはappleをという使い分けを行うことにした。また、もともとあったaskとフランス語から来たdesireとを併用し、微妙なニュアンスの違いを使い分けによって表すという対応もした。こうした柔軟な対応によって、英語は滅ぼされること無く、むしろ表現豊かな言語に成長した。いつの間にか、支配層も英語を用いるようになってしまった。

2つの危機を乗り越えた後、英語はチョーサーシェイクスピアの作品によってイングランド人の言語として完全に根付いた。さらにイギリスが世界帝国として成長するのに伴い、アメリカ、オーストラリア、インドへと世界中に拡大していった。アメリカではマーク・トウェインによる新しい文体が生まれた。

英語の強みの一つはその語彙吸収力である。上述したノルマン・コンクエストのときの対応もその一例である。また、植民地では地元で生まれた表現が英語に取り入れられた。たとえば、"OK"は語源不明であるが、アメリカで生まれた言葉であり、現在は英語圏以外でも使用される最も有名な言葉となった。産業革命以降の科学技術の進展に伴って生まれた新語も英語を豊かにするものとして迎え入れられた。

もう一つの強みは「屈折語」をやめたことである。これによって、文法が簡略化され、習得が簡単になった。小生はロシア語やフランス語を学んだことがあるが、人称変化、格変化には悩まされたものである。

本書にはヤーコプ・グリム(あのグリム兄弟の兄の方)による英語の強みについて述べた文章が引用されている:

現代の諸言語の中で、英語ほど大きな力を持ち生気に満ちているものはない。それは英語が古い音韻体系を捨て、ほとんどすべての語形変化を捨てたことと、教えるのも学ぶのも困難な曖昧な音を排してきたことの結果だ。英語はおそらくこれまでにどの言語も達成したことがないほどの表現力を獲得した。<中略>現存する言語のどれひとつとして、その豊かさ、合理性、精緻な構造において英語に比ぶべくもない(450ページ)

異文化、新文化に対して柔軟に対応できることが、英語を世界的な言語に成長させた理由の一つなのだろう。原著は2003年に出版されたものであるため、ネット上で生まれた"blog"という新語も取り上げられている。本書で"blog"の意味を「ネット上のメールマガジン」としているのはご愛嬌。ともかく、英語はこれからも新たな語彙を加えながら成長していくのだろう。

著者は言語学者ではなく作家である。丹念な調査をベースにしながら、英語を一個の成長する生き物として(つまり擬人化して)描き出すことによって、英語史を読みやすく楽しいものとしている。

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2008.06.06

氷室冴子先生死去

享年51。肺がんだった。

小生は中学のときに『ざ・ちぇんじ!』とか『なんて素敵にジャパネスク』などの平安朝物をコバルト文庫で読んだものである。

ざ・ちぇんじ!〈前編〉―新釈とりかえばや物語 (1983年) (集英社文庫―コバルトシリーズ)
ざ・ちぇんじ!〈前編〉―新釈とりかえばや物語 (1983年) (集英社文庫―コバルトシリーズ)氷室 冴子

集英社 1983-01
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なんて素敵にジャパネスク (コバルト文庫)
なんて素敵にジャパネスク (コバルト文庫)氷室 冴子

おすすめ平均
stars王朝時代を現代感覚で
stars中学生くらは読んで損なし!
stars歴史音痴も楽しめます☆
starsちょっとビックリ!
starsこんな女の子もいたのかな。

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『ざ・ちぇんじ!』を読んだときの衝撃は凄かった。

権大納言家には、母親は違うが、顔立ちはそっくりという美しい姉弟がいた。腕白な姉は男子として、すぐ気絶してしまう弱弱しい弟は姫として育てられる。成人した後、姉は妻を娶ることになり、弟は後宮に入ることになる。さあ、どうする?と言う話である。

面白くて上下巻2日で読んでしまった。しかも何度も読み直した。そういや同級生(男ども)に貸し出したところ、誰からも絶賛されたものである。

この話、実は『とりかえばや物語』という元になった古典がある。

とりかへばや物語 1 春の巻 (1) (講談社学術文庫 293)
とりかへばや物語 1 春の巻 (1) (講談社学術文庫 293)桑原 博史

講談社 1978-10
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おすすめ平均 star
star王朝文化のお笑い劇!?

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まあ、元の作品も古典にしては面白いんだけど、やはり氷室冴子の手による『ざ・ちぇんじ!』の面白さには勝てない。

「とりかへばや」と「ざ・ちぇんじ」の比較はここに出ているので時間がある人は参照のこと。

『なんて素敵にジャパネスク』はコミック(白泉社)にもなったし、ドラマ(主演:冨田靖子、木村一八)にもなった。登場人物紹介なんかはこっち(集英社サイト)をご参照ありたし。

訃報に接して、昔読んでいたときの記憶が蘇ってきた。また読みたい。

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2008.05.09

調査地被害

宮本常一・安渓遊地(あんけい・ゆうじ)『調査されるという迷惑』を読んだ。

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本
宮本 常一 安渓 遊地

みずのわ出版 2008-03
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著者たちはこのブックレットを通して、野外調査(フィールド・ワーク)が調査対象となった地域社会にとっては迷惑になり、場合によっては地域社会や地域の資源を破壊することもあるということを警告している。

『忘れられた日本人』などで知られる民俗学者、宮本常一氏の「調査地被害」という文章(1972年)を第1章とし、以後その問題意識を引き継いで、第2章から第7章まで安渓遊地氏がフィールドワークの経験にもとづいて「調査されるという迷惑」を語っている。

「おまえ、何をしに来た。なに調査だ? バカセなら毎年何十人もくるぞ」

調査地の一つ、西表島の人々から安渓遊地氏に浴びせられる言葉には、地域社会に対する調査者の態度に対する怒りがはっきりと現れている。

この本を読んで思い出したのは網野善彦『古文書返却の旅』(中公新書)である。これも調査地被害の一種を語った本である。

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)
網野 善彦

中央公論新社 1999-10
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1950年代に漁村資料の資料館を設立する構想があり、全国から100万部もの文書が借用されたことがあった。事業は打ち切りになり、借用した文書の多くは返却された。しかし、研究者が個人で借用した文書の中には未返却のまま放置され続けたものがあった。

網野善彦氏は未返却文書の後始末を託され、約40年の歳月をかけて古文書返却に従事することとなった。その経緯を記しているのがこの『古文書返却の旅』である。

この本によれば、先の「調査地被害」を書いた宮本常一氏も1950年に対馬で借用した文書を返却しておらず、網野氏が返却作業にあたることになった。網野氏が古文書返却作業をしていることを知り、宮本常一氏は「これで自分も地獄からはい上がれる。よろしく頼む」と述べたという。なぜ自分で返却しなかったのか、事情がよくわからないが、長らくこの件は宮本常一氏を責めさいなんでいたようである。

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2008.05.07

不幸感と相対的剥奪:黒山もこもこ、抜けたら荒野

水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』(光文社新書、2008年)を読み終わった。

買ってから数ヶ月放置していたのだが、5月6日の午後にようやく手を出して日付の変わるころに読了。

黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)
黒山もこもこ、抜けたら荒野  デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)水無田 気流

光文社 2008-01-17
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おすすめ平均 star
star面白いのは題名だけ
starおだやかで、まっとうな
star煽り文に騙されてみると・・・

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「黒山もこもこ」というのは高度成長期、「荒野」というのはバブル崩壊後から現在までの社会状況を表現した言葉である。著者は1970年生まれの詩人で社会学者である(ちなみに小生も同じ年の生まれ)。著者はこの本の中で、こつこつと地道に物事を積み上げていくプロセスを重視する教育を受けながら、成人してみると結果主義の世の中になっていたという、うらぎられたような感覚を軸にして、現在の日本社会の問題点を次々に指摘している。

これが単に日本社会のゆがみを糾弾するだけの本だったら退屈だったと思う。それが、一気に読みとおすことができたのは、そのユーモラスな文体と的確な表現によるところが大きいと思う。画一的な教育で育てられてきた自分たちをジムやザクに例えたり、70年代生まれを単に「デフレ世代」と言うだけでなく、「社会へ出荷される出口のところで、ちょうど自分たちが乗ってきたベルトコンベアがほころびはじめた世代」、「あらかじめ失われた世代」、「けっして現実化することのない『絵に描いた餅』を、ながめて育った世代」などと上手くユーモアを交えて表現している。詩人としての面目躍如である。

また、「社会移動」、「文化資本」、「準拠集団」、「相対的剥奪」などの社会学の用語を使って、日本社会の変化や問題点をわかりやすく説明しているあたりは社会学者としての分析力と論理性が発揮されている。

詩人としての表現力と社会学者としての分析力・論理性とが結合しなければ生まれなかった本だと思う。

この本でよくわかったのは、幸福感というか不幸感は「相対的剥奪」を源泉としているということ。人は他人や過去の自分と比較して自分を幸福あるいは不幸であると判断する。だから、受験戦争を経ながらその結果があまり生活や社会的地位に反映されていない小生らデフレ世代は、高度経済成長期にどっぶり漬かった小生の親たちの世代や、バブル世代、またはバブル崩壊後に育った世代に比べ、不幸感がより大きくなるのである。

だが、著者は悪い面ばかり述べているわけではない。不幸感を抱え、問題意識の強いデフレ世代は、それだけいろいろなものが見える世代だのであると述べている。

われわれの視界は、他のどの世代よりも広いはずである。(132ページ)

というわけで、小生も万物を見つめ続けていきたいと思います。

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2008.05.02

『蟹工船』売れてるって

プロレタリア文学の代表的存在である、小林多喜二の『蟹工船』が売れているらしい:
「蟹工船」再脚光…格差嘆き若者共感、増刷で売り上げ5倍(ヨミウリ・オンライン 2008年5月2日)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)
蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)小林 多喜二

おすすめ平均
stars格差社会を考えるときにぜひ一読を
stars蟹工船
stars荒削りな文体、剛直の文学

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格差社会を実感する人々の間に共感が広がっているのではないか、との話である。

小生は中学校のときに読んだ記憶があるのだが、内容の記憶がない。まだ日本が繁栄していた頃なので共感を覚えなかったのだろう。

『蟹工船』の本文は版権が切れているので、ネット上の「青空文庫」で読むことが可能。本文はこちら

「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」  二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函館(はこだて)の街を見ていた。

ちなみに。
あさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』だっけ? カニ星人「クラードニカ」が登場し、ハサミから「カニ光線」を出す話があるとかないとか。

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2008.05.01

ライフ・ハック技術

図書館で借りたライフ・ハック技術の本を紹介する:
Ron Hale-Evans『Mind パフォーマンス Hacks ―脳と心のユーザーマニュアル―』

著者はテクニカルライターであり、ゲームデザイナーでもある。

Mind パフォーマンス Hacks ―脳と心のユーザーマニュアル―Mind パフォーマンス Hacks ―脳と心のユーザーマニュアル―
Ron Hale-Evans 夏目 大

オライリージャパン 2007-08-25
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ライフ・ハックというのは、生活に工夫を加えることによって生産性を向上させることである。いや、自己の能力の開発といった方が良いか。今回紹介する本では「頭の武道」と言っている。

本書の序章「はじめに」では人間コンピュータ、メンタート(Mentat)が紹介されている。訓練によって生身のままで驚異的な情報処理を行う人のことである。SF「デューン」のシリーズに出てくる、抜群の記憶力、数理的処理能力、戦略立案能力を備えた人のことである。

「頭の武道」:ライフ・ハック技術を駆使しても到底こんな人にはなれないのだが、全くやらない場合に比べたら、やった方がはるかに生産性が向上する。そういうライフ・ハック技術を以下の8つの領域に分けて紹介しているのが本書である:
「記憶」、「情報の処理」、「創造力」、「数学」、「意思決定」、「コミュニケーション」、「明晰さ」、「知性の健康」。

どこから読んでもいいのだが、小生が熟読したのは「創造力」の章。何かを創造するためには環境から種を入れないといけないという話から始まり、発想法、想像力を高める方法、夢を利用する方法、他の人になりきる方法、自らの発想の道筋をトレースする方法などが紹介されている。発想法だけでも、単純なアイディアのプールからランダムな組み合わせによって複雑なアイディアを構成する手法、de Bono(水平思考を生み出した人)のPO、Bob EberleのSCAMPER、金言・警句による手法など様々な方法が紹介されている。

ハウツー本の一種ではあるが、グレッグ・イーガンやファインマンなど理工系の人間が喜びそうな話からの引用がちりばめられており、無味乾燥にはなっていない。メンタートの話もそもそもそうである。自らをチューン・アップすることの楽しみが伝わってくる。

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2008.04.18

「馬鹿だなあ」は褒め言葉

オライリー・ジャパンから出ている『Make: Vol. 4』が届いたので点検読書中。

今回の特集は「alt.vehicles 自分だけの乗り物を作る」だが、オタク心を揺さぶるようなものばかり紹介されている。

Make: Technology on Your Time Volume 04Make: Technology on Your Time Volume 04
オライリー・ジャパン

オライリージャパン 2008-03-25
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オタクにもいろいろあるが、このMake:が対象とするのはMakerという、既製品をそのまま受け入れるのではなく、手を加えたり、まったく新しいものに改造してしまったりする人々である。「やらされている」感や義務感の強い企業技術者ではなく、本能的に好きが高じてものづくりをしてしまう人々である。イノベーションというのは金銭的誘導や国策によって促されるのではなく、こういうMakerによって進展していくのではないかと、読んでいて思う。

さて、alt.vehiclesとして紹介されているのは、以下のように改造自転車ばかりである:


  • 三輪自転車実現する「どこでもドライブインシアター」
  • ママチャリをチョッパーハンドルにして「ちょいワル」化
  • バイクを見せ掛けだけオンボロにして、盗難防止

なんで改造自転車ばかりかと言うと、手を加えやすいからである。さいきんの自動車なんか、電子部品ばかりで改造に向かず、改造したら今度は法規制にひっかっかってしまう。

ここに取り上げられた改造自転車たちに対して、常識人からは「役に立つのか?」とか「かっこ悪いと思わないのか?」とか非難が浴びせられそうだが、技術を我が物にするということこそMakerにとっては重要なのである。

今回の号には世界カボチャ投げ大会の記事も取り上げられている。カボチャを1マイル飛ばすことを夢見るMakerたちが、全長30メートルもあるエアガンや投石器を開発し、実際にチャレンジし続けている姿が紹介されている。小生もMaker魂が少々あるので、肯定的な意味でこの人たちを「馬鹿だなあ」と褒めたいと思う。

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2008.04.08

ロシア資源外交の虚実

仕事で必要なので、先日購入したブックレット「エネルギー安全保障―ロシアとEUの対話」を読んだ。

エネルギー安全保障―ロシアとEUの対話 (ユーラシア・ブックレット No. 113)エネルギー安全保障―ロシアとEUの対話 (ユーラシア・ブックレット No. 113)
坂口 泉 蓮見 雄

東洋書店 2007-10
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近年、ロシアがエネルギー資源大国として存在感を増しているが、その実態、特に脆弱性が取り上げられている。結論としてロシアにはエネルギー「戦術」はあってもエネルギー「戦略」が無いことが指摘されている。

