外に出られないのなら|「カルカソンヌ」
コロナ禍。
外に出るのは厄介なことになるので,家の中でゲームをするわけである。
「すごろくや」から新たに入手したのが,これ,「カルカソンヌ」である:
交代で地形が描かれたタイルを引き,ミープル(手下ゴマ)を配置して得点を稼ぐというゲームである。
2001年にドイツゲーム大賞を受賞しただけあって,面白い。
日本語版独自のタイル(↑)が入っていて面白い。金閣寺とか五稜郭とか。
「修道院」タイルと入れ替えて,オプションの「観光」ルールで使用する。
コロナ禍。
外に出るのは厄介なことになるので,家の中でゲームをするわけである。
「すごろくや」から新たに入手したのが,これ,「カルカソンヌ」である:
交代で地形が描かれたタイルを引き,ミープル(手下ゴマ)を配置して得点を稼ぐというゲームである。
2001年にドイツゲーム大賞を受賞しただけあって,面白い。
日本語版独自のタイル(↑)が入っていて面白い。金閣寺とか五稜郭とか。
「修道院」タイルと入れ替えて,オプションの「観光」ルールで使用する。
とうとう戒厳令緊急事態宣言発令である。うちの周辺はいつもと変わりないけど。
外に出られないのなら,やはりボードゲームをして過ごすと良い。
というわけで先日紹介した「ねことねずみの大レース」に加えて拙宅で遊んでいるのがこれ、ミニマル麻雀「すずめ雀」である。
索子と發と中しかないのに、なかなか面白い。白熱する。赤牌の使い方が重要だと思う。
週末の外出が禁じられている首都圏の人たちは家でボードゲームをすると良いと思います。
ということで,拙宅では「すごろくや」の通販で買った戦略的(?)すごろく「ねことねずみの大レース (VIVA TOPO!)」をプレーしております。子供向けだが結構白熱する。
Manfred Ludwig氏(1936年,ミュンヘン生まれ)の作品。2003年のドイツ・キッズゲームオブザイヤー批評家賞(Kinderspiel des Jahres 2003, Kritikerpreis)受賞作。
(↑ねことねずみの駒やチーズの駒が可愛くて良い)
さいころの出目に従って,色分けされた4~5匹のねずみたちを前進させていく。
遠くに行くほど大きなチーズ(得点)を獲得できるのだが,後ろから猫が迫ってくる。猫に捕まったらおしまい。
早めにリタイアして小さいチーズで満足するか,リスク承知で大きなチーズを狙うか?
それが問題だ!
先月,神田神保町の「すごろくや」で購入したのがこれ,「さかな,さざなみ,さようなら」である。
一人用カードゲーム。
ルールに従って,30枚の札をすべて解放し,彼岸へと送り出すというもの。煩悩のカードはおろか,悟りや徳のカードまで手放すという,深いゲームである。
英語名も
"Fish Farewell, Forever"
と凝っている。
最初はなかなか成功しないが,繰り返すうちにコツがつかめてくる。これも悟りに至る修行のようなもの。
ミニチュアゲームというのはウォーシミュレーションゲームの一種で,兵士や兵器や建築物の模型を使ったゲームである。
"Marauder Moments"
というナポレオニックなミニチュアゲームのサイトがあるのだが,めっちゃ楽しそう。
ウォーシミュレーションゲームの多くは簡単にパソコンに移植できるけど,ミニチュアという質感重視の駒を使ったこれらのゲームは,アナログの世界だからこその楽しさがあるんでしょうね。
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心行くまで痛飲してしばらくたってから,父は近くにあった<アヨ>の盤を自分たちのまえに引きよせた。かれらは大きな声で冗談をいったりして,アヨのゲームに興じ始めた。(エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』,16~17ページ)
