2017.08.17

満洲棄民は1945年1月には決まっていた

これも,加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書2015,2009年7月)を読んでの気づき。

同書第4章「重慶・新京――『連合国』中国の苦悩」を読むと,関東軍はソ連参戦を予期した持久戦計画を1945年1月17日までに策定していたということである。

その計画では満洲南東部と朝鮮北部の保持が優先され,満州の大半は放棄することが決まっていた。満洲の日本人の多くは保護対象から外れていたわけである。終戦の数か月前から棄民は既定路線だったということである。

こういう冷酷な計画を練るほどの関東軍だから,終戦時には冷徹に行動できたか,というと全然違う。ソ連軍の占領政策についての楽観的な見方が裏切られるや慌てはじめ,8月17日には満鉄の指揮権を満鉄総裁に丸投げ,また居留民保護を在満日本大使館に丸投げ,という無責任ぶりを発揮し,現地の混乱に拍車をかけた。

この点,支那派遣軍は腹が座っていて,張家口でソ連軍と交戦しつつ,同地の日本人4万人の脱出を成功させている。

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2017.08.16

古賀峯一は慌てたのだろうか?

加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書2015,2009年7月)の第5章「南洋群島・樺太――忘れられた『帝国』」を読んでいてちょっと気になったのが,次の記述である:

「南洋庁が置かれていたコロール島は,1944年3月30日の第1回目の米機動部隊による空襲で,港湾施設と艦船が被害を受けた。このときの空襲は,パラオ港に停泊する聯合艦隊を狙ったもので,古賀峯一聯合艦隊司令長官は,慌ててフィリピンのダバオに向けて飛行艇で飛び去ったものの,途中で遭難死してしまった。」(193~194頁)

古賀峯一長官の遭難死は「海軍乙事件」として知られている。Wikipediaの記述によれば,古賀長官の移動は司令部移動の予行演習を兼ねたものとされ,慌てたわけでなく,既定の方針だったような印象である。

『「大日本帝国」崩壊』の「慌てて…飛び去った」という記述は,嶋田海軍大臣が,古賀長官のパラオからの移動を前線からの逃走だと批判したことを踏まえてのことだろうと思う。古賀長官の死は「戦死」ではなく「殉職」の扱いだった。

ただし,当時,古賀長官と嶋田海相とが不仲だったことを踏まえると,古賀長官のパラオからの移動を「逃走」と捉える嶋田海相の判断にはかなりのバイアスがかかっているような気がする。真相はどっちなのだろうか?

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終戦記念日に加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』を読む

先日,NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」を見た。

これを観た後,そういえば,8月15日以降,「大日本帝国」の領土だった各地で何が起こったのかについて書いた本があったなぁと思い出し,本棚をあさったところ,出てきたのがこれ,加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書2015,2009年7月)である。

帝国版図のうち,いわゆる本土,つまり北海道・本州・四国・九州の4島では,8月15日以降,さしたる混乱もなく連合国軍進駐のプロセスが進んでいった。しかし,朝鮮,台湾,満洲,樺太,南洋群島といった各地では,戦闘の継続,政治的混乱等々,それぞれ異なった事態が進行し,現代にもつながる問題が生まれていくこととなった。

本書によれば,ポツダム宣言受諾のプロセスで,日本の指導層の念頭にあったのは,国体の護持のみであり,広大な「大日本帝国」の版図の隅々のことにまで頭は回っていなかった。本書ではこのように記されている:

「こうして,ポツダム宣言受諾による大日本帝国の敗北と解体は決定した。しかし,最後まで『国体護持』が争点となるなかで,『帝国臣民』についてとくに議論はなされなかった。このことが後になって帝国崩壊後の大きな問題へとつながっていくのである。」(本書47頁)

海外領土担当部署である大東亜省は,一応,アジア各地に終戦後の処置を指示していたが,このようなものだった:

「大東亜省は,ポツダム宣言受諾を伝えた暗号第715号の別電として暗号第716号によって具体的な指示を伝えた。そこには『居留民はでき得る限り,定着の方針を執る』とされていた。すなわち,大東亜省は現地定着方針による事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。」(本書57頁)
「また,電信では同時に,朝鮮人と台湾人について『追て何らの指示あるまでは従来通りとし,虐待等の処置なき様留意す』とされていたが,『追て何らの指示』は結局この後も出されないまま彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた」(本書57頁)