ロシア政府は国内外の長期的なエネルギー需給見通しも、それにもとづく設備投資計画も持っていない。そのため、各エネルギー会社が勝手に戦術を展開しているというのが実態である。また、各会社の状況を見ると、石油企業は短期収益性を追求し、設備投資を軽視、ガス企業はガス鉱床開発の選択と集中ができないまま、という有様である。

著者らは「ロシアは、豊富なエネルギー資源埋蔵量をもつにもかかわらず、十分な供給ができなくなる」かもしれないという問題意識を有してこのブックレットをまとめているが、このブックレットを読む限り、それは杞憂に終わらない可能性がある。

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2008.04.02

労働をしないほうが偉い

『有閑階級の理論』第三章「顕示的閑暇」読了。

ヴェブレンが抑制された調子の文体で有閑階級を小突き回しているのが面白くなってきた。

第三章の中身はこんな感じ:

「金銭的競争心」はそのままであれば、蓄財と倹約に結びつく。労働を回避できない階級においてはその通りである。「生産能率と節約という分野でしか取得と蓄積をなしえない人々にとっては、金銭的な名声をめぐる闘いは、ある程度までは勤勉と節倹の増加をもたらすであろう。」(『有閑階級の理論』p. 47 - 48)

上層の有閑階級ではこうはならない。古代においては略奪によって、現在においてはなんらかの合法的な手段によって富を得ることができる人々は生産的労働を回避する。略奪が賞賛されていた時代の記憶から、有閑階級にとって労働は弱さと従属を連想させるものとなっている。

尊敬を勝ち得るためには富を所有しているだけではダメで、それを顕示する必要がある。顕示するための道具として、野蛮な時代には戦利品があった。文明が発達するとその代わりに階級や記念メダル、さらに生産的でない学問知識、礼儀作法、身だしなみなどが登場する。

礼儀作法は習得に時間がかかるが、これこそが大事な点である。習得に時間を費やすには、それだけ金銭的な余裕が無いといけない。礼儀作法を身につけていることは富の所有を示すことになり、尊敬を勝ち得るために役立つ。

「気高い紳士・淑女の堂々とした振る舞いを見られたい。それはきわめて高い権威と独立した経済的な暮らし向きを如実に物語るばかりか、同時に、何が正しく優雅であるかに関するわれわれの感覚に、きわめて説得的に訴えかける。」(『有閑階級の理論』p. 63)

この章で読み取るべきことは


  • 有閑階級が偉いとされているのは生産的な仕事をしないで済むくらいの富を持っているから
  • 有閑階級は生産的な仕事をしていないことを示すために、学問知識、礼儀作法、身だしなみなど時間と金のかかることを行う

ということである。

お稽古事が行われる理由は、さてはプチ有閑階級になって尊敬を得たいためだな。

それはそうと、『有閑階級の理論』の原文(英語)はネット上で読めることがわかった。これである。

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富こそ評価の基準

「有閑階級の登場は所有権の開始と時期を同じくしている。この二つの制度はおなじ一組の経済的な力からもたらされたものであるから、これは当たり前のことである。」(ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』 第二章「金銭的な競争心」)

ヴェブレン『有閑階級の理論』、第二章「金銭的な競争心」を読んだ。概略は以下の通り:

前の章で出てきた重要なキーワードは製作者本能という言葉。人間には効率性を尊ぶ本能がある、ということを意味している。そして、また人々はこの製作者本能にもとづく競争心を抱いている。

十分な食料や生活必需品がない野蛮な時代、それらを効率よく獲得する手段として戦争、略奪が選択される。戦争や略奪で目覚しい働きがあった者は、英雄として尊敬を得る。そして、戦利品はその功績を誇示する手段となる。戦利品の所有=尊敬の獲得という枠組みが成立する。また、戦利品の所有が人々の競争心を煽ることとなる。

文明が発達し、生産力が向上すると、物品の獲得手段としての戦争、略奪の意義は低下する(効率が悪いから)。そして、戦利品の所有ではなく、財産の蓄積や産業を興すことで富を所有することが尊敬すべき成功の尺度となる。人々は今度は富の所有をめぐって競争するようになる。このときの人々の心理を表す言葉が「金銭的な競争心」である。

ヴェブレンの時代の経済学では富の所有の動機は、まず生存のためであり、つぎに生活の質の向上のためであると想定されていた。しかし、ヴェブレンによれば、さらに人々の間の競争心ということが富の所有の動機となる:

蓄積誘因が生活の糧や肉体的快適さの欠乏であるとすれば、社会の経済的な必需品総量は、おそらく産業能率が向上したどこかの時点で満たされる、と考えることもできよう。だがこの闘いは、実質的に妬みを起こさせるような比較にもとづく名声を求めようとする競走であるから、確定的な到達点への接近などありあえないのである。(『有閑階級の理論』p. 43)

清貧とか自制ということが尊敬を得る文化も確かにある。しかし、ざっと世間を見渡した感じだと、富の所有ということが人間を測る尺度となっているような感じを受ける。

文化人類学的には怪しい点があるものの、ヴェブレンは金銭的競争心の由来を古代の戦利品獲得競争に由来すると言っているわけである。

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2008.04.01

古典にチャレンジ:『有閑階級の理論』

「命短し、たすきに長し」ということで、人生を無駄にしないように時間を惜しんで古典にチャレンジすることにした(実は本なんか読んでいるより重要なことがあるという可能性を否定しきれないが)。

で、取り出だしましたるはソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(ちくま学芸文庫)である:

有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)
ソースティン ヴェブレン Thorstein Veblen 高 哲男

筑摩書房 1998-03
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とりあえず点検読書をした後で、まず第1章「序説」を読んだ。以下その要約:

有閑(レジャー)階級という制度は、封建時代のヨーロッパや日本などの「野蛮時代の文化」が高度化した段階で、最高に発展している。

有閑階級というのは貴族や聖職者およびその従者で構成される階級であって、統治、戦闘、宗教、スポーツなどの非産業的な職業に従事している。

まだ有閑階級を持つにいたっていない、より原始的な社会でも、男は戦闘、狩猟、スポーツ、宗教に、女は産業的な仕事に従事するというような形で、有閑階級VS労働者階級の構図の原型が存在する。産業は原始社会で女性が担当していた仕事の派生物だと言って良い。

有閑階級という制度は、共同社会が平和愛好的な原始未開から好戦的な野蛮へと移行する間に発生した制度である。

有閑階級が従事する非産業的な仕事は尊敬に値する英雄的な仕事とみなされ、産業的な仕事は退屈な仕事として貶められる傾向がある。この区別は現代でも存在し続けている。その原因として次のようなことが挙げられる。

人間はもともと有用性や効率性を高く、不毛性や無能さを低く評価する性向=製作者(ワークマンシップ)本能を持っている。

好戦的な野蛮時代、製作者本能の下では、戦闘や狩猟などで目に見える形で富をもたらすことが高評価を得る。これに対し、骨を折るだけで退屈な産業的な仕事は低く評価される。

ここに有閑階級の従事する仕事への賞賛と、産業的な仕事への厭わしさが生じる。

ここで、注意。
ヴェブレンの用語ではどうも、「原始未開」->「野蛮」->・・・というように社会が進歩するということらしい(ついでに言うと封建社会は野蛮人の社会なのか?とも思ってしまうようなことが書かれている)。普通は民族学者ルイス・ヘンリー・モーガンが『古代社会』(1877)の中で唱えたような、野蛮->未開->文明の古代社会三段階進化説がとられるのだが。いずれにしても現在から見ると死語にも近い古い用語である。

第1章で読み取るべきことは


  • 有閑階級は上流階級であり、産業的な仕事をしない
  • 有閑階級の仕事は尊敬され、産業的な仕事は嫌がられる

の2点である。なんか腹立つ話であるが、セレブがもてはやされることと関係ありそうだなとも思う。

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2008.03.27

創刊100号:月刊タウン情報やまぐち

美容室だの、カーディーラーだの、県内あちこちの待合室でマガジンラックに置いてある「月刊タウン情報やまぐち」が創刊100号を迎えたらしい。ほかの地方の人はご存じないと思うので一応ご紹介まで。

飲食店やイベント等、ごくローカルな情報を知るためにはこういう雑誌が便利。狭い商圏でも、地元密着なら生き残れるということか。宇部日報もそうか?

100号記念特集ということで、山口県のトリビアを100個集めた記事があるのだが、そこからいくつか紹介する:


  • 日本一簡単な県名は「山口」
  • 日本一スケールの大きい山焼きは秋吉台
  • 日本一の総合公園は常盤公園
  • バナナの叩き売りの発祥地は下関

一番上のネタは、住所を書くときにいつもありがたみを感じることである。よその県名で書き間違えそうになったことは結構ある。一番下のネタは北九州市門司区との間で揉めそうである。

知っている人がいるかもしれないが、「月刊タウン情報やまぐち」になかったネタを2つ。

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2008.03.23

企業に道徳を求めるのは滑稽だ:コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』

アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』の本編全部を読了。

あと、講演会での参加者との質疑応答が記録された「対話編」というのがあるが、これは今後、ちまちま読むということで。

第4章「混乱する秩序」と終章に当たる「おわりに」の要約は以下の通りである:

1. パスカルの言う「滑稽さ」と「圧制」 第2章で示したように、世界には4つの秩序がある。ある秩序が他の秩序と混同されることをパスカルに倣えば「滑稽さ」と言う。そして、ある秩序を他の秩序に従えようとすることを「圧制」という。例えば、共産主義は「経済-技術-科学の秩序」を「道徳の秩序」に従わせようとした「圧制」の一例である。

2. 「野蛮」と「純粋主義」
4つの秩序には主観的に見て優劣があり、「経済-技術-科学の秩序」<「法-政治の秩序」<「道徳の秩序」<「愛(あるいは倫理)の秩序」というように後者の方が上位の秩序となる。

「圧制」にも二種類あり、低次の秩序に高次の秩序を従わせようとする場合を「野蛮」、高次の秩序に低次の秩序を従わせようとする場合を「純粋主義」と言う。先ほどの共産主義は「純粋主義」の一例である。多数決で道徳行為を決めようとする場合、多数決というのは「法-政治の秩序」であるから、「法-政治の秩序」に「道徳の秩序」を従わせようということであるから、「野蛮」の一例となる。テクノクラシーもまた野蛮の一例である。

「野蛮」や「純粋主義」に陥ることなく行動するためには、秩序をわきまえた上で行動しなくてはならない。例えば、AIDS対策の場合はこうである。AIDSは最終的には医学的に解決される問題であり、道徳や政治で解決されるわけではない。道徳的立場からAIDS患者を助けようと思った場合、直接AIDS患者を励ましにいくのは道徳的には良いかもしれないが、実際の効果は無い。そうではなく、まず政治を動かし、政府にAIDS対策予算を計上させ、それによって医学的研究と治療を推進させなくてはならない。

3. 「責任」
4つの秩序はそれぞれの原理に基づいて働いており、必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。お互いに対立しあう場合もある。そういう場面に直面したとき、個人がどの秩序を優先するかを決定しなくてはならない。これを責任と言う。責任とは個人的なものである。

4. 企業倫理
企業に道徳を求めてはいけない。なぜなら、企業とは経済の秩序にしたがって行動するものであるから。道徳を求めるとすれば、それは企業で働く人々個人個人に求めなくてはならない。

経済活動において「顧客尊重」という価値があるが、これは経済の価値であって、道徳の価値ではないことにも注意しなくてはならない。

5. 政治の必要性
経済活動の持つ可能性を最大限引き出すことによって、資本主義社会は繁栄した。しかし、経済の秩序を放置すれば、ウルトラ・リバータアリズムに至る。つまり「貧乏人は死ね」という状況に陥る。道徳的立場から見ればこれは正しくない。経済の暴力性を掣肘することができるのは政治の力である。個人のささやかな道徳を強力な経済に影響させるためには政治を介さなくてはならない。

6. 個人における秩序の優越、集団における秩序の優位
個人レベルでは「経済-技術-科学の秩序」<「法-政治の秩序」<「道徳の秩序」<「愛(あるいは倫理)の秩序」というように後者の秩序がより重要になる。これを「優越」という。

これに対して、集団の場合、「経済-技術-科学の秩序」>「法-政治の秩序」>「道徳の秩序」>「愛(あるいは倫理)の秩序」というように前者の秩序がより重要になる。これを「優位」という。

7. 重力と恩寵
シモーヌ・ヴェイユの言葉を借りれば、集団が「経済-技術-科学の秩序」>「法-政治の秩序」>「道徳の秩序」>「愛(あるいは倫理)の秩序」というように前者の秩序をより重要に見なす傾向を「重力」という。道徳や倫理はきわめて個人的なものであるので、政治の方が優先される。また一国の政治よりもグローバルな経済の方が優先される。こういう傾向を「重力」と呼ぶ。

人々は「重力」に服従してしまうが、時として経済よりも政治が、政治よりも道徳が優先されることがある。これを「恩寵」という。集団をより高次の秩序に導く人のことをカリスマという。

重力に抗してより高次の秩序に向かおうとするためには愛と明晰さと勇気とが必要である。

ということで、資本主義自体には徳はなく、その中の個人個人に徳が求められるということが本書の結論である。

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2008.03.22

アーサー・C・クラーク追悼

3月19日未明、呼吸不全によりスリランカの病院でSF作家アーサー・C・クラークが死去した。90歳だった。

アーサー・C・クラークの代表作としては『2001年宇宙の旅』がよく知られているが、小生としては以前紹介した、『幼年期の終わり』の方を代表作として挙げたい。1953年にこのような深遠な(それでいて難解ではない)内容の作品が書かれたと言うのはSF史上にも、文学全体にも残る偉業であると思うからだ。

追悼の意味でももう一回読み直そうかと思う。


幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)クラーク 池田 真紀子

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2008.03.17

「倫理は儲かる?」:コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』

アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』(紀伊国屋書店)の第1章を読んだところである。企業倫理とかCSRとか技術者倫理とかが問われる世の中になっているが、哲学者が道徳と資本主義の関係について検討した本はあまりないのではないか?小生が読んでいないだけの話かもしれないが(環境倫理の本は良く見るが)。

資本主義に徳はあるか資本主義に徳はあるか
アンドレ コント=スポンヴィル Andr´e Comte‐Sponville 小須田 健

紀伊國屋書店 2006-08
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第1章「道徳の回帰」を要約するとこういう感じである:

今は道徳とか倫理とかが問われる時代になっている。別に人々が道徳的になってきたというわけではない。なぜ、道徳への回帰が起こっているのかというと、つぎの3つの原因が挙げられる。
  • 第一に、政治が人々をひきつけなくなったということが挙げられる。一世代(30~40年)前は政治の方が重要だったはずだ。例えば、一世代前は左か右か、チェ・ゲバラかドゴールかという議論が行われていた。今は人権のような道徳に属するものが議論され、国境なき医師団のようなNGOの活動が重要視される時代になっている。
  • 第二に、冷戦時代は資本主義陣営は社会主義陣営がうまく行っていない(経済低迷、人権抑圧)ということで正当化されていたのに、社会主義陣営の崩壊によって資本主義陣営の正当性のよりどころがなくなってしまったということが挙げられる。世界が資本主義化した状況下で何に頼ったらよいかということで道徳への回帰が始まっている。
  • 第三に、かつては宗教が社会を結び付けていたのに、現在では信仰は完全に個人に帰属する問題になっており、社会の絆が必要とされていることが挙げられる。宗教の変わりに道徳が必要とされている。
これらの原因から道徳が必要とされるようになってきた。

この「道徳への回帰」の時代、驚くべき出来事が起こっている。「企業倫理の流行」である。アメリカ発の「倫理が企業イメージを向上させ、生産性を上げ、最終的には企業に利益をもたらす」という考えが広がっている。しかし、カントによれば、道徳的価値とは利害を離れたところにあるはず。企業倫理が利益をもたらすとすれば、それは表面上、道徳にかなっているように見えるだけで道徳とは無関係である。

小生もちょっと考えてみた。例えば、落し物を拾って届ける行為について。落とした人が困っているだろうと思って交番に届けるとすれば、これは道徳的行為、1割もらおうと思って届けた場合は道徳にかなっているが利益行為というわけである。

つまり企業倫理とは、倫理的に見える企業活動ということであって、企業の倫理ではない。

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2008.03.02

読書法にもいろいろある:点検読書とは

最近は出張だの,フリーの数値流体力学シミュレーションソフトのインストールだの,いろいろあって更新をサボっていたが,この忙しい中,読んだ本を紹介する:
アドラー『本を読む本』

本を読む本 (講談社学術文庫)
本を読む本 (講談社学術文庫)モーティマー・J. アドラー C.V. ドーレン Mortimer J. Adler

講談社 1997-10
売り上げランキング : 25

おすすめ平均 star
star読書人、必読の本
star基本となる本
starまともな読書法

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これは楽しみのための読書の本ではなくて(というか,楽しみのためだったら読書法なんてどうでもいい),広い意味での仕事のために本を読むときのテクニックを教えている本である.