薬草まじない (岩波文庫) エイモス・チュツオーラ 土屋 哲 岩波書店 2015-09-17 売り上げランキング : 22264 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
アヨというのはヨルバ族の中での呼び名で,アフリカ・中近東・東南アジア・カリブ海に広く存在し,"mancala"と総称されているボードゲームの一種である。ワリという呼び名もある。
起源はとても古く,紀元15世紀,古代エジプトでプレーされていた痕跡があるという。
同じ盤を使うものの,ルールのバリエーションは広く,100以上あるとか。
フリーのソフトも配布されているが,小生はDavid Grogonoというプログラマーが作ったWaurie(ワリ)で遊んでいる:
"Waurie"
このワリはケイマン諸島でのルールらしい。自分側のピット(穴)をすべて空にすると勝ち。コンピュータが頭が良く,なかなか勝てない。
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"Victoria Revolutions"を久々にプレーした。19世紀から20世紀にかけての世界を舞台とした、国家間競争がテーマのゲームである。
小生が選択したのは中国(大清帝国->中華帝国)。いきなりアヘン戦争(小生は第1次中英戦争と名付けている)という苦難に見舞われるが、あらかじめ大軍を準備しておいたので、その難局を乗り越え、史実のような半植民地化を防ぐことができた。
そのあとはイギリス・フランスを相手に戦い続け、領土を拡大した。その一方で、文明国になって以降は工業化を推し進め、史実よりも半世紀以上早く、「世界の工場」となり、勝利を収めたのであった。
以下は年表風に書いたゲームの推移。
大清帝国時代(清朝末期)
これ以降、軍事力を増強するのみならず、可能な限り工場を建設・増設し、鉄道を敷き、RGOを拡大し、生産力の向上に努めることとなった
中華帝国時代(袁世凱による独裁体制)
最終結果
国威や軍事力はイギリスに及ばないが、工業力は世界一。わが中華帝国は世界一の国となった。
なお、本記事のタイトル「中華雄立宇宙間」は史実の中華帝国の国家である。
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安定と充実の15年:黄金期の始まり(1910年10月~1926年2月)
政権:自由会衆党(~1911年11月)、アルマナ・バルマンズ組合(1911年11月~1916年8月)、自由会衆党(1916年8月~1921年5月)、ボンデ組合(1921年5月~1926年2月)、自由会衆党(1926年2月~)
1910年の終わりから1926年の初めまでの15年間余りを、スウェーデン国民は「安定と充実の15年」として記憶している。
長期にわたり我が国と対立していたロシアは日本との戦争に明け暮れ、軍事的にも経済的には我が国に遠く及ばない国となっていた。
イタリアはスイス併合の結果、ドイツと国境を接することとなり、ようやくその領土拡張政策が過ちであったことに気付いた。我が国の領土であるヴィテルボを奪おうとすれば、それはドイツの怒りを招き、イタリアに破滅的な結果をもたらすであろう。
外国からの脅威を受けずに済んでいる間、政府は海外植民地における第一次産業の発展、交通網の拡充に励んだ。新領土デンマークでは旧デンマーク軍兵士の除隊と工員への職種転換を進め、工業の発展を促した。
1920年8月20日現在のスウェーデンの状況
国威: 505
工業力: 1443
軍事力: 70 (常備軍32師団、予備34師団、艦隊27隻)
ランキング第7位(列強)
人口: 35,749,000
現有資金: 162,907
列強の順位
1位 イギリス
2位 ドイツ
3位 アメリカ
4位 日本
5位 イタリア
6位 フランス
7位 スウェーデン
8位 スペイン