この丸投げの一例が,朝鮮総督府の戦後処理であった。はじめは呂運亨率いる「朝鮮建国準備委員会」(建準)に事態収拾を依頼し,その後,朝鮮人指導者層の内紛が発生するのを見るや,「建準」を見限り,米軍にすべてを委ねることとなった。朝鮮人を当事者として加えないままの処理プロセスであった。

台湾の方は大きな混乱もなく,台湾総督府から中華民国(国民党政府)の台湾省行政長官公署への引継ぎが行われた。ただしこれも台湾人の自主的な参加を欠いたままの戦後処理であった。台湾人にとっては,統治者が日本人から外省人に交代しただけのことであり,自治は得られず,しかも統治者の質が劣化したという点ではより深い失望感を味わうこととなった。

本書では,もちろん満洲や樺太で起こった悲劇も詳述されている。いずれにしても,帝国版図の住民,つまり日本人のみならず,朝鮮人や台湾人や樺太の先住民を「帝国臣民」としておきながら,終戦工作の中で,あっさり切り捨ててしまうあたり,当時の指導層の無責任さには呆れるばかりである。

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2017.08.11

【再読】梅棹忠夫『東南アジア紀行』

1957年11月から翌1958年3月にかけて梅棹忠夫はインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。その時の記録が,『東南アジア紀行』である。

本ブログでは6年ほど前に「梅棹『東南アジア紀行』の時代」という記事で紹介したことがある。

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老生は,この夏もまたラオスに行く。もう9回目となるか。

渡航前に同国に関する知識を整理するために『東南アジア紀行』の下巻,ラオスのことが記されている第17・18章を読み直したのだが,読み直してみると,いろいろな発見がある。

梅棹らの,ラオス滞在は,1958年3月7日から3月17日までの11日間である。この僅かな滞在期間で,ラオスの各地をまわり,自然や文物をよく観察し,充実した記録を残しているのだから大したものである。老生はラオスに行く度に梅棹らよりも長く滞在しているのだが,彼らほど物事を見ていない。

梅棹らはジープで南ベトナムのドン・ハーからアンナン山脈を越えてラオスに入り,チェポン,パラーン,サワナケート(サワンナケート),ターケーク,パーン・ポーン,ナム・カディン,パークサン,とメコン左岸を移動し,ヴィエンチャンに入った。

アンナン山脈の東,ベトナム側では,常緑樹生い茂る雨季の世界だったのが,山脈を超えてラオス側に移ったとたんに,落葉樹林広がる乾季の世界に変わる,というのが面白い。

ヴィエンチャンに入って以降は,飛行機を利用してシエンクワーンルアンパバーンナムターを巡っている。道が整備されていない国では,まず,飛行機が重要な交通手段なのだ。

シェンクワーンに入った梅棹はヴィエンチャン王チャオ・アヌの反乱について触れている。チャオ・アヌ(チャオ・アヌヴォン)がシャムに対して起こした反乱については,本ブログで以前取り上げたことがある(参考:「タイの政治的混乱はチャオ・アヌの呪い」)。梅棹は,シャムに敗れたチャオ・アヌがシエンクワーンに逃げた顛末を書いているが,この話,老生はすっかり忘れていた。

当時のラオス人口は推定130万人,公定レートは1ドル=35kip,というようなこと,シエンクワーンには総督がいたこと,等々,読み直すと,ああそうだったか,と再発見が多くて面白い。

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2017.07.31

インゲボルク・バッハマン『三十歳』を読む

インゲボルク・バッハマンの短編集,『三十歳』(松永美穂訳,岩波文庫)を読んだ。昨年の正月に上梓されて間もなく買ったのだが,最近まで本棚で眠らせていた。老生のよくやるパターンである。

本書は表題作「三十歳」を含む,以下の7つの短編で構成されている:

  • オーストリアの町での子供時代
  • 三十歳
  • すべて
  • 人殺しと狂人たちのなかで
  • ゴモラへの一歩
  • 一人のヴィルダームート
  • ウンディーネが行く

「オーストリアの町での子供時代」は自伝的要素の強い小説,というよりもエッセイ。戦争の時代ですら郷愁を帯びてしまっている。

表題作「三十歳」は三十歳を迎えようとする男性が焦燥感に駆られたかのように無計画な旅に出て,まともな成果をあげることなく,1年を浪費する話。最後にはヒッチハイクを試みて交通事故に遭う。

「すべて」はフィップスという息子の成長を見守る父親の話。父親としては息子が世俗に染まって欲しくないのだが,息子はその期待を完璧に裏切る。悪い言葉を覚え,暴力沙汰を引き起こし,やがて取り返しのつかない結末が…。

「人殺しと狂人たちのなかで」は第二次世界大戦終了後10年経ったウィーンの居酒屋で起こった事件を描く。ドイツ第三帝国の一部であったオーストリアの人々は戦争被害者であるとともに加害者でもあるという複雑な過去を持つため,戦争の話になるとギスギスした雰囲気になる。それでも男たちは戦争中の話をやめられない。

「ゴモラへの一歩」は,男性に従属的だったシャルロッテが,マーラという若い女性(多分,スロヴェニア人)によってレズビアンの関係に目覚める話。異性に対しては従属だったのに,同性に対しては支配的になる,という関係性の変化が面白い。ゴモラというのはソドムと共に「不自然な肉の欲」の罪によって神に滅ぼされたという町の名前である。

「一人のヴィルダームート」は,異常なまでに「真実」にこだわる上級地方裁判所判事のアントン・ヴィルダームートが,同じ姓を持つ,殺人事件の容疑者:ヨーゼフ・ヴィルダームートの裁判を担当する中で,精神の異常をきたす話。

「ウンディーネ」は,水の精・ウンディーネの独白。ウンディーネは人間の男性たちに向けて誘いと呪いの言葉をかけ続ける。


池内紀は毎日新聞の書評(2016年2月21日)の中で,これらの作品に対して「つねに喪失がテーマ」と述べている。そんな気もするが,違う気もする。「ゴモラへの一歩」などはこれまでの人間関係の喪失はあるものの,新たな人間関係の構築が予感される作品である。池内紀は同じ書評の中で「若さは行方知れずで成熟は訪れない」とも述べているが,その評語の方が合っていると思う。


◆   ◆   ◆


何れの作品も読み応えがあるのだが,読みやすさで言えば,「ゴモラへの一歩」が一番だろう。シャルロッテとマーラの対話の中で物語の中心課題が非常に明確に浮かび上がってくる。

「一人のヴィルダームート」は7編中,「三十歳」に次いで二番目に長い小説で,読むのにちょっと骨が折れる。だが,この小説の主人公,アントン・ヴィルダームートの「真実」に対する見解はとても面白い。一つ引用してみよう:

「だが,親愛なるみなさん,あらためて訊くが,なぜ真実を語らなくてはいけないのだろうか? そもそもどうして,このいまいましい真実を選ばなくてはいけないのだろう? わたしたちが嘘に陥らないためか。というのも嘘は人間が作ったものだが,真実は半分しか人間が作ったものではないからだ。真実のもう一方の側には,事実の世界にある何かが対応しなくてはならないのだから。あることが真実であるためには,事実の世界にまず何かがなくてはならない。真実は,単独では真実たりえない」(本書227~228頁)

「人殺しと狂人たちのなかで」についてコメント。この作品を読みながら,戦後のウィーンってこんな感じだったのだろうか?と思ったりした。戦後10年,ということは1955年だから,ちょうど連合軍軍政期が終わる頃である。ついでに本作の訳語について一言。137頁に1942年の冬のことが記されているが,これはスターリングラード攻防戦のことだろう。だとすると,文中の「第六部隊」は,正確には「第六軍」とした方が訳語が正しいと思うのだが,原作ではどうなっているのだろうか?


