2021.08.18

アフガニスタンからネパール人救出中

昨日の記事の続報。

アフガニスタンには少なくとも1500人のネパール人がいて,大使館やNGOなどの警備員の仕事をしていた。

タリバンが政権を掌握し,同国が混乱の極みにある中,ネパール政府はネパール人たちを救出すべく奮闘している。

The Himalayan Timesによると,17日(火),2便に分けて計205名のネパール人たちがアフガニスタンを離れ,カトマンズに到着したということである:

72 more Nepalis rescued from Afghanistan arrive home (Aug 18, 2021, The Himalayan Times)

救出には米英軍が関わったとのこと。

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2021.08.16

カブール落つ

「カーブル」と書きたいところだが,慣例に従って「カブール」と書く。

終戦の日ということで,日本映画専門チャンネルで『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を観ていたところ,アフガニスタン情勢が急変していた。

この映画を観る前にはガニ大統領がタジキスタンに向けて脱出した(後に「ウズベキスタンに逃げた」との報道あり),というガーディアンやアルジャジーラの報道があったのだが,観終わったときには空港での銃撃戦が始まったとの報道があった。アフガニスタンの首都カブールは事実上陥落したといっていいだろう。

15日には日本の外務省が在アフガニスタン日本国大使館職員の退去を決めたところなのだが,唯一の脱出路とも言うべき空港の状況を考えると,退去が可能なのかどうなのか怪しいところである。

老生は,数年前にアフガニスタンからの留学生(公務員)に統計学を教えたりしていたのだが,彼らは今,カブールにいると思われる。タリバンが政府職員をどのように扱うのか,これも懸念されるところである。一応,タリバンは声明の中で恩赦を与えると言っているのだが。

 

タリバンが驚異的なスピードでアフガニスタン全土を掌握していった理由として米軍の撤退が挙げられるわけだが,むしろ20年かけてもちゃんと機能する政府と軍隊が育たなかったということが根本的な理由であると思う。

腐敗政治と士気の低い軍隊。タリバンに対抗することは無理だろう。

西欧をモデルとした民主主義国家建設が不可能であることは,今から約20年前にある論文が指摘していた。:

マリナ・オッタウェイ,アナトール・リーヴェン(カーネギー国際平和財団 上級研究員)「アフガニスタン 国家再建の幻想と現実」(笹川平和財団)

必要なのは西欧型民主主義国家の建設ではなく,農業ができて安心して暮らせる環境の整備であると。これは故中村哲医師の言っていたこと(2001年10月)と同じ。

米軍撤退後,タリバンとコネクションを構築しているという中国が台頭するという話もある。しかし,英国,ソ連,米国,というようにこの地で辛酸をなめてきた大国の列にあらたな国が加わるだけである可能性は高い。

タリバンの統治方針については,日本エネルギー経済研究所 中東研究センターが声明文の日本語訳を連続ツイートしているので参考になる:

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2021.02.10

デモクラシーの正統性と社会経済システムの正統性

デモクラシーは過去何度も危機に晒されてきたが、ここ数年間もデモクラシーにとって危機の時代なのだろうと思う。

ということで、フアン・リンスの『民主体制の崩壊: 危機・崩壊・再均衡』とオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を読んでいる。どちらもスペイン系。

前者は読むのがかなりしんどい本だ。ダールとかバリントン・ムーアの方が読みやすかったと思う。だが、フアン・リンスから学ぶところは多い。

フアン・リンスから学んだことの一つに、デモクラシーの正統性と社会経済システムの正統性とを分けて考える、ということがある。

デモクラシーの下にいる人々が「デモクラシーにはそれ自体としての価値がある」と思うか、あるいは「デモクラシーは特定の目的に奉仕する道具に過ぎない」と思うかによって、デモクラシーの安定性に差が生じる。

例えばいま、社会経済システムに問題が生じているとしよう。例えば、コロナ禍によって経済が打撃を受け、生活苦に見舞われている人々が増えているものの、通常の市場メカニズムや行政機関の活動では対応できていないというようなことだ。

人々がデモクラシー自体の価値・正統性を認める場合には、デモクラシーの枠組みの中で社会経済システムの改善が図られるだろう。これに対して、人々がデモクラシーを道具に過ぎないと思う場合には、デモクラシーを打倒して、別の体制の下で社会経済システムの改善を図ることになるだろう。

