2017.12.10

千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読む(続)

だいぶ前に出た本である。ちょっと前にも紹介した(参考)が,もう一度,読書感想文を書いてみる。

著者は歴史地理学者。

著者は本書で「日本の神道を論じようとしたのではない。伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめようと試みた。」(217頁)

とはいえ,「アマテラスの誕生」に触れないわけにはいかない。第1章「アマテラスの旅路」第2章「中国思想と神宮」では,海洋民の信仰する太陽神が,道教(北極星信仰)と融合し,国家神へと昇格するプロセスが描かれている。

国家神アマテラスが伊勢に鎮座する理由については,東を聖とする思想と,大和と伊勢の位置関係をもとに論じているが,この説などは以前に紹介した西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書)で語られていた「伊勢・大和・出雲の関係性」を思い起こさせてとても興味深い。

「伊勢神宮にまつわる歴史的な文脈を東アジア世界の中でみつめよう」という本書の意図のため,国家神アマテラスの誕生に係る議論は,第1章・第2章に限られており,老生としては物足りない感じがする。

しかし,律令期にアマテラスが国家神として奉祀されたことが,その後,中世・近世・近現代の日本とアジアの関係に影響を与えてきたことを描出した第3章「神国の系譜」,第4章「近大の神宮」,第5章「植民地のアマテラス」は,それはそれで興味深い。

アマテラスに対する民間信仰なかりせば,明治以降の神道の(ほぼ)国教化というのはありえない。しかし,植民地政策の一環として台湾・朝鮮・満洲に神宮創祀が行われたのは,本来の信仰から逸脱していると言わざるを得ない。

戦後,国家と神道とが分離されたことは,伊勢神宮とアマテラス信仰に本来の姿を取り戻させることになったものと見ることができよう。そういう歴史的文脈を踏まえれば,戦後に折口信夫が

「神道にとって只今非常な幸福の時代に来てゐる」

と発言したのはよく理解できる。

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2017.12.03

ニコライ・A・バイコフ『牝虎<めとら>』を読む

ニコライ・A・バイコフ作(上脇進訳)『牝虎<めとら>』(中公文庫)を読んだ。

【あらすじ】

満洲・横道河子(フンダオフーズ,heng dao he zi)に住む<私>は,旧友でベテラン猟師のアキンジン・ステパーノヴィチ・バボーシンとともに海林(ハイリン,hai lin)渓谷の密林を旅する。目指すのはグリゴーリイ・ゾートフの山小屋だ。

バボーシンによれば,グリーシャ(グリゴーリイ)は先ごろ,ナスターシャという美しい娘と恋に陥ったのだそうだ。

バボーシンは,ナスターシャはややこしい女だから付き合わない方がいい,とグリーシャに警告したのだそうだが,果たして,グリーシャの小屋にたどり着いたとき,中にいたのはナスターシャだった。

なぜ,ナスターシャがややこしい女だと言われるのか? それは,彼女には親が決めた結婚相手がいるからである。彼女の実家・チュマコフ家では,ナスターシャを金持ちの材木商ロジノフに嫁がせようとたくらんでいた。しかし,ナスターシャは密林に住むグリーシャのもとに逃げ込んでしまったのである。チュマコフ家の連中が黙っている筈がない。

この後,物語は

  • チュマコフ家の男たちによるナスターシャの拉致
  • グリーシャによるナスターシャの奪還
  • 虎に襲われたグリーシャを救うナスターシャ
  • ジプシー女に心を奪われるグリーシャ
  • 再び虎に襲われたグリーシャの死
  • バボーシンに芽生えた,寡婦ナスターシャへの恋心
  • グリーシャの遺児とともに仔虎を育てるナスターシャ
  • ナスターシャから離れ,満洲の密林の中に消えるバボーシン

というように,息もつかせぬほど劇的に展開する。

台詞回しは古めかしいが,一気に読める面白い小説だ。

この小説のタイトル『牝虎<めとら>』が意味するのは,狩猟の対象であるアムール虎のことではない。美しく力強く,男たちを惹きつけて止まないナスターシャのことである。

ナスターシャがグリーシャの遺児とともに仔虎に母乳を与えるシーンは,衝撃的であると同時に聖母像のように美しく崇高でもある。


◆   ◆   ◆


物語自体も面白いが,原作者バイコフと訳者上脇進の関係も興味深い。

バイコフ(1872年,キエフ生まれ)は,いわゆる白系ロシア人で,満洲に住んでいた。満洲の密林とそこに住む動物たちを描いた作品で知られるが,特に『偉大なる王』はよく知られている。