この平和な時代、軍部ではある計画が立案されていた。ヴィテルボを足掛かりに中部イタリアに領土を広げようとする計画である。財政を脅かさない程度に常備軍・予備役兵の拡充、軍艦の建造が安定したペースで進められた。1925年9月、「国防演習」との名目で動員令が発令され、大量の兵士がヴィテルボに輸送された。
1925年7月8日現在のスウェーデンの状況
国威: 519
工業力: 1689
軍事力: 83
ランキング第7位(列強)
人口: 39,468,000
現有資金: 509,338
アフリカ、アラビア、インドのスウェーデン領(1925年7月8日)
イタリア分割戦争(1926年2月~1927年8月)
政権:自由会衆党
秩序を国是とする我が国では、軍部がクーデターを起こして、自分たちに都合が良い政権を樹立するようなことはない。逆にいえば、非戦主義を標榜する政党が政権に就いた場合、防衛予算が制限され、軍は自由に行動をとれなくなる。予備役兵をヴィテルボに待機させつつ、軍部は選挙結果に注目していた。
1926年2月1日、自由会衆党が選挙に勝利した。戦争継続に必要な予算が確保されたことを確認した軍部首脳は政府に戦争開始を進言した。
同月25日、ついに我が国はイタリアに対して宣戦を布告した。「安定と充実の15年」の間に強化された我が海軍はボニファシオ海峡とティレニア海とでイタリア海軍に対し勝利を収めた。これによって、イタリア海軍はナポリ港に閉じ込められることとなった。陸上では13月4日、我が軍がローマに侵攻、翌4月17日、ローマを陥落させた。 この後、我が軍はイタリア各地で快進撃を続ける:6月8日グロッセート、8月16日カリアリ、8月19日ルッカ、9月26日メッシナ、10月27日カタニア、11月19日パレルモ、12月20日ジェノヴァ、1927年1月21日マッサ、と各地をイタリアから解放した。
イタリアは敗北を認め、1927年8月2日、和平が成立した。我が国はフィレンツェ、リミニ、ルッカ、ラクイラ、アンコーナ、シエナ、リヴォルノ、ペルージア、グロッセートを得た。中部イタリア(トスカーナ、ウンブリア等)が我が国の領土となったことで、イタリアは南北に分断された。またそれだけでなくトスカーナやウンブリアの工業力を失ったことにより、国威を大いに下げることとなった。
1927年8月5日現在のスウェーデンの状況
国威: 553
工業力: 2132
軍事力: 84 (常備軍33師団、予備38師団、艦隊55隻)
ランキング第6位(列強)
人口: 50,656,000
現有資金: 500,469
列強の順位
1位 イギリス
2位 ドイツ
3位 アメリカ
4位 フランス
5位 日本
6位 スウェーデン
7位 イタリア
8位 オスマントルコ
The golden age(1927年8月~1935年12月)
政権:自由会衆党
1929年5月25日、我が国とドイツとの軍事同盟が失効した。だが、我が国はドイツの後ろ盾がなくてもイタリア、あるいはロシアと渡り合える国力を蓄えていたので、とくに問題は覚えなかった。しかし、念には念をということがあるので、ドイツとの友好関係を保つようにしていたところ、同年12月21日にはドイツから独立保証を獲得することができた。
中部イタリアを失ったイタリアが近いうちに復讐戦に打って出ることは確実だったので、我が国はイタリアと国境を接するプロビンスにおいて要塞建設を進め、デンマークやイタリア出身の正規兵を配備した。
1934年5月15日、イタリアが我が国に宣戦を布告した。と、同時にドイツは我が国の側に立ってイタリア領旧スイスに侵攻を開始した。
我が国の海軍は6月10日リグリア海で、6月17日ボニファシオ海峡で戦い、圧倒的な勝利を収めた。制海権を掌握したのち、我が軍は敵首都ローマへの上陸を敢行、1か月の戦闘の後、10月11日、ローマを陥落させた。我が国としてはこれ以上の領土拡張の意志はない。そこで、イタリアに対し、賠償金を条件とする和平を提案した。ドイツとの戦いに苦しむイタリアは、10月14日、我が国の寛大なる和平提案を受諾した。