フアン・リンスはこう言う:

「社会的秩序の不公正に非常に憤っている政治的アクターが、しばしばデモクラシーの安定をすすんで脅かそうとするのは偶然ではない。彼らにとって、デモクラシーは社会変革より価値が低いからである。」(『民主体制の崩壊』42ページ)

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2020.06.08

奴隷商人にして篤志家の銅像をブリストル港にポイ捨て

"Black Lives Matter"運動が波及して,とうとうイギリスでは奴隷商人エドワード・コルストンの銅像がブリストル湾にポイ捨てされることに。

BLM protesters topple statue of Bristol slave trader Edward Colston (The Guardian, June 7, 2020)

なんで奴隷商人の銅像がブリストルに立っているのかと言うと,この人は篤志家だったからである。奴隷貿易で得た資産を使ってロンドンや地元ブリストルで慈善活動を展開した。ブリストルのあちこちの施設にその名が残されている。

かの銅像は1895年に建てられたもので,まあ歴史的価値があるといえばあるものだが,こういう顛末になりました。

コルストンはコルストン・バンという甘いパンにも名を残しているのだが,この名前も変更になるのだろうか?

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2020.04.09

OECDの予測値がえらいことに|Japan hardest hit!

COVID-19のせいで世界経済が打撃を受けるのは間違いないが、OECDの予測では日本が最も酷いことになりそうである。

で、その根拠資料を知りたいのだが…

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2019.12.04

この人こそノーベル平和賞に,と思っていたのだが

アフガニスタン・ジャラーラーバードでペシャワール会の中村医師が銃撃されて亡くなってしまった。

アルジャジーラが詳しく報道している:

"Afghanistan: Deadly attack on medical aid team in Jalalabad" (Al Jazeera)

 

そして,カブール(カーブル)のジャーナリストのツイート:

 

この人こそノーベル平和賞に,と思っていたのだが。

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2019.09.16

中国の近代化

バリントン・ムーア『独裁と民主政治の社会的起源』の第4章「中国帝国の衰退と共産主義型近代化の起源」読了。

中国の場合,英米仏とは異なり,資本主義と議会制民主主義への道ではなく,共産主義に至る道を辿った。

中国清朝における支配階級は科挙によって選ばれた読書人=官僚と紳士たる地主階級だった。両者はしばしばクラン(同族)を通して結びついていた。つまり,ある地主は自分の子供,あるいは自分の所属するクランの優秀な子供に手厚い教育を施し,科挙制度を通じて,官界に送り込んだ。官僚になり,立身出世を遂げた者は,その富によって同じクランに属する人々を養うほか,土地を購入し,官僚を辞したのち,新たな地主となってクランの繁栄を支えた。

科挙制度と収賄の黙認という,帝制の公式および非公式の制度は読書人=官僚&地主たちの繁栄を支えた。読書人=官僚&地主は賄賂や地代を得る一方で,帝国の財政基盤強化には貢献しなかった。

清帝国には莫大な人口があり,低廉な労働力が容易に手に入る状況だった。このため,地主たちに農業の近代化・商業化の気運はついに生まれなかった。

1860年代から,西欧諸国の影響により,沿岸都市部では商工業が発達したが,それは地方の有力紳士の庇護のもとでの発達だった。つまり,商工業は地方の有力者の権力を支えるためのものであり,帝国の統一要因としてよりは分裂要因として作用した。

清朝末期,帝国政府は国内の反乱鎮圧と諸外国からの脅威への対抗のため,歳入の増加を必要としていたが,それは読書人=官僚&地主の特権を奪うことになりかねず,結局は失敗した。西太后ですら強力な中央集権体制を確立することができなかった。ついに清帝国は崩壊した。

清帝国崩壊後,分裂の時代が始まる。沿岸大都市の商工業の担い手であるブルジョアジー,そして地主たちは各地の軍閥,あるいは国民党との結びつきを強めた。大都市周辺では商工業の発展が次第に農村に影響を与えた。すなわち,貧富の差の拡大,不在地主制度の拡大,自作農の減少が進んだ。