上脇(1899年,鹿児島生まれ)は満洲・新京語学院に務めていた折,バイコフと交友を深めた。バイコフの作品をいくつか訳出しているが,そのうち,この『牝虎』は1943年に満洲日日新聞・大連日日新聞両紙に連載されたものである。

翻訳権は満洲日日新聞が所持していたが,第二次世界大戦終結とともに,同社は消滅。また,バイコフも終戦の翌年1946年3月15日にハルピンで発疹チフスのため死去した(と,本書の「はしがき」「あとがき」には記されている)。

これで,著作権者も翻訳権者もいなくなったわけで,「従って,翻訳,出版の権利が存するものとすれば,まず訳者より外に所有する者はない筈と思う」(『牝虎』278頁)と上脇は主張している。

ここまでは「ふーん。そんなものか」と思っていたわけだが,バイコフについて調べてみると,訳者の主張と違うことがわかってきた。

『牝虎』は1950年に万有社から刊行されたのだが,その際,上述の通り,上脇は1946年にバイコフが病死したものとしている。

ところが,バイコフは死んではいなかった。終戦直後,バイコフは中国を縦断し,香港にたどり着いていた。そしてそこから海を渡り,オーストラリアにたどり着いた。そして1958年3月6日にブリスベンで死去したわけである。墓は同地にある(参照)。

上脇は1962年に死去するが,死ぬまで,終戦翌年のバイコフの病死を信じて疑わなかったのだろうか?やはり,通信事情の悪い時代のこと,オーストラリアにバイコフが移り住んだことを知るすべはなかったのだろうか?

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2017.11.15

千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読む

インドネシア出張の帰路,千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』を読んでいた。

本ブログではこれまでにアマテラスにフォーカスした本として

の2書を紹介してきた。

前者・筑紫申真版『アマテラスの誕生』は「アマテラスはもともと男神(蛇神)だったのであり,太陽神そのもの(アマテル)→太陽神をまつる女(オオヒルメノムチ)→天皇家の祖先神(アマテラス)と変転していったのだ」という「アマテラスの神格三転説」を唱えており,非常に刺激的な本だった。地方神アマテラスが皇祖神に昇格する過程を「壬申の乱における神助」説と「持統女帝=アマテラスのモデル」説とを用いて明確に提示しているところが特徴的である。

後者・溝口睦子版『アマテラスの誕生』は「タカミムスヒ=太陽神」説や,天智・天武両朝における皇祖神の交代説,すなわち「外来神タカミムスヒから土着神アマテラスへの交代」説を唱えておりこれも刺激的な内容だった。しかしながら天武天皇がアマテラスを重視した理由についてはあいまいな記述で,この点では筑紫申真版に及ばない。

さて,今回読んだ,千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』は,アマテラスの原像を探ることから始まり,古代・中世・近世・近現代におけるアマテラスおよび伊勢神宮の位置づけの変遷について論じている。

上述の筑紫・溝口両氏が追ってきた「アマテラスの誕生」過程を扱っているのは本書第1章「アマテラスの旅路」と第2章「中国思想と神宮」である。

第1章「アマテラスの旅路」では,アマテラスの祖型がアマテル系神社に祀られている海洋民の神・ホアカリノミコトである可能性,そしてホアカリノミコトの起源は中国の江南の地にありそうだという可能性などが述べられている。

また,第2章「中国思想と神宮」では,古代の都と伊勢神宮との位置関係に道教の神仙思想の影響が見られること,アマテラスと西王母は「織女」というキーワードで結び付くことなど,アマテラスおよび伊勢神宮に道教の強い影響が見られることが述べられている。

これらの章で強調されているのは,アマテラスならびに伊勢神宮は東アジア世界で孤立した存在ではないということである。日本神話の源流を考えるときに,よく取り上げられるのが,朝鮮半島を経由した北方系神話,黒潮に乗って島伝いに到来した南方系神話であるが,中国大陸からの直接の影響も忘れてはならない。

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2017.11.13

時枝誠記(ときえだ・もとき)『国語学史』を読む

時枝誠記(ときえだ・もとき)の『国語学史』(岩波文庫)は言うまでもなく,国語の研究史の本である。だが,本題に入る前の序説が予想外に面白かった。

国語学とはこういうコトをする学問だ,というような天下り式の説明があるのではなく,国語研究者が持つべき認識と姿勢が述べられているからだ。

そもそも国語とは何か。これは国語研究者が常に考えなくてはならない究極の問題である。

本書では一応,「国語」の定義が示されている:

私は国語という名称を,日本語的性格を持った言語を意味するものと考えたい。(19頁)

そしてまた,誤った「国語」の定義や研究の方向についても注意を喚起している:

従来,しばしば国語を定義する場合に,国家の観念あるいは民族の観念をもって基礎づけようとした。そして,それがあたかも国語研究の正しい方向を示すものであるかのごとくいわれたことがあるが,それは誤りである。(21頁)

このように国語の定義が示されたからには,国語研究者はその定義の下で粛々と研究活動を展開すればよいのだろうか。

いや,そんなことはない。長くなるが重要な一節を引用しよう:

私は国語学の対象を規定するのに,国家や民族の観念を排除し,純粋に言語的特質に基づいて,国語,すなわち日本語的性格を持った言語であるとした。ところが,日本語的性格ということは国語学の究極において見出されるものであって,最初からこれが明らかにされているのならば,もはや国語研究の必要も消滅してしまうことになる。そこで,国語を他の何か明らかなもの,すなわち国家とか民族とかによって規定しようとする立場が現れてくるわけである。しかしながらこの立場は,あたかも「魚は水に住むものである」という定義に等しく,対象を外部的原理によって規定することであって,対象それ自体の持つ原理によるものではない。そこで必要な態度はともかくも対象として与えられた無規定な日本語を,それ自体の内に具有する原理,すなわち日本語的性格なるものを明らかにしつつ,対象を輪郭づけて行くことである。(25頁)

つまり国語研究者の仕事は国語の持つ日本語的性格とは何かということを明らかにする作業なのである。この研究作業において何が必要か時枝はこう述べている:

そこで必要なことは,最初に対象の本質をしっかり見通すことである。もちろん,この見通しは対象についての省察が進展すると同時に訂正せらるべき性質のものであるかも知れないが,その故にかかる見通しが不必要であるということは出来ない。国語学はむしろかかる対象の本質観の不断の改訂によって,次第にその目標に到達することが出来るのである。(28頁)

まず研究対象に対するイメージを描くこと。そして,研究を進めるにしたがって,そのイメージを修正し続けること。そうすることによって,研究対象を明らかにできるわけである。

結局のところ,国語学の任務とは何か。時枝はこう述べている:

国語学の任務は,国語の事実を適切に整理し,体系化するところにあるのではなくして,国語の発見ということが根本の任務であり,少なくともそれが他の科学的操作に先行するものでなければならないと思うのである。(29頁)

「国語の発見」,これこそが国語学の任務であるというのは実に名言で,他の学問分野でも通用しそうな言い回しである。

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2017.11.09

ラーベ『雀横丁年代記』を読む

海外出張の道中では訪問先の国と関係のない本を読むことが多い。そのことは前にプノンペンに滞在したときに記した(参考)。

今回のインドネシア出張でも例に漏れず,インドネシアと関係のない本を読んだ。その一冊がヴィルヘルム・ラーベ『雀横丁年代記』である。

これはラーベの処女作であり,同時に代表作となっている。シュトルムと言えば『みづうみ (Immensee)』,ラーベと言えば『雀横丁年代記』というわけである。

西岸良平『三丁目の夕日』を横丁モノと分類するならば,この『雀横丁年代記』もまた横丁モノである。
アマゾンの書評を見ると,この『雀横丁年代記』に対して「リアリズムと言いながら,牧歌的」という批評もあるが,詩的リアリズムであると考えれば,リアリズムと牧歌との間に齟齬はない。

ベルリンの片隅,雀横丁(Die Sperlingsgasse)に住む貧しい人々の悲哀を日記体で描いた小説である。全部で21日分の日記で構成されており,1954年11月15日の記事から始まり,翌年5月1日の記事で終わる。

雀横丁に長年住んでいる一人の老人,ヨハネス・ヴァッハホルダー(Johannes Wacholder,本書ではヴァッハホルデル)がこの小説の書き手であり語り手となっている。

日記の記事にはその日の雀横丁の出来事だけが記されているのではない。むしろ,語り手ヴァッハホルダーの追憶,さらに追憶の中の人々による追憶の方が多くを占め,複雑な構成となっている。つまりは複数の時間軸が絡まり合う作品である。

例えば,2月28日。ヴァッハホルダーはその日降り続いている雨のことを描写している。そしてやがて,友人ヴィンメル学士から送られた昔の手紙を取り出し,過ぎた日々のことを思い出す。そのうちに,意識は現代に戻り,ヴァッハホルダーは2月28日の雨の中,彼のもとを訪れた漫画家シュトローベル(Strobel)と会話し始めるのだった――という具合である。