アドラーは,つぎの4つの読書法があると言っている.これらの読書法は順にレベルがアップしており,後方の読書法は前方の読書法を包含する関係になっている.


  • 初級読書
  • 点検読書
  • 分析読書
  • シントピカル読書

初級読書は単に本が読めるというレベルの読書.だからこの本ではあまり問題にしていない.

点検読書は本の品定めをするための読書法である.

分析読書は本を本当に理解するための読書法である.この本では最も力を入れて説明している.

最後のシントピカル読書とは同じテーマに関して2冊以上の本を読むと言う読書法.シントピカルの「シン」というのはシンクロナイズとかのシンと同じ意味で,「同じ」とか「共に」という意味.「トピカル」というのは「トピック」「主題」の意味である.要するに,シントピカルとは,「同一主題」という意味である.

小生としては「点検読書」という読書法が積極的な意味で評価されているのが気に入った.書店や図書館で立ち読みしていたり,家で斜め読みしていたりするだけだと,なんとなく本に申し訳ないような気がしていたのだが,これらを「点検読書」として考えれば,罪悪感をぬぐうことができる.

人生は短いので,ある本を最後まで読み通さないでも,その本が読むに値するかどうかを判断できるということは重要である.また,読むに値する本であっても,いきなり通読したら時間だけかかって,その本の全体像がわからないままになることがある.ここに点検読書の意義がある.

アドラーによれば,点検読書は次の2つの要素で形成されている:


  • 組織的な拾い読み
  • 表面読み

組織的な拾い読みをするということは,具体的には次の作業を実施することである:

  • 表題や序文を読む: 著者のものの見方や,本の主題がわかる
  • 目次を読む: 本の構造(話の展開)がわかる
  • 索引を調べる: 索引がついている場合,登場する回数が多い言葉ほど,その本で重要な役割を担っているわけである
  • カバーや帯を読む: もっとも凝縮された情報がここに書かれている
  • 要となる章を読む
  • ところどころ拾い読みする

    ここで最後に挙げた「ところどころ拾い読みする」ということについて補足すると,アドラーは各章の最後の2,3ページに注目するというテクニックを紹介している:
    とくに最後の2,3ページは必ず読む.結びの部分がある場合は,その前の2,3ページがこれにあたる.この最後の数ページで自分の仕事の新しさ,重要さを要約する,という誘惑に勝つことのできる著者はめったにいない.だから,<中略>この部分を見逃すという手はない.

    点検読書のもう一つの要素,表面読みとはとにかく読み通すということである.先日の「論文の技法」では「どんどん書け」「どんどん直せ」ということが主張されていると述べたが,読書の場合は「どんどん読め」「どんどん読み直せ」という主張にまとめられるだろう.本を一回限りで理解しようなどと気構えないことである.点検読書のつぎは分析読書をすればよいので,点検読書の段階ではわからないところがあってもどんどん突き進むことが必要である.そのときに「重要な主張」や「難解な部分」を発見したら,斉藤孝先生のごとく,本にマーキングをしていけばあとで分析する際に役に立つので,なお良い.

    アドラーによれば,点検読書の目的は,(1)対象としている本が何に関する本なのか,(2)何がどのように詳しく述べられているのか,の2点を明らかにすることである.たくさん本を通読していても,結局こういうことさえわからないまま,ということは多い.小生としては,これらのことさえ明らかにしたら,「本を読んだ」ことにしてしまっても良いのではないかと思う.アドラーは言っていないが,小生の提案としては,現在はポストイットという便利なものがあるので,これに上述の(1)(2)をメモして,本の中表紙にでも張っておけば,あとあと分析読書する場合に役立つのではないかと思う.

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    2008.02.25

    論文の技法

    先日、「内容はいいのに、翻訳が駄目」という記事で取り上げた『論文の技法』を再読して要約してみた。

    論文の技法 (講談社学術文庫)
    論文の技法 (講談社学術文庫)ハワード・S. ベッカー パメラ リチャーズ Howard S. Becker

    講談社 1996-09
    売り上げランキング : 140255

    おすすめ平均 star
    star内容は○、翻訳は×
    star文書作成法であるとともに、書くという考える行為を自分のものとする課題を扱う
    star論文が書けなくなりそうな時に

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    この本は本文だけで300ページあるものの、内容を要約すれば非常に簡単である。「どんどん書け」「どんどん直せ」ということに尽きる。こんなに簡単に要約できるのは、著者の姿勢がぶれないからである。

    <要約>

    第一章 大学院生のためのフレッシュマン英語―一つの回顧録、二つの理論
    この章は著者が大学院生に対して論文執筆の指導をしたときの経験をもとに書かれている。この章の要点は、「一回書けば終わり」という考え方をなくそう、ということに尽きる。はじめから優れた論文を書くことは不可能であり、何度でも手直しすることを前提として論文執筆に当たれば、書き始められないという問題をクリアできる、ということを主張している。

    第二章 ペルソナと権威
    なぜ論文は小難しい気取った文体になるのかということについて、論文の文体の背後にあるペルソナ(人格)を用いて説明した章である。

    論文を執筆するとき、執筆者は学術的ペルソナ、つまり研究者という人格をまとい、研究者らしいとされる文体で文章を書くのである。「学術的ペルソナは、筆者を、一般的に、権威があり、彼らが話していることに関して決定権をもつ資格があると思わせるようにするのです。(79~80ページ)」

    また学術的ペルソナが生まれる源泉は、特定の研究分野の権威的人物や集団の言動である。論文執筆者はその研究分野の一員であることを示すため、権威的人物や集団の言動を真似るのである。
    「彼らは自分たちの周りで目にするもの、つまりプロの学術雑誌の論文や著作の書かれているスタイルを、彼らのギルドの会員であることを表す適当なサインとみなして、取り入れてしまうのです。(87ページ)」

    第三章 正しいやり方は一つか?
    この章では文章を構成していく理想的な方法は無いということを述べている。とにかく書き始めてみれば、書き始める前に悩んでいたほど、多様な選択肢があるわけではないことに気付かされるという。

    また、ある主題について記述するのが難しければ、なぜ、その主題について記述することが難しいのかということ自体について記述してみれば良いと著者は述べる。

    第四章 耳を使って修正する
    この章では草稿に手を入れるときの規則が述べられている。文書執筆にはアルゴリズムのような固定した規則が無く、「こう表現すればよく聞こえる」という発見的かつ審美的な規則だけが頼りになると主張されている。つまり、手本とするべき文章を読むことによって鍛えた「耳」が頼りになるということである。

    ここで注意しなくてはいけないのは専門分野の論文の文章ばかり読んでいると「耳」が偏ったものとなってしまうことである。専門分野以外から良いモデルを探すことが必要となる。

    著者自らが示す指針としては次の6つがある。

    1. 受動態に気をつけること
    受動態は行為者を隠してしまうということに注意する必要がある。能動態は理解しやすく、信用を勝ち得る文章を作ることができる。

    2. 語数は少なく
    あることを簡明に言ってしまうと、誰でもいえることのように聞こえる。これを避けようとして研究者は余計な言葉を挿入してしまう。初期の原稿では余計な言葉があっても良い。手を入れるときに削除すればよい。

    3. 繰り返し
    不明確な部分を無くそうとして、くどい語句を使ってしまうことがある。同じ語句を繰返さなくても意味が伝わるのなら削除するべき。

    4. 構文と内容
    構文がその内容についての読者の理解を妨げないように、文の要素を配置すること。

    5. 具体的と抽象的
    「複合」とか「関係」のような抽象語はあまりに一般的で、何も意味しないことが多い。具体的なことが書かれていないと、読者はアイディアを理解できない。

    6. 隠喩
    陳腐な隠喩を使わないこと。「ある本の議論が散漫であると言うほうが、『何らかの新しい切り口が欠けている』と言うよりも、より的確(167ページ)」である。

    第五章 一人の専門家として書き方を習う
    この章では著者の社会学者としての経験から、論文の技法というものは「生涯にわたって学ぶもの」であることが述べられている。

    著者はシカゴ学派の一員として育つことにより、自分は基本的に正しいのだという自信を得、書くことへのプレッシャーから開放された。また、文書執筆を面白いゲームだと見なすことにより、文書執筆の不安に対する免疫を身につけた。著者は常に文書執筆に興味を持っており、なるべく短い文章で複雑なことを伝えるという実験も行っている。また、草稿について批評してくれる友人も持っている。

    第六章 リスク
    この章はパメラ・リチャーズからの手紙に基づく。

    ここで取り上げられているリスクとは、論文の草稿を同業者に見せて批評してもらうことによって生じるリスクのことである。具体的には、同業者からダメ研究者のレッテルを貼られるのではないかということを言っている。未完成な文章を見せたときには「この人は文章が下手だなー」と思われてしまう可能性があるし、草稿に目新しいアイディアが盛り込まれていないときには「新規性や独自性が無いなー」と思われてしまう可能性がある。

    このようなリスクはあるものの、リスクは犯すに足ると著者は述べる。リスクには負けもあれば勝ちもあるのである。このリスクを乗り越え、評価を勝ち得た論文を少しずつ蓄積していけば、このリスクを犯すことはだんだんと容易になるであろうと著者は述べる。

    なお、この章の一節(214~215ページ)に訳者が「アイディアの横取り」という見出しをつけているが、これはおそらく訳者のミス。なぜならこの節では、草稿の読み手が草稿の中に「素晴らしいアイディアを探している」ことは語られているが、アイディアを盗もうとしているとはかかれていないからである。この節で問題になっているのは草稿にアイディアが盛り込まれていないと読み手に判断されてしまうリスクである。その証拠にこの節にはこのような文章がある。
    「もし、洞察の閃きや、注意を引きつけるようなアイディアがないとしたら、読む人が出す結論は何かというと、あなたが愚か者であるということでしょう。(214ページ)」

    第七章 それをドアから外に出す
    この章で問題になっているのは、いつ、論文を公表するかということである。論文執筆者の心中では「あるものをよりよくすることと、それを切り上げることとの間」の緊張が生じている。
    この問題に対して、著者は直接的ではないが、「あなたが、自分でした仕事が実際の世界でどのような役割を果たして欲しいかを決めることによって、あなたの仕事をいつ、ドアから外に出したらよいかが決められるのです」と解答している。

    また、著者は「かけた時間=論文の質」ではないことを示すために、ディケンズらの文豪が書いていたのは安物の週刊誌であったことを述べ、過剰な禁欲主義も戒めている。

    第八章 文献の恐怖
    文献を引用することは、引用文献との対比によって自分の研究のオリジナリティを示すことや、説明の一部を引用文献に負担させることができるという点で便利である。しかし、文献に寄り過ぎるとそれが規範どころか制約になって、研究者が主張したいことが十分に展開できない可能性もある。要約すればこの章では「文献を使え、使われるな」ということが主張されている。

    第九章 摩擦とワープロ
    本章ではワープロ(現代ではパソコン)の普及によって、論文を書き直す際の物理的障壁(本書では「摩擦」と表現している)が低くなっていることが語られている。

    第十章 最後に一言
    本章は全体の要約的な章である。論文執筆は「どんどん書け」「どんどん直せ」ということに尽きる。

    ・・・ということで、論文執筆者にとって非常に参考になる内容の本である。是非一読を!と言いたいとこだが、訳文がまずい。忍耐力がある人だけ、チャレンジしてみると良い。得るものは確かにあるはずである。

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    2008.02.09

    20歳。天才作家デビュー!