ドイツとイタリアの戦いは1935年6月28日に終結した。イタリアはドイツにルツェルン、チューリヒを譲ることとなった。
1935年10月6日現在のスウェーデンの状況
国威: 603
工業力: 2702
軍事力: 156
ランキング第4位(列強)
人口: 57,180,000
現有資金: 390,118
列強の順位
1位 イギリス
2位 アメリカ
3位 ドイツ
4位 スウェーデン
5位 フランス
6位 日本
7位 イタリア
8位 スペイン
工場(1935年10月6日)
イェータランド
缶詰工場 5/5
製紙工場 5/5
小火器工場 5/5
爆薬工場 5/5
大砲工場 5/5
汽船建造所 10/10
高級服工場 5/5
家具工場 5/5
スヴェアランド
製鉄所 5/5
弾薬工場 5/5
小火器工場 5/5
セメント工場 5/5
高級家具工場 5/5
自動車工場 10/10
燃料精製所 5/5
トスカーナ
ガラス工場 5/5
機械部品工場 5/5
織物工場 5/5
衣料工場 5/5
汽船建造所 5/5
ウンブリア
ワイナリー 5/5
製鉄所 5/5
製材所 5/5
織物工場 5/5
機械部品工場 5/5
衣料品工場 5/5
ノルランド
製材所 5/5
製紙工場 5/5
家具工場 5/5
高級家具工場 2/5
シュラン・フェーン
弾薬工場 5/5
肥料工場 5/5
織物工場 5/5
蒸留酒製造所 5/5
アケルフス
製材所 10/10
高級家具工場 5/5
家具工場 5/5
ベルゲン
肥料工場 5/5
織物工場 5/5
ユトランド
缶詰工場 5/5
衣料品工場 5/5
フィンランド
汽船建造所 5/5
エピローグ
1935年12月31日。
ゲームは終了し、わがスウェーデンは世界で4番目の地位を占めることとなった。
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第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争(1887年6月~1891年6月)
政権:ランドマナ党(~1888年2月)、保守党(1888年2月~)
統一後のイタリアには領土拡大の意志がありありとみられた。1886年にはあろうことか永世中立国であるスイスを侵略、同年12月14日、イタリアはスイスからスィテンとベリンツォーナを得た。スイス国威を300失った。勢いに乗るイタリアがヴィテルボ奪還に動き出すのは明らかだった。
1887年6月14日、ついにイタリアが我が国に宣戦を布告した(第二次対伊防衛戦争。我が国では第三次イタリア統一戦争の後半を第一次対伊防衛戦争とみなしている)。7月6日にはイタリア陸軍がヴィテルボに侵攻、9月26日我が国の海軍がイタリアとボニファシオ海峡で戦って敗北した。我が国がドイツから独立保障を得たのは10月3日でこの戦争には間に合わなかった。 我が国はヴィテルボ防衛の援軍を送ったものの、10月16日には壊滅し、11月4日にはヴィテルボが陥落した。我が国は専守防衛方針の下、海外派兵用の輸送艦隊を準備していなかった。これがヴィテルボへの大量派兵の障害となり、結果としてヴィテルボ失陥へとつながった。
翌1888年6月、イタリア軍は我がアラビア半島植民地に突如上陸。17日にマリヤーを奪取した。後手に回ってしまったものの、我が国は数少ない輸送船をまずマダガスカルに送り、その地で植民地兵を乗せ、アラビア半島に赴かせることにした。植民地兵は約2年後の1890年3月9日にマリヤーをイタリアから解放した。
翌1889年7月28日、もう一つの仮想敵国であるロシアが我が国に宣戦を布告した(第二次対露防衛戦争)。ここでドイツによる独立保障が機能した。同日、ドイツが我が国の側についてロシアに宣戦を布告したため、ロシアの戦力は大幅に殺がれることとなった。