同じ日の午後11時,日記には雀横丁で起きた悲劇が描写される。雀横丁に住むある踊り子の一人息子が病に侵され,死を迎えようとしているのだ。ヴァッハホルダーはつい先日,クリスマスの市にシュトローベルや踊り子親子と一緒に出掛けたばかりである。死を迎えようとしてる男の子の傍には,ヴァッハホルダーの他,家主の妻・アンナや医師エアハルトがいるだけである。踊り子は息子の命の炎が消えようとする中でも,生活の糧を稼ぐために劇場で踊らなくてはならないのだ――。

このように様々なストーリーラインが交錯する中,もっとも重要なストーリーが展開される。それは,ヴァッハホルダーが養育した美しい女性,エリーゼ・ヨハンナ・ラルフの成長記である。


◆   ◆   ◆


エリーゼはヴァッハホルダーの初恋の人・マリーと,ヴァッハホルダーの親友にして画家のフランツ・ラルフの間に生まれた娘である。ラルフ一家は,ヴァッハホルダーの家の向かいに住んでいたのだが,ある日突然マリーが死ぬ。夫フランツも心労によって衰弱,程なくして死去。天涯孤独となったエリーゼはヴァッハホルダーに引き取られることになる。

エリーゼはヴァッハホルダーの下で,横丁の太陽の如く明るく美しく育つ。やがて,同じく雀横丁に住んでいる幼馴染グスタフ・ベルクと恋に落ち,結婚する。エリーゼ,グスタフともに,生前からの奇縁で結ばれているのだが,ここではその説明を省略。

雀横丁年代記最終章,5月1日の記事の中では,エリーゼとグスタフの結婚式,二人のイタリアでの新生活,そして二人が幸福に暮らしていることに対するヴァッハホルダーの喜びが記されている。

雀横丁で起きてきた幾多の悲喜劇を見続けたヴァッハホルダーは最後にこう記して年代記を閉じる:

さらば,健在なれ,昼となく夜となく,我が愛する諸君よ。さらば,汝,夢見る偉大な祖国よ。さらば,汝,小さき狭き横丁よ。さらば汝,永遠の愛と呼ばるる,偉大な創造の力よ。――アーメン。これをもって,雀横丁年代記の終わりとする。

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2017.10.31

梅棹忠夫『東南アジア紀行』と松本信広『メコン紀行』

先日,神田神保町で松本信広編『メコン紀行』を購入したわけだが,松本信広率いる「東南アジア稲作民俗文化綜合調査団」がベトナム,カンボジア,ラオス,タイを巡ったのは1957年8月から翌1958年4月のことだった。

ここでふと思い出すのが,ほぼ同じころに梅棹忠夫率いる「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」がインドシナ諸国を巡ったことである。梅棹忠夫らは1957年11月から翌1958年3月にかけてインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。

その時の記録が,『東南アジア紀行』であるということはすでに過去記事に書いた(参照)。

ほぼ同じ頃にインドシナ諸国を回っていたのにもかかわらず,両者の軌跡が重なることがないのは不思議な感じがする。

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2017.10.30

佐藤洋一郎『稲と米の民族誌』を読む

アジア各地に稲作は広がっているが、稲作文化は一つではない。品種も栽培方法も調理法も多様である。その多様な稲作文化を紹介しているのが本書『稲と米の民族誌』である。

著者は農学者。遺伝学の立場から稲の起源を求めて30年に渡ってアジア各地を調査してきた。

本書では各地の稲作・米食文化の紹介に多くの紙数を割きつつ,時折,著者の専門である,稲の起源を巡る論争にも触れる,という形で話が進んでいく。

いま,稲作・米食文化と言ったが、本書では「稲作景観」という言葉を用いて,稲作・米食文化を自然環境と併せて表現している。ここで「景観」とは「人間やその社会とその周囲を取り巻く自然を含む一体的な関係」のことである。

本書では,ブータン、シッキム、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、中国といった地域の稲作景観が紹介されている。老生の仕事先が多くカバーされているので、とても嬉しい。例えば,ラオスではもち米のおこわ「カオ・ニャオ」がとても美味しいのだが,「もち米の国,ラオス」のところでそれが紹介されている。該当部分を読むと,カオ・ニャオの味や触感が蘇ってくるのを感じる。


◆   ◆   ◆


稲作と言っても,ジャポニカかインディカか,うるち米かもち米か,田植えをするか直播でいくか,畦に豆を植えるかどうか,等々,いろいろなパターンがある。

また,米食も,うるち米のご飯を炊いたり蒸したり,もち米をモチにしたりおこわにしたり,また,米を粉にしてライスペーパーを作ったり麺を作ったり,というようにバラエティに富んでいる。米粉の活用,ということではベトナムは群を抜いている。