    毎月、光文社古典新訳文庫を一冊買っては読書しているのだが、昨日この本を読み終えた。

    肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)
    肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)ラディゲ 中条 省平

    光文社 2008-01-10
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    おすすめ平均 star
    star若くなければ書けない傑作
    star透徹したニヒリズムと純粋さ。

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    『車輪の下で』の記事と同じようなことを書くが、『肉体の悪魔』は今でこそ古典扱いだが、1923年当時は20歳の新星(しかもこの歳で命を落とす)が書いた恋愛心理小説だったのである。若いのにこんなに老成しているなんて!と驚くほどの透徹した文章。

    舞台は第1次世界大戦中のパリ近郊。15歳の少年が、婚約者のいる19歳の女性、マルトに出会い、恋に落ち、妊娠させ、その人生をむちゃくちゃにするという話である。あらすじはスキャンダラスだが、珍しいものではない。重要なのは、ときおりユーモアすら交えられた、主人公の冷めた独白である。冒頭の一文を見れば、ただ事ではないことがすぐわかる。

    僕はさまざまな非難を受けることになるだろう。でも、どうすればいい?戦争の始まる何か月か前に十二歳だったことが、僕の落ち度だとでもいうのだろうか?(p. 6)

    次の引用文を見て欲しい。まるで恋愛のベテランのような言葉の数々。

    精神的な類似は身体にまで及ぶことがある。目つきに、歩き方。(中略)遅かれ早かれ、身ぶりひとつ、声の抑揚ひとつで、どんなに用心していても恋人同士だと分かってしまう日がやって来る。(p. 134)

    すべての愛には、青春期と成熟期と老年期がある。僕はすでに、なにか技巧の助けを借りなければ愛に満足できない最後の段階に来てしまっていたのだろうか(pp. 124 - 125)。

    真剣な話ばかりかと思えば、こっけいな話もある。主人公はマルトの部屋で愛を重ねるのだが、マルトの部屋の真下にはマラン夫妻という夫婦が住んでおり、ある日、仲間を読んでパーティーを開催しようとする。主人公は人づてにそのパーティーの目的を知った。

    マラン夫妻の余興の正体を知ったときの僕たちのびっくり仰天ぶりを想像してほしい。夕方ごろから僕たちの寝室の真下に陣取って、僕たちの愛の行為を盗み聴きしようというのだから。(p. 119)

    主人公はもちろん、マラン夫妻のたくらみを逆手に取り、夫妻のパーティーの最中は音ひとつ立てずに過ごす。そして、

    僕は意地悪く、マラン夫妻がお仲間に聞かせてやりたかったものを、仲間が帰ってから夫妻だけに聞かせてやった。(p. 120)

    小説の終わり近くに書かれた次の一節は印象に強く残る。

    死期の近づいただらしない人間は、そのことに気づいたわけでもないのに、突然、身辺整理を始めるものだ。生活が一変する。書類を仕分けし、早寝早起きし、悪臭を断つ。まわりの人びとはそれを喜ぶ。それだけに、突然の死はなんとも理不尽なものに思われる。これから幸せに生きようとしていたのに。(p. 201)

    訳者の解説によれば、『肉体の悪魔』出版後、20歳で死んだラディゲの最後はまさしくこのとおりだったとジャン・コクトーが証言してるという。まるでラディゲの透徹した文章は自分の最後まで描き出していたかのようである。

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    2008.02.03

    狐寝入夢虜(きつねねいりゆめのとりこ)

    主人公の上岡鳥子は三週間前に職を失った20歳過ぎと思われる女性で、「痩せぎすで、大きな唇の分厚いのがやや捲くれ上がった、ロック歌手のミック・ジャガーが日本でアバンチュールをやらかした際に出来てしまった娘ッ子、とでも言うような風貌をしている。」

    そんな鳥子が空腹に耐えながら近所の神社に散歩に行き、その帰りに迷子になり、年下の古本屋の倅、橘に出くわし、茶飲み話をし、花札をし、帰る道すがら古本屋勤めを考える、という話である。

    あらすじだけからすると他愛が無いが、大事なのは出来事ではなく、まず、鳥子の姿勢や思考であり、さらにこの小説の文体である。文体については別記事で述べたいと思う。

    鳥子は怠け者であり、職に就いていないこと自体は気にしていない。前の職も友人が世話してくれた手前、しぶしぶ続けていただけなのである。鳥子の仕事観は次のようなもの:

    ―仕事にあくせくしなければ自分の存在理由を確認出来ないなんて、それは一段と貧しいじゃないか。
    ―大体、自分の存在理由なんぞ気にしなければ生きていけないとは、随分気取ってやがるのね。

    勤め人の友人から醜悪な忘年会の写真を見せられ、鳥子は(ひょっとしたら著者は)こう思った。
    かようにして社会生活というものが健全かつ自由な精神活動を蝕むというのなら、労働の喜びなどというものは、何と空しい、胡散臭い言葉であろうか。

    怠け聖人をめざす鳥子にとってさしあたっての問題は、口うるさい世間様との縁を切れずにいることである。この状況に対して行き詰まりを感じてはいる。

    鳥子の行き詰まり感を解消するのは意外にも古本屋への就職という決断である。鳥子は自分を雇おうと企む橘(古本屋の倅)の狐に似た容貌に、自分が化かされているのではなかろうかという疑念を抱く。しかし、橘の勧誘は、熱心に見えて、実は熱心さを装った退屈しのぎなのであろうと、鳥子は察する。退屈しのぎでしか熱心になれない、孤独な人間なのであるという点で鳥子は橘に共感を覚える。そして孤独に向き合いながら世を過ごす術として、生活ごっこ、古本屋ごっこをしようと考えるのである。

    この世で自分が孤独と向き合っていること自体、さびしい獣(狐)の見ている夢の中での出来事なのではなかろうかと思い至る。そしてさびしい獣が孤独と向き合う耐性を身に付けるために自分が存在しているのであろうと考える。

    いつか寂しい獣が目覚め、そして、涙を拭いて歩き始めるのを、鳥子は支援するものでありたい、と思ったのである。

    あえて、ここまで「ニート」という言葉を使わなかったが、鳥子はニートである。ニートたちが自分たちを肯定する言説を求めるのであれば、まずはこの本を読むことをお勧めする。もちろん、ニート以外の孤独と向き合っている人もOK。

    狐寝入夢虜
    狐寝入夢虜十文字 実香

    おすすめ平均
    stars妄想レベルの高さ
    stars将来に期待 新人作家

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    2008.01.23

    内容はいいのに、翻訳が駄目

    せっかくの内容なのに、翻訳が悪くて・・・、と思うのがこの本である:

    論文の技法 (講談社学術文庫)
    論文の技法 (講談社学術文庫)ハワード・S. ベッカー パメラ リチャーズ Howard S. Becker

    講談社 1996-09
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    おすすめ平均 star
    star内容は○、翻訳は×
    star文書作成法であるとともに、書くという考える行為を自分のものとする課題を扱う
    star論文が書けなくなりそうな時に

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    内容は面白い。論文執筆者の心理分析や研究者の世界に関する社会学的な考察があり、単なる論文執筆マニュアルに終わっていない。いくつかの興味深い考察を、要約して紹介すると以下の通り:

    ○学生が論文を執筆するときに、ずいぶんと畏まった非日常的な文章を書いてしまう理由: 学生は研究者社会の一員として認められる証しとして非日常的な言語を使いたいのである

    ○なぜ論文を書き始められないのか: 一回かぎりの草稿で済ませよう、あるいは最初から完成版を目指そうという心理が働いているから

    このように、研究者から見ると面白い話題が取り上げられているものの、翻訳の文体のせいで読むのがしんどい。

    しんどい文章の例を示す:

    若い研究者は、時間がどんどんすり抜けていってしまうのに気づくでしょうし、自分が書かなければならない著作物がどのくらいあるかが学部学生時代よりもはっきりしたものでなく、それをこなしていない自分に気づくでしょう。(52ページ)

    しかし、私たちはしばしば、論理的でなくともまったく理性的に、筆者は明らかにこの分野のことを(ベーグル製造者組合のプレジデントを含めて)知っているという理由から、あるいは、私たちが尊敬する一般的な文化的洗練さをもつという理由から、ある議論を受け入れるでしょう。(82ページ)

    一読して理解できる人いる?

    翻訳は駄目だが、それを乗り越えれば優れた内容に触れることができる本である。

    とはいえ、誰かもう一度翻訳してくれないかな。

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    南方熊楠の品格

    今月の「ユリイカ」の特集は「南方熊楠(みなかたくまぐす)」。一般に、博物学者、粘菌学者として知られている人物である。

    ユリイカ 2008年1月号 特集=南方熊楠
    ユリイカ 2008年1月号 特集=南方熊楠
    青土社 2007-12
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    さもこの人のことをよく知っているかのように語る小生だが、この人が書いた本を読んだのは一回だけ。これ:

    南方熊楠文集 1 (1)
    南方熊楠文集 1 (1)南方 熊楠 岩村 忍

    平凡社 1979-04
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    この本、今、売っているんだかいないんだか知らないが。

    そして、熊楠の生涯については、水木しげるが書いたこの漫画を読んだ程度である(表紙の写真が無くて残念):

    猫楠―南方熊楠の生涯 (角川文庫ソフィア)
    猫楠―南方熊楠の生涯 (角川文庫ソフィア)水木 しげる

    おすすめ平均
    stars水木ワールドに棲む熊楠
    stars奔放に生きる
    stars幸福であったかどうかは、棺桶に足を突っ込むまでわからない
    stars怪人(南方)×怪人(水木)=本書
    starsマンガ表現と史実が融合した、すばらしい伝記

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    語学堪能、博覧強記、家庭は持ったものの、生涯定職に就かず、市井の(和歌山県田辺の)研究者として生きた人として知られる。

    酒豪でエキセントリックな行動が多かったため(ほとんど裸の状態で生活していたり、気に入らない奴にはゲロを浴びせる等)、変人扱いされているが、その一方で海外では"Nature"や"Notes & Queries"などの英文誌に論文を寄せ、国内では粘菌などの研究で実績を上げ、また柳田國男らと交流しながら民俗学の形成に貢献するなど、アカデミズムに大きな足跡を残している。また、「神社合祀令」による、いわゆる「鎮守の森」の伐採に反対する運動を展開するなど、自然保護運動の先駆けとしても知られている。

    さて、「ユリイカ」の南方熊楠特集号で面白かったのは、奥西峻介「掻巻から覘く 柳田国男の訪問」礫川全次「南方熊楠の魅力について」である。いずれのエッセイも熊楠と柳田国男の対比によって熊楠の品格と度量を浮かび上がらせている。

    上述したように、熊楠はエキセントリックな行動で知られているのだが、これらのエッセイを見る限り、熊楠はビクトリア朝の素養を身につけた品格のある人物であるのに対して、柳田は粗野で狭量な人物であるように感じられる。

    熊楠の品格と度量に関しては、ちゃんと「ユリイカ」を読んでもらう事にして、柳田国男のダメダメな部分についてちょっとだけ触れよう


    • 1911年3月19日、熊楠が自分と同じ研究(山男についての研究)を進めていると知り、早く本を出版したいから資料(材料)のみ提供してくれ、と虫のいい手紙を送る
    • 1913年12月30日、初対面にもかかわらず、いきなり熊楠を訪ねた
    • 1926年5月22日、中山太郎が編集した論文集『南方随筆』の跋文(あとがき)に、熊楠と自分にとって不名誉になる箇所があるとして、熊楠を煽る

    こうした柳田の問題行動に対して、熊楠はいずれの場合も「大人の対応」をしている。熊楠との対比によって、民俗学の巨人である柳田がお猪口のごとき人物のように見えるから面白い。

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    2008.01.16

    カンボジア1400万人が泣いた!

    そういう名作「バッタンバンの花」をご紹介する。

    Cambodia0000
    モニュメント・ブックスのプノンペン空港支店で購入した現地の作家Em Satya氏による"Flower of Battambang"(「バッタンバンの花」)である。売価2ドル。

    Cambodia0002
    大金持ちの娘、Phalla(左)と貧しいが有能な若者Sotha(右)はお互いに惹かれあっているのでありました。

    Cambodia0001
    しかし、Phallaを狙う悪いやつ、Davit(上方、真ん中の男)は二人の仲を引き裂こうと企みます。

    Cambodia
    そしてある日、チンピラに二人を襲わせます。誘拐されかけるPhalla、殴られてのびているSotha。

    その直後、PhallaはDavitによって救出されます(ヤラセ)。そして二人は急接近し、双方の親も公認の仲に。

    Cambodia0003
    で、結局だまされていたとも知らずPhallaはDavitと結婚することに。Davitは前祝として悪い女と一夜を過ごします。

    Cambodia0004
    Sothaはどうなったかというと、Phallaの友達、Huochの手当てを受けます。Huochと付き合うかというと、SothaはPhallaへの愛を貫きます。

    この後、回復したSothaはシクロ(自転車タクシー)のバイトを始めたり、旅に出たりします。いったいSothaはPhallaと結ばれるのでしょうか?その答えは運命の女神の手の中に、そして、Phallaの心の奥に秘められています。

    続きを読みたい人はプノンペンのモニュメント・ブックスまで2ドルを握り締めて走れ!

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    2008.01.05

    日本思想の中の廣松渉

    小林敏明『廣松渉―近代の超克』(講談社)の最後の一章、第三章「日本思想の中の廣松渉」を読み終えた。以下はそれに対するノート。

    廣松渉にとってマルクス主義は「近代」をまるごと超越する思想である。そうすると、戦時中に京都学派日本浪漫派文学界グループなどが主導していた「近代の超克」という考え方との違い、また、「戦後民主主義良識派知識人」(丸山真男や加藤周一ら)の「近代主義」との違いを明らかにする必要が生じる。これを論じたのが、廣松渉『<近代の超克>論 昭和思想史への一断層』(朝日出版社・エピステーメー叢書、1980年)である。

    廣松渉が論じる以前の状況としてはこういう状況があった:


    • 「近代の超克」派(京都学派、日本浪漫派、文学界グループ)は、第二次世界大戦に西洋VS東洋という対立構図を見出した

    • そして、いま(第二次大戦中)こそ、西洋の近代思想=人間主義、個人主義、機械主義、合理主義、自然科学主義、自由主義、民主主義、資本主義、帝国主義、西洋中心主義を乗り越え、東洋的な思想を確立するべきときであると考えた

    • しかし、戦後、「戦後民主主義良識派知識人」、例えば加藤周一によって、「近代の超克」という考え方は、「戦争への加担」という観点から激しく批判された

    • また、「良識派知識人」たちは「近代の超克」という思想そのものが西洋由来だとも批判して、「近代の超克」派の言説の矛盾を指摘した

    • 例えば、加藤周一は「京都学派は生活と体験と伝統をはなれた外来の論理のなんにでも適用できる便利さを積極的に利用してたちまち『世界史の哲学』をでっちあげた。およそ京都学派の『世界史の哲学』ほど、日本の知識人に多かれ少なかれ伴わざるをえなかった思想の外来性を、極端に誇張して戯画化してみせているものはない」と批判した

    廣松は「近代の超克」派、とくに京都学派が近代思想を超克するものとして提示した「哲学的人間学」を「一種のロマン的な揺り戻し、そのかぎりでの新装版人間主義を対置したものに過ぎない」(廣松渉『<近代の超克>論』248ページ)と批判している。さらにまた、「哲学的人間主義は(中略)『近代知の地平(=パラダイム)』に包摂される代物であり、到底『近代の超克』を哲学的に基礎づけ得る態のものではあり得ない」(廣松渉『<近代の超克>論』249ページ)とも批判している。

    廣松は、同時に「良識派知識人」たちをも批判している。「近代の超克ということが(中略)西洋だけの課題ではなく世界史的な課題であるとすれば、問題の提起がどこでおこなわれたかということは副次的な事柄にすぎない筈である」(廣松渉『<近代の超克>論』206ページ)

    このように廣松は京都学派と良識派知識人の両者を批判してはいるが、小林敏明氏の見解によれば廣松の立場は次のような点で京都学派に近い。

    • 良識派知識人にとっては、「近代」という枠組み=テクノロジーの発展、大衆の勃興、アジア民族の覚醒(丸山真男説)は与えられた条件であって、その中で改良を加えていくことが正しい道である
    • これに対して、京都学派および廣松にとっては「近代」という枠組みはイデオロギーの産物、すなわち変えることのできるものである
    • 言い換えれば、、京都学派と廣松は、「近代をひとつのパラダイムととらえ、それの乗り越えを図る思考様式」(小林敏明『廣松渉―近代の超克』、135ページ)、すなわち「ヘーゲル主義」(小林敏明)を共有している

    廣松にとって京都学派は「近代の超克」という同じ問題に対して立ち向かった先輩なのである。「往時における『近代の超克』論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている」「前車の轍に墜ちることなく当の課題に如何に応えていくか、これはまさしく遺された案件として対自化されねばならない」(廣松渉『<近代の超克>論』250ページ)

    小生は十数年前に廣松渉の『<近代の超克>論』を読んだが、そのときはちんぷんかんぷんだった。今回、『廣松渉―近代の超克』を読むことによって、ようやく、廣松渉の主張とその位置づけがわかった。