初戦ではトルニオが10月4日に、ルーレオが11月19日にロシアに奪われた。オウルでは守備軍が踏みとどまっていた。我が国はオウルに援軍を送るとともにフィンランド方面から反撃に出た。
1890年1月8日、我が軍はオウルでロシア軍に勝利した。ヴァーサ侵攻軍は1月12日から2月15日にわたり5度、ロシア軍と交戦、いずれも勝利を収めた。2月17日、我が国はヴァーサをロシアから解放した。
1890年2月、我が軍はルーレオをロシアから解放した。以後、トルニオ、ヴァーサ、コーラ、カンダラクシャを巡って一進一退の戦いが続いた。
1890年5月3日現在のスウェーデンの状況:
国威: 186
工業力: 500
軍事力: 27
ランキング第8位(列強)
人口: 19,806,000
借款: 32000
戦争による消耗: 26.3%
イタリアはヴィテルボの占領を続けていたが、それ以上に事態を進展させることはできなかった。1890年12月5日、我が国とイタリアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。ヴィテルボは再びスウェーデンに帰った。
ロシアは我が国の奮戦、そしてドイツの苛烈な攻撃を前に徐々に戦意を失っていた。1891年6月14日、我が国とロシアとの間で「現状への復帰」を条件とする和平が成立した。
こうして4年にわたる防衛戦争が終了した。
なお、ドイツとロシアとの間の和平は1892年9月9日に成立し、ロシアはラドム、ビヤウィストク、カプスカス、スヴァウキ を、ウーチ、スキェルニェウィツェ、キエルツェ、プウォツク、カリシ、リバヴァ、シャヴリ、ロムツァをドイツに割譲した。
財政再建および瑞独軍事同盟の締結(1891年7月~1898年7月)
政権:保守党(~1992円11月)、ガムラランドマナ党(1992円11月~1897年8月)、農民組合(1897年8月~)
2度にわたる、イタリア、ロシアとの戦いの結果、我が国は莫大な借金を抱えていた。平和条約の有効期間中に財政再建を果たすことが我が国最大の課題であった。また、イタリア、ロシアから容易に戦争を仕掛けられないようにするためにはドイツと軍事同盟を結ぶ必要があった。
第二次対伊防衛戦争・第二次対露防衛戦争中の1890年5月、我が国の西アフリカ植民地ビサウで反乱がおこり、同地は叛徒に占領されていた。この地を奪還するため、1893年10月8日、正規兵をビサウに派兵し、10月27日同地を解放した。アフリカ、アラビア、インド、東南アジアに点在する我が国のすべての植民地を管理し続けることは困難を極める。そこで、我が国はビサウを放棄、ドイツに割譲することによってドイツとの軍事同盟締結を進めることとした。
1893年11月4日、我が国はドイツにビサウを譲渡し、その代わりに技術供与を受けるという協定を結んだ。これにより、我が国とドイツとの有効度は最大値に達した。そして翌1894年5月7日我が国とドイツは相互防衛条約(瑞独軍事同盟)を締結した。この軍事同盟は有効に機能し、我が国とイタリア、ロシアとの平和条約が失効した後も両仮想敵国からの侵攻は起こらなかった。瑞独軍事同盟はこれ以後、1929年5月25日まで35年間続いた。
1893年11月4日現在のスウェーデンの状況:
国威: 191
工業力: 477
軍事力: 32 (常備軍20師団、予備軍24師団、艦隊6隻)
ランキング第9位(独立国)
人口: 20,322,000
借款: 44260
この時代、イタリアはスイス併合の意志をむき出しにしていた。我が国との和平成立直後にスイスに宣戦を布告し、1892年8月4日にはバーゼル、チューリヒ、クール、ルツェルン、ジュネーヴを獲得していた。スイスは国威を300失った。さらに1898年3月、イタリアはスイスに対し3度目の宣戦布告を行い、ついにスイス併合を完了させた。この事態を見て、我が国民はいずれイタリアに鉄槌を加えなくてはならないとの意識を強くした。