地主と農民との間に紐帯は極めて弱く,地主は農民から搾取するのみであった。困窮した農民の中には匪賊に転じるものもあった。

農村の社会改革に関して国民党は掛け声のみで実質的には何もしなかった。農民を搾取から救い,地主の収入を減らすような政策を国民党は取ることができなかった。

国民党は内戦や海外からの侵略など,中国が直面する数々の困難を乗り越えるためには国民の団結を強めることが重要だと考えていた。蒋介石は中国の国民をばらばらの砂(散砂)とみなした。これを強固な塊にするための努力は国民の道徳・心理の改革――というよりも伝統回帰的な政治教育――に終始し,農村における問題解決のような社会経済改革には着手しなかった。

地主と農民との紐帯は弱かったが,農民同士の紐帯もまた弱かった。農民が帰属意識をもつのはやはりクラン(同族)だった。ただし,それも農民が土地を所有し,同じクランの仲間同士支え合っている限りのことであって,ひとたび土地を失えば,その農民は農村社会からもクランからも離脱し,匪賊や軍閥の兵士となった。

ばらばらの農民たちに団結を促した原因の一つは,日本の侵略であった。日本軍は国民党の支持層である地主たちを除去するとともに,共産党の指導の下で農民たちが抗日活動を行い,団結を強める機会を与えた。共産党は「貧農や中国社会で最も抑圧されていた集団である女性の間にまで,新しい組織を創った。」(342頁)

というわけで,帝制に対決したり,農業の商業化に踏み出したりする地主層が存在しなかった中国においては,資本主義と議会制民主主義は発達せず,農民に新たな紐帯を与えることに成功した共産主義が凱歌を奏した。

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2019.08.28

私の知らなかった南北戦争

バリントン・ムーア『独裁と民主政治の社会的起源』の第3章「アメリカ南北戦争 最後の資本主義革命」読了。

南北戦争の原因には諸説ある。経済的な対立に原因を求める説があるが,北部の産業資本主義と南部のプランテーション経済との間には致命的な摩擦があったとは言い難いとムーアは言う。

では奴隷制に対する道徳的な対立に原因を求めるのはどうか? 実はネヴィンズによる1859年選挙の分析結果によれば,「全国民の少なくとも3/4が,奴隷制に賛成であれ反対であれ,過激な考え方に反対していた」(198頁)という。つまり多くの人々は,奴隷制についての対立の激化を避けようとしていたわけである。したがって奴隷制についての対立が南北戦争の原因であるとするには無理が生じる。

ムーアが示すのは次のような経緯である:

  • 19世紀,アメリカの社会構造は3つの方向に発展した
    • 北部:産業資本主義
    • 南部:プランテーション奴隷制を基礎とする農業社会
    • 西部:開拓者たちの家族労働農業
  • これらのうち,北部と西部が結びつき,南部との間で価値観の衝突が生じた
  • 北部(+西部)と南部の価値観の衝突のうち,最大のものが奴隷制だった

とするとやはり奴隷制についての対立が南北戦争の原因ではないかと思うだろうが,先ほど述べたように,多くの人々は奴隷制についての対立をあおるようなことは避けていたわけである。価値観の衝突があったとしても,南北両社会が併存し共存することは可能だった。

だが,それは南北両社会が均衡を保っている限りの話だった。ムーアの説明はもう少し続く。

  • 新しく誕生した州を合衆国に編入するときに問題が生じる
  • その新しい州を自由州とするか奴隷州とするか,それによって南北の均衡が崩れる恐れがある
  • 南北双方の政治家は「相手が有利になるような動きや手段に,ますます敏感にならざるを得なかった」(218頁)

西部にはまだまだ多くの土地があり,それらが南北のどちらに転ぶかわからないという状況下においては,南北双方の政治家の言動が対立を激化させ,内戦へと至らしめる可能性があるわけである。

議会において穏健派が多数を占める間は奴隷制度問題は棚上げされ,内戦には至らない。しかし,奴隷制廃止にせよ維持にせよ教条主義者が力を持ち始めると,内戦への流れを止めることは難しい。

ムーアはこう書いている:

「大雑把に言えば,デモクラシーが機能するためには,多数の人が持っているありふれた美点――自ら進んで妥協し,対立する側の観点を理解するような実用主義的(プラグマティック)なものの考え方――を備えた穏健派が必要である」(220頁)

これは,先日紹介したカール・シュミットが議会制民主主義について言っていたことと同じことを言っている:

「討論には,前提としての共通の確信,よろこんで自ら説得される覚悟,党派の拘束からの独立,利己的な利害にとらわれないこと,が必要である。」(カール・シュミット『議会主義と現代の大衆民主主義との対立(1926年)』)