◆   ◆   ◆


本書の訳文は非常に簡潔で読みやすい。ところが,老生の場合,この短編集を読み通すのに結構時間がかかった。作者が元々詩人だっただけあって,言葉遣いに緊迫感がある。例えば,「一人のヴィルダームート」では,「真実」と「事実」の使い分けが重要だ。言葉の一つ一つに込められた意味や意図が深い。一語たりとも疎かにできないため,読み解くのに時間が必要だ。新潮文庫から出ていたサルトルの短編集『水いらず』を読んだときと同じ感じ。インゲボルク・バッハマンがハイデガーについての博士論文を書いていたことを踏まえると,「実存主義」というキーワードで『三十歳』と『水いらず』の両者はつながりそうである。


◆   ◆   ◆


Wikipedia英語版によれば,インゲボルク・バッハマンは1973年9月25日の夜から26日の未明の間,ローマの自宅の寝室で発生した火事によって全身にやけどを負った。入院したものの,翌月17日に死去した。入院時,バルビツール酸系(鎮静剤/睡眠薬として使用されていた)の乱用による離脱症状があったものの,医師たちはこれに気づかず,それが死につながったと言われている。

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2017.07.17

『バウドリーノ』下巻読了

この連休中に『バウドリーノ』を読み終えた。

上巻の舞台はイタリア・ドイツ・フランス,そしてせいぜいコンスタンティノープルといった範囲に限られていた。それが下巻では物語世界が一気に広がる。バウドリーノ一行はフリードリヒ1世(バルバロッサ)の遠征に従って,小アジアへ,さらに東方へと旅を続ける。

下巻で多くのページが割かれているのが,東方にあるという伝説のキリスト教国「司教プレスター・ジョンの国」(司教ヨハネの王国)に向かうバウドリーノ一行の苦難の旅についての記述である。

この旅の途上で,バウドリーノたちは奇妙奇天烈な自然の産物や住民に出会う。

触ると全身が黒く変化するブブクトル川の黒い石,全く光が射さないアブハジアの森,獅子の頭・ヤギの胴・竜の背を持つキマイラ,人の頭・獅子の体・サソリの尻尾を持つマンティコア,岩と土砂が流れるサンバティオン川,一本足のスキアポデス族,頭を持たず,胴体に顔があるプレミエス族……。なんか澁澤龍彦『高丘親王航海記』 (文春文庫)を彷彿とさせる。

上巻では神聖ローマ皇帝,教皇,イタリア諸都市の対立,ビザンツ帝国内の帝位を巡る争いといった当時の政治状況の中でバウドリーノたちが活躍するという,わりとリアルな世界が描かれていたのに対し,下巻は完全にファンタジーの世界である。バウドリーノの語る東方への旅はまるっきりほら話ではないのか? だが,それはそれとして果してバウドリーノ一行は司教ヨハネの王国に到達できたのだろうか? バウドリーノの話し相手であるニケタス・コニアテスにとっても,本書の読者にとっても司教ヨハネの王国への到達は最大の関心事なのだが,ネタバレになるのでここでは省略。

本書にはもう一つ重要な謎がある。皇帝フリードリヒの死の謎である。これは上巻から続く謎である。

一般に知られるところでは,フリードリヒは溺死したことになっている。しかし,バウドリーノによれば,フリードリヒは実際には,小アジアの領主アルドズルニの城の,誰も近づくことができない一室で死んだという。病死か,事故死か,殺人か? 殺人だとすれば誰が犯人か? 物語の終盤,バウドリーノによってこの密室殺人事件(?)の真相が解き明かされる。これもネタバレになるのでここでは省略。ただし,大どんでん返しがあるということだけは述べておく。


◆   ◆   ◆


上下巻で900頁近い長編だが,著者の中世に関する該博な知識が散りばめられているため,読んでいて飽きない。

小生が気に入っているのは,ヒュパティア族の美しい女性(この部族は全員女性で,名前も全員,ヒュパティアである)とバウドリーノの間の会話。ヒュパティアはグノーシス主義を奉じているのだが,その発言内容は極めて簡潔なグノーシス主義の要約になっており,かつてグノーシス主義をちょっと勉強した者(参照)としては,とても楽しく読めた。