農民組合政権下、我が国は財政の黒字化を果たした。この余剰の資金は鉄道敷設、工場建設、海軍の近代化に充てられた。
デンマーク併合(1898年8月~1910年10月)
政権:農民組合(~1907年2月1日)、自由会衆党(1907年2月1日~)
1898年8月18日、デンマークが財政破綻したとの情報が入った。無能な政府の下にいるデンマーク国民は不幸である。政府と国民は、同じスカンジナビア人であるデンマークの民を救うとともに、彼らを我が国の一員とすることで我が国に繁栄をもたらすべきであると考えた。
1898年9月6日現在のスウェーデンの状況:
国威: 188
工業力: 543
軍事力: 34 (常備軍24師団、予備24師団、艦隊6隻)
ランキング第9位(独立国)
人口: 20,884,000
現有資金: 3949
1898年9月6日、我が国はデンマークに対して宣戦を布告した(第一次スカンジナビア統一戦争)。財政に悪影響を及ぼさないため、戦争には常備軍のみが動員された。9月17日、我が軍がデンマークを相手にスドーレベルドで戦い、勝利した。 これによって海峡を渡ることが容易になった。1899年1月20日、我が軍がオルボアに上陸、2月3日に同地をデンマークから解放した。2月15日には別働隊が首都コペンハーゲンに到着し、交戦状態に入った。コペンハーゲンでの戦闘が続く中、デンマークから和平提案があり、1899年4月6日、我が国とデンマークとの間で和平が成立した。オーゼンセ、オルボア、ヴィボルが我が国の領土となった。新領土において我が国は鉄道敷設、工場の再建を進めた。
和平条約失効後の1905年1月6日、我が国はデンマーク併合を進めるべく、再び宣戦を布告した(第二次スカンジナビア統一戦争)。1905年4月14日、我が軍はコペンハーゲンをデンマークから解放した。今回はオルフスを我が国へ割譲するとの条件で和平が成立した。デンマークに残るのはコペンハーゲンのみとなった。
そして、1910年8月7日、最後の戦いが始まった(第三次スカンジナビア統一戦争)。1910年10月9日、デンマークは我が国に併合された。
1911年5月12日現在のスウェーデンの状況
国威: 405
工業力: 1003
軍事力: 43
ランキング第7位(列強)
人口: 30,094,000
現有資金: 57167
列強の順位
1位 イギリス
2位 ドイツ
3位 アメリカ
4位 日本
5位 フランス
6位 イタリア
7位 スウェーデン
8位 カナダ
併合後のデンマークの様子および再建された我が国の艦隊(1911年5月12日)
このスカンジナビア統一戦争中に起こった国内外の出来事
国内
1901年8月16日、“ナイル川の水源はいずこ?”という論争が発生。健全財政の維持が国是である以上、国威が低下しようともこのような馬鹿げた冒険への支援は行わないことを決定した。
1901年12月11日、“ノーベル賞”が制定され、国威が大いに増した。
国外
1900年1月、“義和団の乱”が発生。列強が中国を蚕食するきっかけとなる。このとき中国に宣戦を布告したロシアに対し、日本が中国の側についてロシアに宣戦を布告した(第一次日露戦争)。この戦争は1903年7月11日に終結し、千島列島、ウドゥスコエ、サンジン、サハリンオーラ、ハバロフスク、ニングタが日本に割譲される。1907年4月にはふたたびロシアと日本との間で戦端が開かれた(第二次日露戦争)。この戦争は数十年にわたって継続する大戦争となり、日露両国の発展を大いに妨げることとなった。
1902年5月11日にはオーストラリアが、1908年11月30日にはニュージーランドがイギリスから独立した。
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カンボジア戦争後も我が国は世界6位と以前のままの地位を維持していた。
1862年1月14日現在のスウェーデンの状況:
国威: 64
工業力: 276