    こんなにも真摯に近代と向かい合った思想家がいるだろうかというのが、小林敏明氏の廣松渉に対する評価であり、賛辞である。

    廣松渉-近代の超克
    廣松渉-近代の超克小林 敏明

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    2008.01.02

    『高学歴ワーキングプア』の情報補足

    先日、『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)を読んだ。今日の記事はその内容を捕捉する情報を書いておこうと思う。

    高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
    高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)水月 昭道

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    文部科学省が公表している『平成18年度学校基本調査(確定値)』を基に、博士課程修了者の就職率を計算してみるとこのようになった:

    平成18年3月の
    博士課程修了者数:15,973人
    就職者数:9,149人
    就職率:57.3%

    『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)に記されていた数字と少し違うが、同書出版後に調査がまとまり数字が確定したのではないかと思われる。

    性別、出身校別、分野別で就職率を計算すると次のとおりである。

           修了者   就職者   就職率
    (性別)
    男子合計 11,702   7,049    60.2%
    女子合計 4,271    2,100    49.2%

    (出身校別)
    国立男子 8,528    5,208    61.1%
    国立女子 2,901    1,439    49.6%
    公立男子 592     373     63.0%
    公立女子 226     119     52.7%
    私立男子 2,582    1,468    56.9%
    私立女子 1,144    542     47.4%

    (分野別)
    人文科学 1298    367     28.3%
    社会科学 1302    529     40.6%
    理学    1522    730     48.0%
    工学    3679    2181    59.3%
    農学    1056    545     51.6%
    保健    4920    3741    76.0%
    商船    0       0
    家政    58      28     48.3%
    教育    334     163     48.8%
    芸術    140     20      14.3%
    その他   1664    845     50.8%

    全体の就職率57.3%を基準とし、これ以下の就職率のところにアンダーラインを引いてみた。

    明らかに


    • 女子不利

    • 私学不利

    • 文系不利(工学、医学など「実学系」有利)


    ということが言える。

    このような現状を変えることも大事であるが、そういう努力と同時に、博士課程に進もうかと思っている学生は、統計学的観点から、分野や大学の選択を考えることも必要であろうと思う。

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    廣松渉の思想

    この本の第二章「マルクス主義の地平」を読み終えた:

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    廣松渉-近代の超克小林 敏明

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    廣松渉の用語では、「地平」というのは世界観や思想の枠組み=パラダイムにあたる。以下は第二章に関するノートである。

    廣松渉にとって、マルクス主義の考え方は単に資本主義を批判したものにとどまらず、近代的世界観そのものを超越するものだった(だから、マルクス主義VS資本主義という枠組みで物事を捉える教条的マルクス主義は、廣松渉にとって当然ながら批判対象であった)。

    マルクス・エンゲルスの原典の精読と独自解釈によって、廣松渉は近代的世界観を超える重要概念を導出した。以下はその主なものである:

    これらの内容については別記事にて述べる。

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    2008.01.01

    研究開発従事者の性質

    研究開発関係者の性質を明らかにし、それをもとに、創造性の強化と実社会への貢献に結びつける仕組みを考えることは小生の研究テーマのひとつである。

    三崎秀央『研究開発従事者のマネジメント』(中央経済社)は、経営学の本でありながら、戦略、組織、プロセス(経営者にとっては有意義なのだろうが、研究開発従事者出身の小生としては美談や枠組みだけの話は面白くない)よりも研究者個人に主眼を置いた研究結果が記述されており、小生にとっても有益な本だった。

    この本ではローカル志向とコスモポリタン志向という研究開発従事者が持つ2つの性質が述べられている。これらはもともとはGouldner(Cosmopolitans and locals, Administrative Science Quarterly, 2, (1957) pp. 281 - 306, (1958) pp. 444 - 480)が唱えた概念である:


    • ローカル志向: ローカル志向というのは研究開発従事者が所属している組織を重視することで、本書では所属する企業を重視すること(企業に対するロイヤルティ)である。
    • コスモポリタン志向: コスモポリタン志向とは、研究開発従事者が所属している職業団体を重視することで、本書では学協会を重視すること(学協会に対するロイヤルティ)である。

    本書では、程度の差はあれ、研究開発従事者はこの2つの志向を持っている(二重のロイヤルティ)ことを因子分析によって示し、これらの性質が研究開発従事者の行動にどのように作用するのかを明らかにしようとしている。

    小生自身もローカル志向とコスモポリタン志向という2つの志向を持っていることを自覚しているし、周りの研究者を見ていてもそれがあることが理解できる。たとえば、企業の研究者は企業での昇進を望むとともに、学会で評価されることを望んでいる。これは大学でも同じことで、大学教員の多くは大学内での地位確立とともに学会の委員就任の両方を望んでいる。ただし、どちらの志向が強いのかあるいは両方とも同時に強い/弱いのかということについては研究開発従事者ごとに異なる。

    さて、この本を読んで思った疑問としては、研究開発者がロイヤルティを示す対象は所属企業と学協会の2つだけなのだろうかということ。ロイヤルティの対象としては所属企業全体とともに所属部門、学協会とともに研究開発従事者の出身研究室(大学)なども挙げられるのではないかと思う。二重どころではない、多重のロイヤルティというものがあるのではないだろうか?

    研究開発従事者のマネジメント (福島大学叢書新シリーズ)研究開発従事者のマネジメント (福島大学叢書新シリーズ)
    三崎 秀央

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    大学院重点化の陰で

    これは非常に売れている本である。小生も読んでみた:
    水月昭道『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)

    博士の学位をとりながら、就職できない者が多く存在するという問題。この問題に真正面から取り組んだ書籍はこれが初めてかもしれない(記事としては、かつて「アエラ」で取り上げられたことがある)。

    センセーショナルな話題としては次のようなことが取り上げられている:


    • 平成18年の博士課程修了者は15966人であるのに対し、死亡・不詳者が1471人(9.2%)、就職者が9147人(57%)
    • 非常勤とコンビニで月収15万円の生活を過ごしている博士課程修了者がいる
    • 旧帝大などの植民地と化している他の大学院。その大学院の修了者が母校の教員になる可能性はほぼゼロ。

    このような状況を生み出したのは、大学進学者の絶対数が減少する中で、大学院設置という手で教員数の維持(既得権の維持)を図った大学指導者層のせいであると同書は断罪する。

    フリーター博士や無職博士たちは、個人の努力が足りずにそうなったわけではなく、博士が政策的に大量に生産された結果、教員市場が完全崩壊をきたしたことで生み出されてしまった(168ページ)

    高学歴ワーキングプアたちは、大学市場全体の成長後退期と無謀にもそれに抗おうとした既得権維持の目論見の間に生じた歪みの狭間に生み落とされた、因果な落とし子だったのである(168ページ)

    本書の中ほどまでは気持ちが暗くなるような話ばかりが続いているが、終わりに近づくにしたがって、今後の大学院教育に関する提案が述べられているのが救いである。主な提言は以下のとおり:

    • 研究者育成大学院から社会人大学院への転換
    • 博士課程に進む者は研究者になることにこだわらないこと
    • 利他精神に基づき、学生を大事にすること

    最初の「研究者育成大学院から社会人大学院への転換」とは以下のようなことである。

    著者は教育・研究者を育成するという従来の大学院教育はすでに破綻がはじまっており、今後は生涯教育の一環としての大学院教育を行うべきであろうと提案している。

    大学院は論理的な思考を鍛える訓練の場である。これは、学部から上がってきた学生にとっても、社会人にとっても同じ意義を有している。今後は欧米に見習い、一度、社会に出た人が、それまでに獲得した知識を整理し、論理的に思考する訓練を行う場として機能すればよいのである。

    次の「研究者になることにこだわらないこと」とは、フリーター博士、無職博士、これから博士課程に進む者たちに向けた提言である。博士課程で学んだことを全て捨ててしまうことではない。大学院で思考訓練を積んだことは、研究者にならずともほかの分野でも役に立つことである。また、期限を区切って自分のやりたいことに集中するということは、悔いの無い人生を送る上でも重要なことである。

    最後の「利他精神に基づき、学生を大事にすること」とは、大学法人の運営者に向けた提言である。これは学校に大事にされたという経験をもつ学生たちが、出身校に愛着を持ち、やがては学校を支える基盤となることを言っている。現在、大学閥よりも高校閥が重視される現状があるらしい。これは、大学は学生たちを大事にしていないのではないかという問いかけである。これからの大学は単に学生を確保することのみに専念するのではなく、たとえ時間と労力がかかろうとも、学生を大事に育成することに尽力するべきであろう。

    本書の内容を見る限りでは、取材された範囲はおそらく文系や文系に近い性質を持つ大学院だろうと思われる。理系大学院出身で企業を経て大学教員になった小生としては違和感を抱く部分も含まれるが、全体的には賛同できる内容だった。

    高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
    高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)水月 昭道

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    2007.12.25

    近代とは何か?

    廣松渉という哲学者がいて、かつて(高校卒業後~大学3年生ぐらいまで)はこの人の本を何冊か読んだものである。小生は漢語とドイツ語が混じる特異な文体に妙にひきつけられて、何回かまねして文章を書いたことがある。

    さて、先日、近所の宮脇書店をぶらぶらしていたところ(だいたい書店に入ると1時間以上はぶらついてしまう)、久々に廣松渉の名前を眼にした:

    廣松渉-近代の超克
    廣松渉-近代の超克小林 敏明

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    小林敏明という1948年生まれの、小生から見たらいわば父親ぐらいの世代の人が書いた解説本である。本の章立てが序章+三章で、各章が三節に分かれているという、まるで廣松渉の著書のスタイルを真似したかのような構成である(廣松渉なら三章×三節にしたことだろう)。

    その第二章は廣松渉自身の思想から離れ、廣松が思想的に格闘した対象である「近代」について整理した章である。「近代とは何か?」ということを考えるときに、ここを読むと良く分かる。以下は小生による要約:

    「近代とは何か?」


    • 近代とは特定の時代のことではなく、一つのパラダイム(考え方の枠組み)
    • 近代の特徴(メルクマール)として挙げられるもの

      • 産業資本主義: 人間の労働が商品となる体制=「賃労働」化
      • 市民社会の成立: 人間が共同体(ゲマインシャフト)に所属しながらも、同時に労働を売る個人となる。その個人同士の交流によって市民社会(ゲゼルシャフト)が成立する(まあ、日本で言えば、自治会に所属しながらも会社にも所属しているというわけである)
      • 国民国家の成立: これにも3説ある

        • ゲルナー説: 産業を成立させるために、一定水準の教育を行うために国民国家が必要になった
        • ウォーラスティン説: 国際競争の中で拠りどころとして国民国家が必要になった
        • 柄谷行人説: 共同体の解体とともに帰属先として国民国家が必要なった

      • 機械的合理主義: 官僚組織が整備され、労働の専門化が進み、資格や規定が整備され、国家が機械のようになった。そして人間が組織の歯車のようになった
      • アトミズム: 社会における原子、すなわち最小単位として個人が重視されるようになった。個人を中心としてものを見る見方が成立し、主観と客観が分離し始めた。客観的世界は主観的個人が征服するべき対象となった

    哲学の世界では常識なのだろうが、うまいことまとめてますな。

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    2007.12.15

    新旧メディア対決

    今日も米政府発行の電子ジャーナル"eJournalUSA"最新号"Media Making Change"(「変化をもたらすメディア」)からネタを拾って記事を書く次第である。

    今日のネタは:
    「新旧メディアの対決」
    New Media Versus Old Media by David Vania

    小生の要約を以下に記す(小生の主観が混じっているので要注意):

    ブログのような市民メディアの勃興は、門番のような役割を担ってきた伝統的メディアに親しんできた人々にとって、ネガティブな印象を与えているようである。というのも、ブログでは記事に対するチェックが働かず、不完全な情報が流布される恐れがあるからである。というかすでに無根拠な情報が流れてトラブルが発生している。

    Pew Internet & American Life Projectの調査によると次のような結果が得られた:

    • ブロガーたちの3分の1はブログをジャーナリズムの一形態とみなしている
    • にもかかわらず、ブロガーたちの56%だけが「ときどき」あるいは「頻繁に」記事の正しさを検証しようとしているのに過ぎない
    • ブロガーたちの55%が偽名で記事を投稿している->嘘や噂を広めてしまった際に用意に追跡されにくい->無責任

    この結果を見ると、市民メディアの普及には否定的な印象を受けざるを得ないが、別の調査(Pew Research Centerの2007年7月の調査)結果からは「救い」を感じ取ることができる。

    • アメリカ人の3分の2はテレビを見ることを好んでいる
    • ブログなどの市民メディアはオンラインニュースの一部を構成しているのに過ぎない
    • オンラインニュースの主流はTime WarnerのCNN.com、Yahoo News、AOL News、GannettのUSA Today.comなどによって構成されている
    • 多くのアメリカ人は公平で正確な由緒正しいニュースソースを選んでいる
    • アメリカ人の23%は自分たちの視点を強化するようなニュースを望んでいるものの、68%は特定の視点にとらわれない(中立な)ニュースを好んでいる(これはPew Research Centerの別の調査結果)

    ということで、ニュースの受け手の方が賢く振舞っているようである。

    ニュースに特定の主義主張が付与される傾向は実は、市民メディアに限られた話ではなく、今やテレビのニュースでも見られることである。情報をあるがままに流すのは古い流儀になってしまっている。

    従来のメディアの問題点はマンパワーの制限から、全ての情報を網羅できないということである。政府や巨大企業に対する監視機能が弱まっているのではないかという恐れがある。いくつかの市民メディアはその役割を担おうとしている。

    この記事を書いたDavid Vaniaとしては以下のように結論を述べている:


    • メディアの世界が変化しつつあることは確かである
    • 主導権は(ジャーナリストであれブロガーであれ)ニュースの作り手からニュースの消費者に移りつつある
    • 市民たちは、従来メディアから市民メディアまで非常に多くの情報の選択肢を持つようになり、それぞれバラバラのニュースにしか興味を持たないようになるだろう
    • 市民たち共通の議論の場を形成することが今後の問題になるだろう

    おおむね、その通りだなーという記事である。メディアの形態が新しいか古いかはあまり問題ではない。
    大メディアでも誤報があるし、あからさまな世論誘導が行われていることがある。
    まあ市民はそんなに馬鹿ではないと小生も思うので、駄目なメディアがあっても自然に淘汰されると思う。

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    超ローカルメディアについて(Google Chart付き)

    在福岡米国総領事館からときどきメールでお知らせが送られてくるのだが、今日は米政府発行の電子ジャーナル"eJournalUSA"最新号"Media Making Change"(「変化をもたらすメディア」)のお知らせだった。

    今回はその中の記事
    "Going Local - Really Local" by Charlene Porter
    をご紹介する。以下は小生の要約。

    インターネットの普及により、実に超ローカルな(Hyperlocal)メディアが登場するようになった。これらは通常のメディアではニュースとして取り上げないような、ご近所のネタを取り上げたり、意見を表明したりするメディアである。ネタとしては、地域のイベントや問題のニュース、サービスやビジネスに関する個人的な感想、工作やガーデニングに関するアドバイスなど。

    超ローカルメディアの特徴は「主観性」である。従来のメディアでは客観性、中立性が重視されていたが、超ローカルメディアは自分のコミュニティーをより良いものにしようという意志が強く、執筆者個人の気持ちを隠そうとはしないのである。