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この3冊:1969年

松岡正剛率いる編集工学研究所が「三冊屋」という企画をずっと前からやっている。本を三冊組み合わせることで新たな読書体験,新たなストーリー,新たな世界観が生まれるというわけである。

小生も真似してやってみようと思う。最近出た本を中心として。テーマは「1969年」


◆   ◆   ◆


今年の3月,岩波書店からこんな本が出た:

安彦良和×斉藤光政『原点 THE ORIGIN 戦争を描く,人間を描く』(岩波書店,2017年)

安彦良和が『ガンダム』,『アリオン』,『ナムジ』,『虹色のトロツキー』,『王道の狗』等々,SF,古代史,近現代史作品で描きたかったことは何だったのか。東奥日報記者の斉藤光政によるルポルタージュと安彦良和による自叙伝の組み合わせによって,この疑問に迫るというのが本書の主題。

安彦良和の軌跡をたどっていくと,弘前大学での闘争が思想形成に重要な影響を与えていることがわかる。

斉藤光政による前書きにはこの本が誕生するきっかけが紹介されている。2014年の暮れ,安彦良和のバイオグラフィーを書きたいという斉藤の申し出に対して安彦良和はこう答えた:

「二,三年前から弘前大学時代の仲間と話していることがあります。『あの時代』を総括しておかないか,ということです……」(本書,viiiページ)

今,あの時代についてまとめておかないと,という一種の焦燥感も感じられる。


◆   ◆   ◆


安彦良和は弘大闘争の中心人物だったわけだが(そのあたりのことは山本直樹『レッド Red』にも描かれている),全国に吹き荒れる学園紛争の嵐の中心となっていたのが,東大闘争である。その中心人物・山本義隆が著したのが,私の1960年代』(金曜日,2015年)である。

山本義隆はこれまでに教育者・科学史家として予備校の教科書や科学史の大著を上梓してきた。しかし,1960年代の東大闘争については沈黙を守ってきた。その山本義隆が,ついに口を開いた。

「はじめに」で山本義隆はこう語る:

「回顧談のようなものを公にする気にはこれまでなかなかなれなかったのですが,1960年の安保闘争から,ベトナム反戦闘争をまたいで,1970年の安保闘争まで,そして1962年の大学管理法闘争から1968・69年の東大闘争までの,その10年間の一人の学生の歩みと経験を活字にすることは,今の時代にあって,それなりに意味があるのではないかと,自分に言い聞かせて,承知しました。こうして出来上がったのが本書です。」

この時代だからこそ語りたい,という気持ちは先の『原点 THE ORIGIN』と同じである。


◆   ◆   ◆


最後はこれ。大学紛争の陰で忘れられかけている,「高校紛争」をまとめた一冊:

小林哲夫『高校紛争 1969-1970』(中公新書)

著者は教育ジャーナリスト。当時は高校も燃えていた。この本もまた,今(2012年に出版された本だが)まとめておかないと,関係者,とくに当時の高校の教職員が鬼籍に入ってしまうという焦燥感に駆られて取材が行われたという背景がある。

なお,当時,高校生だった押井守や坂本龍一や村上龍らの証言もチラッと出ます。

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2017.07.12

『サルまん2.0』出た,そして読んだ

うちの本棚には『サルでも描けるまんが教室』,略して『サルまん』の21世紀愛蔵版上下巻が鎮座している。今から11年前に買ったものだ。

この21世紀愛蔵版の出版に合わせ,著者たちが新たにチャレンジし始めたのが『サルまん』の続編,『サルまん2.0』であった。ブログ「たけくまメモ」や「サルまんブログ」を通じて企画内容,漫画内漫画「デスパッチン」の設定等が公表され,読者を巻き込んでのメディアミックス展開が期待されたのだが……連載は8回で中断,幻の作品と化した。

それが今頃になって(10年経過して)単行本化したのだから読まないわけにはいかない。

今,『2.0』を読んでみると,絵柄も話の運び方(途中にいろんな小ネタが挟まれる)も『サルまん』の頃とあまり変わらない。結局,『サルまん』こそがピーク,金字塔で,以後はこれを乗り越える作品を世に送り出すことができなかったのだと思う。

作者たちもこう述懐している:

「ああ,マンガとしてやれるネタは15年前の旧『サルまん』の時点でほぼやり尽くしていたのだなあ」(竹熊健太郎談,『サルまん2.0』,89頁)
「あんたら本当に『サルまん』を超えられると思ってたのっ!?」「『サルまん』は我々の全盛期に描いた作品だよ!!」(相原コージ談,『サルまん2.0』,92頁)


◆   ◆   ◆


時間の経過というのは残酷なもので,『サルまん』が大昔(バブル期)の作品となっているのは当然のこと,『サルまん2.0』もまた昔の作品と化している。作者たちも年を取った。読者も年を取った。

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2017.07.02

バウドリーノもイブン・ジュバイルもアッシジの聖フランチェスコも義経も同時代人

ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』の下巻を読んでいるところだが,今回はその内容について触れるのはお休みにして,バウドリーノがいた時代について考えてみたい。

上巻の内容でわかるように,バウドリーノは1142年生まれで,自分の半生を物語っているのは1204年のコンスタンティノープルでのこと。

登場人物である神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世ニケタス・コニアテスが同時代人だというのは当たり前のことだが,よくよく考えると,以前本ブログで紹介した(参照)バレンシア生まれの旅行家,イブン・ジュバイル(1145-1217)も同時代人である。バウドリーノはイブン・ジュバイルより3つ年上となる。

ちなみにイブン・ジュバイルはイスラムの英雄サラディンと十字軍勢力がエルサレムを巡って闘いを繰り広げている時代に,キリスト教徒であるジェノバ人の船で巡礼の旅に出て無事に帰ってきており,当時の人々が全て宗教戦争に関わっていたわけではないことがわかる。

ほかにどんな同時代人がいるのか調べてみたら,アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)も同じ時代の人だった。なお,アッシジの聖フランチェスコについてはニコス・カザンツァキの名著『アシジの貧者』があるので,読んでみて下さい。

ほかにもグルジアの黄金時代を築いた女王タマル(1160-1213)も同時代人。この人の場合,コンスタンティノープル陥落後にビザンツ帝国皇族によって建国されたトレビゾンド帝国に助力をしているわけで,本書『バウドリーノ』の内容と無関係とは言えない。


(↑タマルの娘,ルスダン女王のお話)

さて,わが国ではどうだったかというと,バウドリーノの時代は,平家が栄華を極め,そして滅亡していった時代である。清盛,義経,頼朝がバウドリーノの同時代人。

というように羅列したバウドリーノの同時代人に関する事跡を簡単にまとめた年表を下に示そう:

Baudolinotimelines

小生にとって興味のある人々の事跡をまとめてみたわけだが,実はこの時代にはこの表に出てきた人々をはるかに凌駕する人物がいる。それは・・・

世界帝国を創建した男,

チンギス・カン(1162-1227)

である。

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2017.06.30

『バウドリーノ』上巻読了

ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』(岩波文庫)の上巻では,バウドリーノが13歳から43歳までの30年間の事跡をニケタス・コニアテスに語っている。

イタリアの農民の子だったバウドリーノは,その機智を買われて神聖ローマ皇帝フリードリヒ(バルバロッサ)の養子となり,たびたび皇帝を窮地から救い出してきた(と,ほら吹きのバウドリーノは語っている)。

バウドリーノにとって生涯をかけるべき一大事業は,フリードリヒの権威を高めるため,東方にあるという伝説のキリスト教国「司教プレスター・ジョンの国」(司教ヨハネの王国)を探し求めることである。

その情報集めのため,バウドリーノと仲間たちが東ローマ(ビザンツ)帝国の都コンスタンティノープルに潜入したところ,東ローマ帝国を揺るがす政変に出くわした。

皇帝バシレウスアンドロニコスに追い詰められた,イサキオス・アンゲロスが破れかぶれのクーデターを起こし,ついにアンドロニコスを倒したのである。バウドリーノ一行が,アンドロニコスが惨い処刑のされ方をするのを目撃したところで上巻はおしまい。

さて,バウドリーノは司教ヨハネの王国にたどり着けるのだろうか?という期待と不安を胸に下巻に移る。

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