鈴木哲也『学術書を読む』(京都大学学術出版会)を読んだ。以下は老生なりのまとめである:
学術書というのはどういう本のことか?
「学術書」という言葉の意味についてだが,本書ではつぎのような広い定義をしている:
「学術的な問題意識を持って,学術的なトレーニングを受けた者が,学術的な認識・分析方法と作法をもって書いた本」(12ページ)
いわゆる専門書(『数値流体力学』とか『消費者行動論』とか)だけでなく,新書や文庫のような一般書も包摂した定義である。なんで広い定義をしているかと言うと,本書の目的の一つは,「専門外について学ぶことの大切さ」を伝えることだからである。
専門外の分野(A分野としよう)について学ぼうとすれば,まずはA分野の専門書を読むのではなく,A分野の全貌を体系的に記述した本を読んだ方が良い。
それはどんな本かと言うと,まっさきに挙げられるのが,A分野の学知史の本である。本書で挙げられている具体例は次のとおりである:
- サイモン・シン『宇宙創成』(新潮文庫)
- マンジット・クマール『量子革命』(新潮文庫)
- デイビッド・ボダニス『電気革命』(新潮文庫)
『宇宙創成』はビッグバン理論形成史,『量子革命』は量子力学形成史,『電気革命』は電気に関わる発明・発見史。いずれも新潮文庫だ。すごいな新潮文庫(ちなみに老生も昔,カオス理論について知りたいと思ってジェイムズ・グリック『カオス:新しい科学をつくる』(新潮文庫)を読んだものである)。
なお,理工系分野に関しては他の本も紹介されている:
人文科学分野に関しては次のような本が紹介されている:
人権という概念,あるいは世界史観がどのように構成されてきたのか,について書いてある本である。
これらの本をしっかり読むことで,専門外の分野で,どのような概念があり,どのような議論が行われているのかを窺い知ることができる。
なぜ,専門外について学ぶことが必要なのか?
さて,元に戻って,「なぜ,専門外のことを学ばなくてはいけないのか」という問題に触れる。
端的に答えを言えば,分野の違う人々が議論を行う場合,その議論の共通の基盤を見出すためである。
ある川にダムを作って発電をしようとする。多分,このダム開発に反対する人々も現れるだろう。
ダムを作る側は,水理学・土木工学等々建設技術のことだけ考えたり,電力の経済性について考えたりすることだろう。
一方でダム建設反対派は,自然環境,文化等々の破壊について主張するだろう。
多分,そのままでは両者の話はかみ合わない。
そこで必要になるのが議論の共通の基盤探しである。そのためには,お互いの専門分野に関する知識が必要になる。そこで学術書を読む必要が生じるわけである。
分かりやすさに注意
専門外の分野について知りたいと思っても,学術書(だいたい分厚い)を読むのは面倒である。
たいていの人は,「WikipediaやGoogle検索結果やAIのお言葉じゃダメなんですか?」と思うに違いない。
短く,分かりやすくまとめた文章をパパパッと読むだけではダメなのでしょうか?
はい,ダメなんです。
情報をいくら集めても知識としてまとまらないからである。
これをヘラクレイトスは
「博識はノオスを教えない」
と戒めたらしい(本書95ページ)。
「ノオス」とは「見識」のことだそうだ。
"νοῦς"と書く。「ヌース」とも「理性」とも言う。
文章の分かりにくいところとも格闘して読んでいかないと,知識として身につかないのである。
あと,分かりやすいところだけ大量に読んでも,確証バイアスというのがあるので要注意。
つまり自分が期待していること,自分が知っていること,自分が賛成する意見だけが強化されて,他の知見が頭に入ってこない。
おわりに
結局,老生が本書から学んだことは以下の通りである:
- 複雑でもめ事が多いこの世の中,いろいろな考え方の人々と付き合うためには,専門外のことも知ろう。
- 専門外のことを知るときには,安易な情報収集ではなく,体系立った知識を得よう。
- 体系立った知識を得るには,ゆっくりで良いから学術書(とくに学知史)をしっかり読もう。
実を言うとこの本の主張がわかったようで,まだわからない点があるので,ときどき読み返してみようと思う。