ということは南北戦争の直接の原因は「デモクラシーの機能不全」ということに落ち着くのではないだろうか。もちろん,根本原因として社会構造の違いということがあるわけだが。

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2019.08.23

イギリスの資本主義とデモクラシー

バリントン・ムーアは『独裁と民主政治の社会的起源』3つの近代化ルートを示している。

  • (A) 資本主義とデモクラシーに向かうルート
  • (B) 上からの保守的革命によりファシズムに向かうルート
  • (C) 農民革命を経て共産主義に向かうルート

このうち,(A)資本主義&デモクラシーに向かうための条件としてムーアは次の2つを示している:

  • (A1) 権力の均衡(国王と地主の力の均衡)
  • (A2) 農業の商業営利化による農民問題の消滅(農民層が変容)

(A1), (A2)が成立するためには「暴力」が重要な役割を果たしている。

イギリスの場合は清教徒革命が(A1)に,囲い込み運動が(A2)に作用している。

イギリスでは,地主上層階級(ジェントリ)と都市ブルジョワジーとの利害が一致(16世紀から17世紀にかけてジェントリが企業家になり,都市の商工業者と結びついた)。議会を拠点として国王の官僚制度に対抗し,清教徒革命を経て議会を強化し王権を制限することに成功した。

また,商業的農産物(例えば羊毛)の生産性向上のため,地主上層階級による囲い込み運動が行われ,小規模な農民は没落した。

これらの「暴力」の原因は商工業の発達である。商工業の波,つまり資本主義の波に乗った者たちが議会を通じて政治の主導権を握り,波に乗れなかった者たちが旧体制の破壊に貢献した。

ムーアはこう記す:

「イングランド社会はこのように商業と一部の製造業から衝撃を受けて上から下へと解体していき,この解体は同じ衝撃の力が生み出した急進的な不満分子が時折華々しく爆発するのを許すような形をとった。」(『独裁と民主政治の社会的起源』41頁)

「この過程においては,旧秩序が崩壊するにつれて,長期的な経済傾向ゆえに敗北していった部分が登場し,旧体制(アンシャン・レジーム)を打ち壊す暴力的な「汚れた仕事(ダーティ・ワーク)」のほとんどを行って,一連の新しい制度のために途を切り開く。」(同)

では,フランスはどうなのかと言うと,少しややこしい。その話はまた次回。

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2019.08.14

バリントン・ムーア『独裁と民主政治の社会的起源』を読む

バリントン・ムーア『独裁と民主政治の社会的起源(上): 近代世界形成過程における領主と農民』(岩波文庫)を読んでいる。

民主主義の一つの究極の形としてカエサル主義つまり独裁制がある,という考え方が存在するのはとりえあず脇に置いておく。

ここで,ムーアが考えているのは議会制民主主義であり,おそらくはダールの言うポリアーキーであろう。

そういう意味での民主主義が,なぜある国では成立し,別の国では成立しなかったのか。その理由を各国の社会経済構造の違いから説明しようとしたのが本書である。

歴史社会学の比較近代化研究という学問分野における名著として知られている。

原著は1966年に出た。半世紀以上経った今になって読む必要があるのか,という人もいるだろう。実際,ソ連が崩壊し冷戦が終わったころには,本書の役割が終わったとする意見もあったようである。

ところが,ゼロ年代後半から世界的に民主主義のリセッションが始まったという説がある。もし,今,民主主義が危機に瀕しているのであれば,本書を読み直すことには極めて強い意義がある。

(同じ意味で,カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』を読むこと(参照)にも,また全く異なる価値観・生き方を指し示すイスラームを学ぶことにも意義がある。)

 

◆   ◆   ◆

 

教科書的世界史観では,資本主義と民主主義の担い手をブルジョアジーとする。

しかし,本書では地主上層諸階級と農村とが近代化プロセスの主人公である。かれら農村集団の行動が,議会制民主主義ルートもしくは左右独裁政治(共産主義とファシズム)ルートの選択に影響を及ぼしたとしている。

つまり民主化の成否を決めたのは農村集団の動向だったということを,イギリス・フランス・アメリカ・中国・日本・インドの比較によって示しているのが本書の特徴である。

だから本書の副題は「近代世界形成過程における領主と農民」なのである。

まず,イギリスの近代化プロセスについて要約を書きたいと思ったのだが,長くなるので次回に。

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