    超ローカルメディアは熱意ある読者に支えられており、メディア創設者や読者の熱意が継続する以上には継続しない。また、内容が多様であるかどうかが継続性を左右する。

    ある超ローカルメディア創設者のコメント「一都市あたり4つか5つの超ローカルメディアが存在することになるだろうが、どれも永続的なものにはならないだろう」「超ローカルメディアは決して大きな事業になることはない」

    超ローカルなニュースサイトに関する記事なのであるが、ブログにも当てはまる部分があると思う。特に「熱意が継続する以上には継続しない」ということ。

    Institute for Interactive Journalism at the University of Maryland、通称J-Labが200の超ローカルメディアに対して行ったアンケート調査の結果によると、超ローカルメディアは地域コミュニティーに対して以下のような影響を与えている(と考えている)ようである:

    • 対話の機会を与えている(82%)
    • 地方公共団体に対する監視機能(61%)
    • コミュニティーが問題を解決するのを助ける(39%)
    • 投票率の増加(27%)
    • 公職に立候補する人の増加(17%)

    さて、この情報を頑張ってグラフ化してみた(例のGoogle Chartで)

    responses from hyperlocal media

    興味ありましたら読んでみてください:

    Media Making Change, An Electronic Journal of the U.S. Department of State, December 2007

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    2007.12.11

    車輪の下で

    光文社古典新訳文庫の新刊、『車輪の下で』(ヘルマン・ヘッセ著、松永美穂訳)を読んだ。従来、『車輪の下』というタイトルで知られている作品である。

    古典というと、なんとなく、課題図書として読むか、授業で教わるか、年取ってから文学全集で読むか、そういうものという感じがするのだが、そんなことは無い。

    『車輪の下で』はヘルマン・ヘッセが29歳のときに書いた作品である。新進気鋭の若手作家による青春小説なのである。これはヘルマン・ヘッセの10代の頃の栄光と挫折を基にした自叙伝的小説であり、一人の少年の精神を押しつぶす画一的な教育、大人たちの無理解に対する怒りに満ちている。

    旧来の翻訳だと文体の古さのせいで、いかにも老大家が執筆したかのような印象を受けるのだが、松永美穂氏の新訳では若手作家の作品らしい、みずみずしさが感じられる。

    車輪の下で (光文社古典新訳文庫 Aヘ 3-1)車輪の下で (光文社古典新訳文庫 Aヘ 3-1)
    ヘッセ 松永 美穂

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    ちなみにヘルマン・ヘッセは1877年生まれで、1962年に没している。夏目漱石とか森鴎外よりも我々に近い時代の人である。

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    2007.12.08

    NIKITA、休刊

    「アナタに必要なのは”若さ”ではなく”テクニック”」という恐ろしいメッセージで有名であり、「ココリコミラクル」で戯化されたにもかかわらず、それがそのままフィードバックされて「艶女(アダージョ)」だの「艶男(アデオス)」だの「野獣女(アニマリータ)」だの腰の抜けるような新しい日本語を生み出してしまった驚異の雑誌、"NIKITA"が敢え無く休刊だそうです:
    「NIKITA」、来年1月発売の3月号で休刊

    周囲で買って読んでいるような人は見たことが無いので(というかやはり勇気がいる雑誌だったようで)、あまり売れていなかった様子。キワモノはだめか。

    関連して。

    「アナタに必要なのは○○ではなく○○。」とか
    「アナタに足りないのは××ではなく××。」とか

    英語の直訳みたいな言い回しが増えているような気がする。

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    2007.11.28

    『幼年期の終わり』を読み終わり

    アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を読み終わった。

    ネタばれになるので詳しい内容は書かないが、最後は我々のような旧人類が滅び、地球の消滅と共に子孫である新人類がいずこかへ旅立つ、という結末だった。

    人類を支配していたオーヴァーロードたちはさらに上位の精神的存在であるオーヴァーマインドに支配されていた種族だった。そして、オーヴァーマインドの命令により、人類がより精神的な新世代に交代するのを見届けるために地球に来ていたのだった…。あれ、ネタばれしてしまった。まあ、Wikipediaでもあらすじが紹介されているからまあいい。

    人類の未来というテーマを難解な概念を使用せずに平易な文章で描いており、SFファンでなくても(SFを読みなれていなくても)楽しめる作品である。巨匠というのはやはり巨匠なのだなと力量を感じる。

    巻末の解説(巽孝之)には日本文学に与えた影響として、いくつかの面白いエピソードが紹介されている。

    • 『家畜人ヤプー』の著者として知られる異端作家、沼正三は原書刊行時(1953年)、すでにこの作品を読み、人類が異星人によって支配される「マゾヒズム小説」として理解していた。
    • 沼が読んだ時点では邦訳がなかったので、沼はこの作品を『幼児期終わる』、オーヴァーロードを「上君(うえさま)」と訳していた。
    • 三島由紀夫もこの作品を読み、賞賛していた。

    沼の『幼児期終わる』という訳も味わいがあって良いと思う。前回の小生の記事では「これが書かれた1953年は、日本で言えば、三島由紀夫が『潮騒』を発表した前年。」と書いているが、やはり三島も読んでいたのだ、と我ながら勘のよさに恐れ入る次第である。

    幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
    幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)クラーク 池田 真紀子

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    2007.11.23

    幼年期の終わり

    アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』が光文社古典新訳文庫に登場した。
    「古典なのか?」と一瞬とまどうのだが、これが書かれた1953年は、日本で言えば、三島由紀夫が『潮騒』を発表した前年。「やや古典」といえると思う。

    まだ第一部「地球とオーヴァーロードたち」しか読んでいないが、面白い。人類の文明を遥かにしのぐ他の文明から超巨大宇宙船(複数)がやってきて、人類を穏やかに支配しているところ。といっても特に搾取したりしているわけではなく、地球総督を名乗るカレランというオーヴァーロードが、国連事務総長を通して人類にいろいろ勧告するというやり方で支配しているのである。なんで彼らがおせっかいにも人類を指導しているのか?というのが今のところの謎なのである。

    ちなみに、この第一部は1990年に書き改められたものであり、旧バージョンでは米ソ冷戦の影響があったものの、新バージョンではその影が取り払われている。この書き改められた第一部の日本語訳が読めるのはこの光文社版だけであるらしい。それだけでも読む価値あり。

    幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
    クラーク 池田 真紀子

    光文社 2007-11-08
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    2007.11.06

    使える「哲学」

    哲学というと、「人生いかに生きるべきか?」などという話題ばかり扱っているかのように思える。なんでそういう印象を受けるかというと、「野球哲学」とか「ビジネス哲学」とか、「哲学」という言葉が「生き様」や「精神」の意味で使われているからである。

    しかしながら、哲学の守備範囲は上述の「人生哲学」にとどまらず、分析哲学や科学哲学や倫理学とか非常に広い領域に広がっている。哲学の成果の中には、「論理」とか「議論の技法」とか、普段の生活や仕事に役立つものがある。

    伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』は少し前に出た本だが、いわゆる「クリティカル・シンキング」(批判的思考。クリシンと略するらしい。栗本慎一郎のことではない)の道具として役に立つ思考法を紹介してくれる本である。

    哲学から供給されるクリシンの道具としては、この間紹介した「反証可能性」も紹介されているが、他に主なものとして


    • 聞き手の姿勢である「思いやりの原理」
    • 話しての姿勢である「協調原理」
    • 確実な事柄を追求するための「方法的懐疑」
    • 論理的思考を行うための「演繹論理」
    • 演繹論理の具体的な形式である「三段論法」
    • 議論の判断は文脈に沿って行うべきであるという「文脈主義」
    • 価値主張の対立があるときに一致点を探すための「分厚い記述」と「薄い記述」
    • 倫理的な判断を行うための「実践的三段論法」

    などが紹介されている。

    議論をしているときに、「なんで話がかみ合わないのか?」と思っている人たちは、この本を読むとその理由がわかると思うし、また建設的な議論への転換を図ることができると思う。

    哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))
    伊勢田 哲治

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    2007.11.03

    プラスチック・ワード

    ウヴェ・ペルクゼン『プラスチック・ワード』(藤原書店)を読んだ。

    著者はレゴブロックのように、あらゆる組み合わせが可能で自由に(恣意的に)文章を構築できる言葉というイメージを持たせるために、本当は「レゴ・ワード」と命名したかったらしいが、商標に触れるので断念し、「プラスチック・ワード」と命名したそうである。

    本書の帯には「日常を侵食する便利で空虚な言葉たち」と書いてあるが、適切な表現であると思う。

    本書で取り上げられているのは「情報」、「コミュニケーション」、「発展」といったよく聞く言葉たちである。いわゆるバズワード、例えば、「ユビキタス」とか「Web2.0」といった言葉たちと似ているが、バズワードは一過性のものであるのに対し、プラスチック・ワードは長期にわたってわれわれの思考を支配してしまうというところに違いがある。

    ウヴェ・ペルクゼンはプラスチック・ワードが日常言語から科学用語の世界に入って権威を帯びた後、当たり前の概念となってわれわれの思考を支配する(停止させる)プロセスを示してくれる。プラスチック・ワードは具体的に何を指し示しているのか良くわからないにもかかわらず、われわれを急き立て、どこかへ導こうとする。

    「発展」は常に正しいことなのか?「コミュニケーション」は促進しなくてはいけないのか?プラスチック・ワードの持つアウラ(雰囲気)にだまされずによく考えることをこの本は要求している。

    プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延
    プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延ウヴェ・ペルクゼン 糟谷 啓介

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    2007.10.26

    光文社古典新訳文庫はすごい!

    「古典はいつでも新しい! 」という考えの下、創刊一周年を迎えた光文社古典新訳文庫であるが、「だれが本を殺すのか」(by 佐野眞一)と言われるこの世の中で非常に健闘している。

    なにしろ新訳『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)が50万部もバカ売れしているのである。長いとか難解とかしんどいとか言われるロシア文学がですよ!

    来月刊行の本からも目が離せない。なにしろアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』の新訳が出る(池田真紀子訳)。SFの古典で、これまでに福島正実訳(早川書房、1979年)と沼沢洽治訳(東京創元社、1969年)があったのだが、現代から見るとちょっと古い言葉遣いになっている。今度の新訳がどのようなものになるかが見ものである。

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    猫とともに去りぬ

    最近数年間の光文社の取り組みは面白いと思う。

    光文社新書というシリーズでは、『経済物理学の発見』、『行動経済学 経済は「感情」で動いている』、『技術経営の考え方』など、経済・経営関係の面白い本が出ているし、光文社古典新訳文庫では新訳の『カラマーゾフの兄弟』、『ちいさな王子(星の王子様の新訳)』などの読みやすい本が登場している。

    今回紹介するのは光文社古典新訳文庫で昨年9月に出た『猫とともに去りぬ』である。イタリアのファンタジー作家ロダーリの短編集だが、へんてこな内容を予感させるタイトルに魅かれて購入した。

    読んでみたが、やはりへんてこな内容である。人々は簡単に猫になったり、魚になったりするし、人と洗濯機との結婚が成立したりする。この本に収録されている短編「チヴィタヴェッキアの郵便配達人」の一文を読むだけで内容の面白さを感じとることができるだろう:

    《コオロギ》は少しばかり神経質になっていた。以前、超特急の速達を届けるのに、あんまり急ぎすぎて、速達が出される前の日に届けてしまったときのように、神経が高ぶっていたのだ。


    猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)
    ロダーリ 関口 英子

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    渡辺翁の偉さについて

    宇部日報社から堀雅昭『炭山の王国―渡辺祐策とその時代』という本が出たので紹介する。

    渡辺祐策(わたなべ・すけさく)は幕末に生まれた人である。宇部の沖の山炭鉱を創業して財を成し、宇部興産の基礎を築いた。成した財の使い方が偉い。宇部のインフラのほとんどはこの人(と宇部共同義会)の寄付によって建設されている。郵便局も鉄道も参宮通りも宇部港も旧宇部空港もそうである。宵越しの金は持たないという精神が「共存同栄」という良い方向に発揮されている。

    彼は石炭が尽きたときのことを考え、宇部窒素工業(後の宇部興産)を興して硫安の生産を開始しているが、他の炭鉱町が廃墟と化している現状を見ると慧眼であるといえる。あまりに偉いので「宇部の神様、渡辺翁」と呼ばれている。死後、功績を顕彰して作られた宇部の市民会館は「渡辺翁記念会館」という。

    偉大な起業家の話は良く聞くが、地域経営という視点で起業し、実際に地域を発展させた人は稀有である。

    炭山の王国―渡辺祐策とその時代炭山の王国―渡辺祐策とその時代
    堀 雅昭

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    2007.10.13

    大岡裁きのネタ本

    昨日の記事で「大岡裁き」と書いて、大岡裁き(大岡越前の名裁判)にネタ本があることを思い出した。

    桂万栄著・駒田信二訳『棠陰比事(とういんひじ)』(岩波文庫)というのがそれである。棠陰というのは梨の木陰という意味で、大昔は梨の木の下で裁判をやっていたことにちなんでいるという。あと、比事とは、事件の比較という意味である。『棠陰比事』では似た裁判を2つずつ並べており、名裁判比べができるわけである。

    大岡裁きで有名なのは、母と継母が子供を取り合うという話。大岡越前が手を引っ張り合って勝ったほうに子供を委ねるということを言って、引っ張り合いをさせたところ、子供が泣き出したので、一方が手を離した。それを見て大岡越前が「子が痛がるを不憫に思い、手を離したる方がまことの母!」と裁定したという。

    よくできた話だが、『棠陰比事』では第8話「二人の母」に同じ話が収められている。前漢の太守、黄覇の話ということになっている(ということは2000年以上前の話だ)。

    で、『棠陰比事』第7話には「二人の父親」という題でこの話のバリエーションが収められている:後魏の李崇が、二人の父親が子供を取り合っている事件の裁定を求められた。李崇は子供を父親たちから隔離して、数日経った後、「子供が死んじゃった」と父親たちに報告した。そうしたら、一方の父親は非常に悲しみ、もう一方の父親はためいきをついただけだった。この結果を見て、李崇は非常に悲しんだ父親に子供を委ねた。

    どちらもよくできたとんち話なのだが、訴訟に負けたほうはどうなったかというと、「罪に服した」そうである。中国の裁判は厳しい。

    棠陰比事
    棠陰比事桂 万栄 駒田 信二


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    2007.09.09

    ちょっとキザですが

    ちょっとキザですが
    昔、NHKのアナウンサーやってた磯村尚徳氏(松平定知アナウンサーのおじさん)の著書。昭和50年刊。
    貴族階級出身らしい話題がちらほら。例えば、「私は、朝は、コーヒーより紅茶党です。親代々の純銀のポットで、濃いミルク・ティーを何杯も飲むのですが…」とか。
    キザ過ぎてかえって嫌味がない。

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    2007.08.31

    イノベーション論の空しさ

    イノベーションの重要性についての議論はあちこちで聞くが、イノベーションを起こしたわけでもない人々によるスキームだけの話はつまらないし空虚である。

    狭い分野で言えば、知的財産権や著作権に係っている人たちの議論もそう。人の創作物を活用して儲けようという、つまり人の褌で相撲をとろうという気が見え見え。彼らホモ・サピエンス(知恵ある人)には自ら実際に発明・発見をしようという意志が全くないので、彼らの発言は小生のようなホモ・ルーデンス(遊ぶ人)またはホモ・ファーベル(工作人)の琴線には全く響きまへん。