米は酒造りにも使われる。ラオスでは「ラオラオ」,タイでは「メコン」というもち米由来の強い酒が造られる。

もち米は甘いスナック菓子を作るのにも用いられる。竹筒にもち米を入れ,緑豆,ココナッツミルクを加えて焼く「カオラム」がそれである。老生もラオスで食べたものである。

ということで,本書では多様で楽しい稲作・米食文化が紹介されている。


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以前,「日本の農耕文化の起源:ニジェール河畔からのはるかな旅」という記事で紹介した中尾佐助は,佐々木高明と共に「照葉樹林文化論」を展開した。佐々木高明によれば,ブータンもまた照葉樹林文化の地域に含まれる。しかし,本書によれば,ブータンでは照葉樹林文化の重要な指標である,焼畑もモチ食も見られないとのことである。本書の記述は控えめであったが,ブータンを照葉樹林文化圏に含めるのは結構難しいように老生は思った。


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稲の起源についても触れておこう。

かつては「アッサム―雲南地方」が稲作の起源地とされていた。ジャポニカとインディカという2大グループの共通起源がこの地域にあったという。先ほどの「照葉樹林文化論」と合わせて,この説は一世を風靡した。

しかしながら,その後の考古学や遺伝学の研究の蓄積により,ジャポニカは長江流域で生まれ,インディカはその後で熱帯のどこかで生まれた,という二元説が有力となった。この二元説の前半部分は「ジャポニカ長江起源説参照)」と呼ばれ,本書の著者もその立場に立っている(その後,バイオインフォマティクスの発達によって,異説が登場。稲作起源論争は今もなお継続中とのこと)。

著者が「アッサム―雲南地方」起源説に与しないのは,同地方に近い地域での調査経験も踏まえてのことだろう。著者は上述したブータンの他,シッキムにも足を運んだ。この時,現地の稲作景観をつぶさに見て,稲作・米食文化の歴史の浅さを感じ取っている。「研究者が感覚に頼ってものをいうのは控えるべき」と断りつつも,体験によって著者は意を強くしたようである。

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2017.10.28

『物類称呼』:「こま」とは猫の呼称

物類称呼』で発見したことなのだが,「こま」とは猫の別称らしい。

「飼猫を東国にて とら と云。こま といひ 又 かな と名づく。 <中略> 和名 ねこま 下略して ねこ といふ 又 こま とは ねこまの上略なり」(『物類称呼』岩波文庫,33頁)

つまり,猫は「ねこま」と称され,それが省略されて「こま」と呼ぶことがある,というわけである。

我が家のお猫様は「おこま」,すなわち「こま」という名である。つまり,老生らは猫を猫と名付けたということか。

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↑我が家のおこま嬢ご近影

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『物語 カタルーニャの歴史』再読

カタルーニャが独立すると息巻く一方,スペイン中央政府が直接統治するぞとカウンターパンチを繰り出し,えらい混乱になっている。

"Spain imposes direct rule after Catalonia votes to declare independence" (the guardian, Oct. 27, 2017)

かつて田澤耕『物語 カタルーニャの歴史―知られざる地中海帝国の興亡』(中公新書)を読んだことがある老生としてはカタルーニャ独立派に同情的である。

古くは地中海に覇を唱えたカタルーニャ・アラゴン連合王国の輝かしい歴史,近代に入ってはスペイン内戦,そして独裁者フランコ総統によるカタルーニャに対する苛烈な弾圧の歴史,これらを知ると,カタルーニャ独立派の主張はむべなるかな,と思う。

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2017.10.27

『物類称呼』:難読地名「特牛」を「こっとい」と読むことについて

神田神保町で買った『物類称呼』をパラパラ見ていると面白い記述がある。

牛の呼称に関してこのような記述がある:

「牛 うし〇特牛<をうし>を畿内及び中国四国ともに こつとい と云 東国には こてといふ」(『物類称呼』岩波文庫,32ページ)

山口県下関豊北町には「特牛<こっとい>」という地名があり,難読地名でもトップクラスとなっている。なぜ,特牛を「こっとい」と読むのか,理由はともかく,両者の関連を『物類称呼』は示しているのである。

まず,牡牛のことを「特牛」と書く。そして,西日本では牡牛を「こっとい」という。だから「特牛」は「こっとい」なのである。

江戸時代に編纂された,この『物類称呼』には記されていないが,じつは古語では重荷を負うことのできる強健な牡牛のことを,「特牛」と書き,「こというし」と言っていた。万葉集にも梁塵秘抄にも出てくる言葉である。万葉集では「こというしの」は「三宅」にかかる枕詞でもある。

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