    ものづくりの醍醐味は大儲けをたくらんだりすることではなく、ものをつくることそのものにある。ここで紹介する本はその醍醐味というか興奮というか狂喜というかを教えてくれる。とくにセグウェイの発明者へのインタビュー記事には共感を覚える。

    Make: Technology on Your Time Volume 02Make: Technology on Your Time Volume 02
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    2007.08.30

    バビロニア・ウェーブ

    勘弁してよー、というのが感想。

    何事かというと、創元SF文庫版『銀河英雄伝説』を宮脇書店に買いに行ったところ、となりに堀晃『バビロニア・ウェーブ』を発見してしまったという事件が発生したのである。

    バビロニア・ウェーブというのは「銀河面を垂直に貫く直径1200万キロ、全長5380光年に及ぶレーザー光束」のことである。光が片道でも5380年、古代バビロニアの頃から現在までの時間かかって旅するわけであるので、この名前がついた。この光の束に斜めに鏡を差し込んで膨大なエネルギーを得る計画が進められているというのが全体の大きな筋である。もちろん何でこんなレーザー光束があるのか?という謎解きの方が重要であり魅力的なわけだが。

    結局、この本も買う羽目になった。勘弁してよーと思う。

    バビロニア・ウェーブバビロニア・ウェーブ
    堀 晃

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    2007.08.28

    いまさら銀河英雄伝説

    書店のSFのコーナーをブラブラしていたら創元SF文庫のところで平積みになっているのを発見した。おお、SFの殿堂入りだ!と驚いた。

    かつては徳間ノベル版で全10巻を集めていたが、そのときの表紙イラストは加藤直之。しかし、中のイラストは重厚感がなく、あまりいただけなかった。道原かつみ版の漫画もちょっとなーという感じだった。今回の創元SF文庫版の表紙は『2001夜物語』や『ヤマタイカ』でおなじみ(?)の星野之宣!うちの本棚に並べるに耐える装いである。

    創元SF文庫版に寄せた田中芳樹の文章が良い。Books談ではPOPにも引用されていた:

    二十年前に完結した『銀河英雄伝説』という作品は終(つい)の棲処(すみか)を得た。ありがたいかぎりだ。

    よし、コレは全部そろえよう。

    銀河英雄伝説 1 黎明編銀河英雄伝説 1 黎明編
    田中 芳樹

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    2007.08.24

    台湾で考えた

    先日、2泊3日で台湾に出張した。

    過去何回も中国大陸に出張した経験をもとに台北の街を眺めると、なんと綺麗な国なんだろうと思う。同じ中華社会であっても、交通ルールが守られているだけでも大違い。言論もかなり自由らしい。台湾のいい面を見た後で思うのは、この国(国際的には「地域」扱い)が常に大陸側からの脅威に曝されているということだ。忠烈祠の衛兵交代を見物したが、そのときに思ったのは、この精悍な衛兵たちの姿は自由社会を守ろうという台湾市民の意志の象徴なのだろうということだ。

    台湾で思い起こしたのは最近読んだ本、別宮暖朗著『軍事学入門』のこと。いろいろと目から鱗が落ちる話が多かった。以前は非武装中立の思想に惹かれるものを感じていたが、この本を読んだ結果、自国を弱く見せることこそ戦争を誘発するのだということを認識した。また、容易に降伏することは同盟諸国への裏切り行為であることも認識した。かつて第1次世界大戦でドイツに対して毅然として立ち向かったベルギーの姿は精神的に素晴らしいだけでなく、政治的にも正しいことである。

    平和とは現状維持であるということの認識も重要である。中華人民共和国の一部でもなく、独立国でもなくという不安定な状況にありながらも、現状を維持するために軍事、外交、経済などあらゆる方面で努力を続ける台湾の姿には、日本も見習うべきことが多いと感じた。

    軍事学入門 (ちくま文庫 ヘ 10-1)
    軍事学入門 (ちくま文庫 ヘ 10-1)別宮 暖朗


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    2007.08.01

    唐沢俊一氏が盗用?

    熱心なファンとは言えないが、唐沢俊一氏のトリビアルなネタは大好きで、著作を何冊か持っているし、氏のサイトの「裏モノ日記」は頻繁に読んでいる。一時期のトリビアブームはタモリ、八嶋、高橋の3氏の話術、および「へぇ」ボタンという小道具の効果もあるが、基本的にはこの人の功績である。

    切り込み隊長のブログ経由で知ったのだが、唐沢俊一氏による盗用疑惑が発生している。氏が出した『新・UFO入門』に漫棚通信氏の文章が盗用されているというのだ。詳細は漫棚通信氏のブログ「漫棚通信ブログ版」に記載されているので、ご参照ありたい。

    ネタを探し続け、面白く紹介するのは非常に大変な作業であるが、氏もやらかしちゃったのだろうか?
    (ちなみに小生はかつて氏のサイトにトリビアなネタをいくつか投稿していた経験を持っている。別に採用も何もされなかったが、ネタ探すのは大変だった。クイズと同じで、「誰もが知っている人やモノに関連する、あまり知られていない事実」を持ってくるのはそう簡単ではない。)

    唐沢氏からのコメントはこれ

    この事件(?)に対する反応として以下のものを紹介しておく:

    幻視球「『新・UFO入門』と、唐沢氏の新書10年計画 」
    ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記「泥棒が被害者を「俺が盗んだことをバラしたら訴えるぞ」と脅す」
    Sankei WEB 【竹熊健太郎 たけくまメモ出張版】ブログからの盗用疑惑

    みんな厳しいな。当然か。

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    2007.07.08

    Urdu is sweeter when written by hand

    Wiredの記事によると、インドのチェンナイでは、手書きの日刊新聞が作られているそうである

    日本でも以前は、学校の先生が手書き&印刷機で教材や保護者へのお知らせを作っていた。
    小生も高校の頃に(美術部だったのに)文芸部の雑誌作成を手伝って、手書きで原稿&イラストを書いたものである。ちょうどワープロが普及し始めた頃だったので、ワープロによる原稿作成にも挑戦してみたものの、小さい液晶ディスプレーで苦労した。

    その後、Macが登場し(Plusとかでも40万円を超えていたはず。高校にDynaMacを持ってきた猛者がいた)、DTPが始まり、手書きで印刷原稿を作ることが減ってきて、今に到るわけである。

    Wiredの記事で紹介されているのはウルドゥー語の手書き日刊紙"The Musalman"。ちゃんと締め切りに間に合うからすごい。植字工ならぬ筆記工(カリグラファー)は1頁書くと60ルピー=約1.5ドルをもらう。ちなみに新聞の値段は1部1セントだそうで。

    いずれデジタル化の波に飲み込まれるのだろうが、編集長は"Urdu is sweeter when written by hand"と言っている。

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    2007.05.18

    本を忘れた

    昨日の飛行機(ANA695便)で本を読んでいたのだが、うっかり座席に忘れてしまった。

    ちゃんと遺失物として保管されていて、今日手元に戻ったのだが、確認のために本のタイトルを繰り返し言うのが恥ずかしかった。

    「アホでマヌケな米国ハイテク企業」

    内容は非常に面白いんだけどね。

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    2006.06.03

    Greg Egan "DIASPORA"

    洋書版の『ディアスポラ』が届いた。


    山岸真の訳による、ハヤカワ文庫版はすでに5月の中旬に読み終えているので、この原書版は要所要所を斜め読みするつもり。


    ディアスポラは独立性の高い、中篇(短編?)小説の連続体である。


    この小説(群)の舞台は2975年以降の地球である。多くの人々は仮想現実世界の市民(コンピュータの中の存在)として生きている。彼らは肉体の代わりにアイコン(最近のインターネット社会ではアバターと呼ばれるもの)を持っている。彼らの世界はポリスと呼ばれ、地中に注意深く埋められたコンピュータの中にある。


    この時代、人類の全てが仮想現実化しているわけではなく、一部は肉体人、一部はグレイズナーというロボットとして生きている。ポリス市民、肉体人、グレイズナーは互いに互いの領分を侵さないようにして平和に生活している。このような舞台装置のもと、30世紀から超未来まで果てしなく続く物語が始まる。


    第一部 主人公ヤチマがコニシ・ポリスで誕生する。ヤチマはやがて数学者となり、「真理鉱山」で、様々な数学的真理の発掘を行うようになる。また、仲間であるイノシロウと共にグレイズナーの体に乗り込み、肉体人の町、アトランタを訪問したりする。


    第二部 グレイズナーの一員、カーパルが月面でトカゲ座の「ガンマ線バースト」に気付く。この天体現象が地球に及ぶと、地表の肉体人は全滅してしまう。この情報を得たヤチマとイノシロウは肉体人をポリスに移住させようと考え(つまり、肉体人をデジタル化しようと考え)、再びグレイズナー・ボディに乗り込んで地表に向かう。しかし、この案は肉体人に拒絶される。ついにガンマ線バーストによって地表が焼かれる。この事件を「肉滅」と呼ぶ。この事件の後、ヤチマはコニシ・ポリスからカーター-ツィマーマン(C-Z)ポリスに移住する。


    第三部 ワームホールを利用した長距離超光速移動(ワープ)実験とその失敗に関する話。実験装置の「長炉」は線形粒子加速器だが、大きさがなんと、1400億キロ(冥王星の軌道の十倍以上)もある。ちなみにこの実験にかかった期間は準備期間もあわせて800年以上。ワームホールによるワープ実験失敗により、市民のクローンを乗せた超小型宇宙船によって地道に恒星間探査を行うことになる。この計画をディアスポラとよぶ。


    第四部 カーター-ツィマーマン(C-Z)ポリスによるディアスポラ実施中。ヴェガ星系惑星オルフェウスで「ワンの絨毯」という「生命」もどきを発見。「ワンの絨毯」は海藻みたいに成長する単一分子で、それ自体すごい。しかし、もっとすごいのは、「ワンの絨毯」は一種のコンピュータで、そのコンピュータの中に「イカ」と呼ばれる仮想生命体が生存しているということ。つまり、オルフェウスで、カーター-ツィマーマン・ポリス市民たちは自分たちと同じような存在を発見したということになる。


    第五部 ヴォルテール星系惑星スウィフトで、変な中性子を発見。どうもこの星にいた、ある文明(知性的存在)が人工的につくり出したものらしい。しかもこの中性子(長い中性子)には大量のデータが埋め込まれていた。それによると、例のトカゲ座ガンマ線バーストをしのぐ、「コア・バースト(ニュートリノ・バースト)」がやってくることが判明。このコア・バーストでは半径5万光年ぐらいの範囲で、物質が壊されてしまう。この中性子を作った存在、通称「トランスミューター」はコア・バーストから逃れるべく、別の(上位)宇宙に脱出したと考えられている。ヤチマたちはトランスミューターを追って上位宇宙に行くことにした。


    第六部 上位宇宙は5次元+1次元(時間)の宇宙だった。その宇宙の惑星ポアンカレで、ヤチマたちは、ヤドカリとあだ名される知性と出会う。ヤドカリたちによると、トランスミューターたちはヤドカリたちに出会った後、さらに上位の宇宙に移動したのだと言う。ヤチマたちの追跡は続く。


    第七部 また別の宇宙。ここでは「虫」と呼ばれる、他の宇宙から来た種族の作ったプログラムというか「対応係」に出会う。「虫」が「ガンマ線バースト」や「コア・バースト」のような大惨事を引き起こす物理的メカニズムについて、あっさりとした説明してくれたため、ヤチマやカーパルら一行が驚いたりガッカリしたりする。


    第八部 いろいろな宇宙から来た種族と出会い、文明の同化などが行われている時代。ヤチマとパオロはさらにトランスミューターの追跡を行うことにする。すなわち、どんどん上位の宇宙へと旅を続ける。その結果、267兆9041億7638万3054個目の宇宙にたどり着く。パオロは全てをやりつくしてしまったとして停止(瞑目)する。ヤチマはコニシ・ポリスから持ってきた「真理鉱山」を発掘する作業(数学への没頭)を再開する。


    まあなんというか、壮大な話。私の場合は、光瀬龍などを思い出してしまう。しかし、この小説は叙情的な要素も含むが、最新科学を踏まえたハードSFとしての性質も非常に強い。ワンの絨毯のような高分子コンピュータの中に生きる仮想生命体、上位宇宙への旅、五次元世界での方向感覚といった発想もすごいし、ガンマ線バーストをしのぐ、コア・バーストという発想もすごい。


    旅の果ての状況も非常に考えさせられる。永遠の命を手に入れて、ほとんどあらゆることをやりつくしてしまったとき、知性(人類でもいいけど)はどういう行動を取るのだろうか?パオロのように瞑目するのか。ヤチマのように無限に続けられる作業に没頭するのだろうか?究極の問題を突きつけられた感じがする。


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    ディアスポラディアスポラ
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    参考になるサイトは以下のとおり。

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    2006.05.21

    主観的宇宙論

    以前、三傑の一人としてグレッグ・イーガンの名前を挙げていたものの、今までこの作家について書いていなかった。


    ここ数日、中国の大連に出張していた。その間にグレッグ・イーガン(山岸真 訳)『ディアスポラ』(ハヤカワ文庫)を読み終えた。これを機会に、この作家について書きたいと思う。


    今までに日本語に翻訳され、刊行されているグレッグ・イーガンの作品のうち、長編は以下の4作である:


    • 『宇宙消失』(創元SF文庫、1999年) 原題:Quarantine (1992)

    • 『順列都市』(ハヤカワ文庫、1999年) 原題:Permutation City (1994)

    • 『万物理論』(創元SF文庫、2004年) 原題:Distress (1995)

    • 『ディアスポラ』(ハヤカワ文庫、2005年) 原題:Diaspora (1997)



    最初の三つの作品は、著者自身によって「主観的宇宙論もの」と呼ばれている。ものすごく単純に言えば、認識によって世界(宇宙)が決定される、という考え方がこれら三作の底流に流れている。その考え方は「我認識す。ゆれに世界あり」と言い換えてもいいだろう。主観的宇宙論といっても素朴なものではなく、量子論やコンピュータ・サイエンスの成果を踏まえた上での考え方である。


    『宇宙消失』では、2034年に冥王星軌道の倍の半径を持つ暗黒の球面によって太陽系が覆われ、太陽系が宇宙から遮断される。地球側から見れば、宇宙が消失した状態になってしまう。この状況は、人間が宇宙を観測することによって、宇宙の多様な存在の仕方が一意に決定されることを恐れたエイリアンによって引き起こされたものであると推定されている。


    『順列都市』では、コンピュータ上にダウンロード(アップロード?)された人格が、世界をどのように認識しているかということが、重要な話題となっている。この認識の仕方は「塵理論」と呼ばれ、永遠に存在し続けられる方法(ハードウェアに依存しない:コンピュータが壊れても死なない)に結びついている。


    『万物理論』では、全ての物理法則の根底にある第一原理、すなわち万物理論は一人の人間(基石<キー・ストーン>)によって体現され、この人間が認識を持つことによって宇宙(全空間、全時間、全存在)が発芽する、という考え方、「人間宇宙論」が登場する。この考え方(つまり宇宙の存亡)を巡る争いが、この作品の展開の重要な要素となっている。一人の人間の認識で世界が生じるのなら、その世界はひどく孤独なんじゃないのか、という疑問が生じるが、その疑問に対する答えが、この作品の最後に示される。


    このように、『宇宙消失』、『順列都市』、『万物理論』の三作は、主観と宇宙の関係が主題である。それだけでも非常に深い話になるのに、『ディアスポラ』では、主観的宇宙論はもはや当たり前として、さらに先に進んでいることが特徴である。その話はまた場所を改めて書くことにしよう。



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    順列都市〈下〉順列都市〈下〉
    グレッグ イーガン Greg Egan 山岸 真

    早川書房 1999-10
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    万物理論万物理論
    グレッグ・イーガン 山岸 真

    東京創元社 2004-10-28
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    2006.05.11

    サキャ格言集

    近所の本屋でこの本の立ち読みをしたところ、なかなかいい格言が出てきたので、購入を決定。その格言は次のもの。



    賢者は自分の国より

    外国で敬われる。

    外国ではよく売れる宝石も

    産地の島では売れはしない。




    学者の世界で良くありそう、と思った。ノーベル賞の田中さんも外国の賞であるノーベル賞を取ったことで逆輸入というか、国内評価を受けたわけだし。



    サキャというのはチベットの学者・政治家である、サキャ・パンディタ(1182~1251)のこと。サキャ・パンディタはモンゴル帝国遠征軍のゴダン・ハーンとの折衝に成功し、チベットは征服をまぬがれたという。なお、サキャ・パンディタの甥にヂョゴン・チョゲ・パスパという僧がおり、モンゴル帝国の公用文字パスパ文字を作成した。詳しい話は「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」の「チベットの歴史」を参照。



    サキャ格言集サキャ格言集
    サキャパンディタ 今枝 由郎

    岩波書店 2002-08
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    2006.04.16

    くよくよする

    朝永振一郎という物理学者がいた。
    1965年にノーベル賞を受賞したひとである。
    1937~39年にかけてドイツに留学し、ハイゼンベルクの指導を受けたが、この留学中、研究がうまく進展しないことについて悩み続けた。

    1938年11月17日
    <前略>湯川から第四の論文がくる。坂田、小林、武谷と四人共同のである。これを見てまたゆううつになる。そして、ゆううつになるなどこういうことをもう何回もくりかえしているかと思う。それから計算にかかるがうまくいかない。

    11月26日

    何もかわりはない。天気がいい。物理ははかどらない。散歩に行く。

    1939年1月8日

    <前略>あのややこしい宇宙線の実けんを分析して行くオイラーやハイゼンベルクの頭にはとてもかなわぬ気がする。ぼくにとっては、いかめしく苦しい物理学など、彼らにとっては少しばかりややこしい街すじの散歩くらいでしかないらしい。<中略>夜、大賀、イトウ君らとだべる。ぼくの会話は非常にガイストライヒで、天才的なひらめきがあるなどみな言うが、人をばかにする話だ。

    2月23日
    <前略>計算をなおすすめてみたら、やはりだめだ。<中略>つくづくとなさけなくなる。

    朝永振一郎『滞独日記』


    『滞独日記』には、こういう話が連綿とつづられている(もちろん映画を見に行ったとか、散歩に行ったとか、日常生活も記載されている)。朝永振一郎はこのような苦しみを経て、やがて新しい理論を形成し、それが世界から評価される。

    しかし、読者はこの日記を読んで「頑張れば、成果を挙げられる」などという教訓めいたことを学ぶ必要はない。ただ、不断の努力と苦しみ、ライバルたちへの羨み、くよくよする姿という人間的な感情の動きについてシンパシーを感じればよい。

    この日記は下の文庫本で読める。

    量子力学と私量子力学と私
    朝永 振一郎

    岩波書店 1997-01
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    2006.04.15

    「ウェブ進化論」に対する戸惑い



    ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
    ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる梅田 望夫

    筑摩書房 2006-02-07


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    話題になってからだいぶ経って,最近読んだ本である(2006年4月14日記事参考).
    で,この本の主張に対する戸惑いが伺われる(?)文章がこれ:「いったいネットで何が起こっているんだ?」である.
    記事の一部を引用する:

    「グーグルやはてなのように,最初からネット上で生まれた企業の中から,モノやサービスを売らないところが出てきた。」
    「広告や販促支援を大きな収益源とする典型的な事業は,業種で言えば「メディア事業」。なんのことはない,記者が属する出版社の同業者だったわけだ。 」
    「既存のメディア事業者との違いは,従来の放送技術や出版技術ではなく,インターネット分野でITベンダー顔負けの技術者をそろえ,高い技術力を駆使して,効果的な広告メニューの開発や,広告を見てくれる利用者数を増やすことにまい進している点である。」

    この本を読んでいるとしたら,内容を誤解している.というよりもむしろ,この本を読んでいないような感じを受ける文章である.
    なんだこりゃ?

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    石井 淳蔵 『マーケティングの神話』

    マーケティングの神話マーケティングの神話
    石井 淳蔵

    岩波書店 2004-12
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    著者は神戸大学大学院経営学研究科の教授である。「ヒット商品は科学的な調査・分析によって理論的に生みだされた」という言説は、開発現場での経緯と合致しないことが多いということを著者は指摘する。
     著者が提示するのは、商品開発には「論理・実証型」と「意味構成・了解型」の二つのタイプがあるということである。先に述べた言説は「論理・実証型」の商品開発を指しており、消費者が確たる要求を抱いている場合には妥当な言説である。しかし、そうでない場合には、開発者が消費者から発せられる予
    兆を感じ取って、消費者にとっての商品の意味を構成し、その商品に対する消費者の了解・支持を得るという「意味構成・了解型」の手法をとらざるを得ない。この開発手法では、文化的背景や「商品が欲望を規定する」という反作用を理解する必要がある。
     著者が提示した、このような新しい概念は、過去の経験や見聞に照らして比較的納得できるものだった。

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    2006.04.14

    asahi.com:「ウェブ進化論」著者、梅田望夫さん(45)に聞く(下) - デジタル

    リンク: asahi.com:「ウェブ進化論」著者、梅田望夫さん(45)に聞く(下) - デジタル.

    今頃この本を読みました.

    ネット企業と呼ばれてはいるものの,グーグル・アマゾンと楽天・ライブドアには本質的な違いがあることが判って面白かったです.

    その違いとは,グーグルやアマゾンは完全に情報の海に住む企業であり,新しい秩序形成の先鋒であるのに対し,楽天やライブドアはリアル世界の商品を取引する,従来型の企業の延長線上に位置するという違いといえるでしょう.

    グーグルが5000人の社員(エンジニア),30万台のコンピュータを抱えているということには驚きました.

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    2006.03.25

    ユリイカ

    青土社が出している「ユリイカ」という雑誌。
    「詩と批評」がテーマの雑誌だが、
    たまにいい特集をしてくれる。
    「いい」というのはもちろん、
    私にとって良いということである。

    今年の3月号の特集は「マドンナ」だった。
    ミュージシャンや評論家やゲイ能界の人々からの
    マドンナを巡る熱い言説が寄せられていた。
    ディスコグラフィーやバイオグラフィーも充実していた。

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    2005.07.07

    グレッグ・イーガン『万物理論』

    だいぶ前に購入したグレッグ・イーガン『万物理論』を読み終えました.

    第2部まで読み終わっていたものの,その後放置しており,久々に読み直して,とうとう最後までたどり着きました.

    これまでにグレッグ・イーガンの著書として『順列都市』,『宇宙消失』,あと,短編集『祈りの海』などを読みましたが,大雑把には,グレッグ・イーガンが取り扱っているのは,

    意識次第で世界(宇宙)が変わる

    というテーマである,と言えるでしょう.

    それも,「恋愛をすると,世界がバラ色に見える」という「・・・に見える」レベルではなく,世界(宇宙)の物理現象が変化してしまうというすごいレベルのものです.

    作中に出てくる宇宙論(人間宇宙論・AC)などは,このテーマを端的に示したものだと言えるでしょう.作中人物,アマンダ・コンロイの説明を引用してみます.

    ”出発点”とするのは,単一の理論というかたちで宇宙全体を説明できる現存の人間がいる,という事実 (中略) この人物から,宇宙はそれを説明する力によって”発芽”するの.すべての方向に向かって,そして時間の中を前へもうしろへも. (中略) だから,宇宙はただひとつの法則に従うの――ひとつの万物理論に.宇宙はひとりの人間によって完全に説明される.わたしたちはこのひとりの人物を,<基石(キーストーン)>と呼んでいます.

    すごい説ですが,この人間宇宙論がこの本の中で正解の理論だったかどうかというと・・・.

    ちなみにカール・ポパー流の科学主義では,こういう否定する手が見つからない理論(反駁不可能な理論)は科学理論としては受け入れられません.

    この人の作品のすごいところは,読んでいるうちに本当の話に聞こえてしまうというところで,ストーリー展開,語り口のうまさを感じます.

    万物理論万物理論
    グレッグ・イーガン 山岸 真

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    2005.07.05

    『幻滅論』

    みすず書房から2001年に出た心理学の本である.
    近所の書店でたまたま購入した.

    『幻滅論』

    著者の北山修氏は,現在,九州大学大学院人間環境学研究科教授であるが,かつての「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーだと知って驚いた.『戦争を知らない子供たち』,『あの素晴らしい愛をもう一度』等の有名な曲の作詞者である.

    この本の文中には,「言語」というものに対する気遣いが満ち溢れており,ときには,この本の文体自体にまで言及している.かつて作詞家だった著者の言語感覚の鋭さには驚かされた.

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    2005.06.23

    「星の王子様」と「小さい王子」

    サン・テグジュペリの作品『星の王子様』の日本での著作権が今年1月で切れました.その結果,岩波書店が持っていた独占的な翻訳出版権も消滅し,各社が一斉に同書の翻訳出版に取り掛かっています.

    ところが,この「星の王子さま」というタイトルは岩波版の翻訳者の内藤濯(あろう)氏の考案だそうで,岩波は「星の王子さま」というタイトルを勝手に使われることを問題視し,各社に内藤氏の考案であるという事実を明示することを要望しています.ちなみに原題は「小さい王子」. ん?「小公子=リトル・プリンス」と同じことじゃないか.

    リンク: asahi.com: 「星の王子さま」新訳書名で要望書 岩波書店?-?文化・芸能.

    リンク: asahi.com: 新訳「星の王子さま」続々 岩波版半世紀、独占権が消滅?-?BOOK.

    ちなみに書名について著作権を主張することはかなり難しいそうです.

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    2005.06.21

    印税は誰に?

    どこかで問題になっていたかもしれませんが,非常に疑問なので,一応書いてみます.
    映画および単行本「電車男」の印税はどこに行くんでしょう?
    電車男とエルメスに渡るのでしょうか? それとも新潮社や東宝が全部もっていくのでしょうか? あと,2chの運営者ひろゆき氏や支援のカキコをした人々には関係ないのでしょうか?

    こういう著者が誰なのかわからないものは著作権法ではどう扱うんだか?

    リンク: ZAKZAK.

    ちなみに「電波男」の論理で考えると,この話は,電車男が楽しいオタクの世界から退屈な現実世界に引きずり出された悲劇ということになります.

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    2004.08.03

    福壽草(その2)

    ここ暫く,小沼丹(おぬま・たん)『福壽草』をぱらぱらと読んでゐる.
    この人の随筆の魅力はその随筆が扱つてゐる対象,テエマの魅力よりも,文体のほうにあるやうな気がする.同じことを荒川洋治氏が『夜のある町で』(みすず書房)の中で言つていたやうな気がするが,手元に本が無いので確認できぬ.

    『夜のある町で』の中で褒められていた随筆「女子學生」を読んでみた.2頁ほどの短い随筆である.普通の話であつたが,締めくくりの一文が良かつた.これが有るか無いかで随筆の価値がだいぶ変わつただらう.

    ところで,この本,以前のブログ記事では,「大事に読まねばならぬやうな気がしてきた」などと書いていたが,実際には寝床で読んでいて,畳の上に置いてゐる.カバアと箱は書棚に保管しているが,本体の扱いはこの有様である.有言不実行であるが仕方が無い.

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    2004.07.27

    福壽草(その1)

     荒川洋治『夜のある町で』(みすず書房)の中で,小沼丹(おぬま・たん)『福壽草』が紹介されてゐた.いい随筆集だと言ふのでアマゾン経由で購入してみた(「本は本屋で買わう」と言つてゐたにもかかはらずこの始末).
     届いてから驚いたのは,立派な造本だつたことである.箱に入つてゐる上に,箱も本もパラフイン紙で覆はれている.さらに本の表紙は布張り,書名と著者名は刻印されてゐる.いつも本を手荒にあつかつてゐる私への戒めであらうか.大事に読まねばならぬやうな気がしてきた.

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    2004.07.21

    本屋で本を買わう

    先日,セレクトショップならぬセレクト本屋の青山ブックセンターが閉店.

    面白い本が多い本屋だと思っていたんだけど,よくよく考えてみると,ここで本を買った回数は少ない.高価な画集を眺めていただけだったような気がする.インターネットを巡回してみると,「ここで本を見て,アマゾンで購入」という人が結構いた.みな同じようなものか?

    本を眺めているだけで買わない客が多いとしたら,本屋にとっては経済的打撃が大きい.気に入った本,読んでみたい本が見つかったにもかかわらず,その本屋で購入に踏み切らないとしたら理由はなんだろうか? あくまでも私の考えだが,迷い無く買うには高いからという理由が考えられる(重いからという可能性もあるが).

    しかし本が躊躇するほど高いかというとそうでもないと思う.普段は飲食や衣服や旅行にはかなりの金額を投入している.たまに興味のある本が見つかった場合には(あとでハズレの本だということが発覚する可能性があるとしても),迷わず買ってもいいのではないだろうか.

    とりあえず私としては,今後は気になる本が見つかって,買うか買わざるか迷う場合には,その場で本を買おうと思う.本を手にとってみることができる場所がこれ以上減少しないように.

    ◆追記:
    唐沢俊一氏が裏モノ日記(2004年7月17日付)の中で
    「鶴岡 の電話、青山ブックセンター倒産について。あの青山本店の、おしゃれなだけで無意味に空間がある配置がキライだった、というようなことを話す。」
    と書いておられる.本好きの人にとっては,本に対する執念が感じられなかったのかもしれない.

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    2004.07.20

    夜のある町で

    ■荒川洋治『夜のある町で』(みすず書房,1998年)

    浜松町のブックストア談で購入.「四六版宣言」というフェアで平積みになっていた.装丁が気に入ったので手に取った.いわばジャケ買いである.

    この本はエッセイ集である.著者が詩人だというのは読んでから知った.失礼なことである.文体は平易でユーモアがある.話題は楽しいものが多い.

    最もおかしみを感じたのは「これからの栗拾い」.女性のお尻が好きだ,ということから始まる文章を読むと笑ってしまう.投稿と寄稿という言葉の違いに拘った「投げるのか! 寄せるのか?」,詩の朗読に見られる自己満足を批判した「声」,宮沢賢治崇拝者を批判した「注文のない世界」は記憶に残るエッセイである.

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