軍事力: 29
ランキング第6位(列強)
人口: 8,625,000
現有資金: 5138
列強の順位
1位 イギリス
2位 プロイセン
3位 フランス
4位 アメリカ
5位 ロシア
6位 スウェーデン
7位 オーストリア
8位 オスマントルコ
1963年から我が国はイタリア統一を巡る動きに巻き込まれ、やがてそれは我が国に危機をもたらすこととなる。
第一次イタリア統一戦争(1863年8月~1864年11月)
政権:保守党(~1864年5月)、自由党(1864年5月~)
1863年8月、両シチリア王国がイタリア統一に乗り出した。両シチリア王国の前に立ちはだかったのは教皇領とサルデーニャ・ピエモンテである。両シチリア王国をフランスが、教皇領をオーストリアが支援した。我が国はクリミア戦争以来2度にわたってサルデーニャ・ピエモンテと軍事協定を結んでいる。1863年8月12日、我が国はサルデーニャ・ピエモンテの側についてフランス、両シチリア王国に宣戦を布告した。
我が国の艦隊の一部がフランス海軍によって壊滅させられるなど、いくつかの危機があったが、我が国はシチリア島への上陸を成功させ、12月29日パレルモ、1864年1月5日カタニア、2月3日メッシナの順に攻め落とした。
1864年4月24日、我が同盟国、サルデーニャ・ピエモンテはフランス・両シチリア連合に降伏した。シャンベリ、アヌシーがフランスに、ジェノヴァ、パルマが両シチリア王国に割譲された。
サルデーニャ・ピエモンテの敗北によって我が国参戦の大義が失われたが、我が国としては何も得ずに撤退するつもりはない。シチリア全島の占領を続けつつ、両シチリア王国に対して領土割譲を求め続けた。長い交渉の結果、1864年11月22日、両シチリア王国はヴィテルボの割譲を認めた。ヴィテルボが我が国の領土となったことは、数十年後、我が国が躍進する足掛かりとなる。
1864年11月22日現在のスウェーデンの状況:
国威: 58
工業力: 288
軍事力: 23
ランキング第7位(列強)
人口: 9,871,000
現有資金: 517
世界情勢(1863年5月~1871年2月)
政権:自由党(~1869年2月)、保守党(1869年2月~)
我が国がイタリア統一戦争に関与し続けている間、世界では3つの大きな動きがあった。一つは日本における明治維新(1863年5月20日)、一つはドイツ統一(普墺戦争1866年1月18日~1867年6月4日、普仏植民地戦争1867年11月4日~1869年6月10日、ドイツ帝国成立1871年2月6日)、そしてもう一つはカナダの独立(1867年6月20日)である。
1871年8月7日現在のスウェーデンの状況:
国威: 46
工業力: 345
軍事力: 29
ランキング第7位(列強)
人口: 10,567,000
現有資金: 2761
同時期の我が国工業の様子
ノルランド
製材所 5/5
スヴェアランド
製鉄所 4/5
弾薬工場 5/5
小火器工場 1/5
セメント工場 3/5
高級家具工場 0/5
イェータランド
缶詰工場 5/5
製紙工場 5/5
家具工場 5/5
小火器工場 2/5
爆薬工場 3/5
大砲工場 0/5
アケルフス
製材所 9/10
高級家具 0/5
ベルゲン
肥料工場 4/5
第二次イタリア統一戦争(1871年10月~1874年4月)
政権:保守党
1871年10月8日、両シチリア王国がサルデーニャ・ピエモンテに対して宣戦を布告した。フランスは今回はサルデーニャ・ピエモンテ側についた。我が国は当時、サルデーニャ・ピエモンテとの軍事同盟が失効したばかりであったが、先方の依頼により1872年1月15日に再締結。同日、我が国は両シチリア王国に対して宣戦を布告した。我が国はヴィテルボの守備に努めると同時にサルデーニャ・ピエモンテ領アレッサンドリア、ミラノでの防戦にあたった。
1874年4月20日、両シチリア王国とサルデーニャ・ピエモンテの間で和平が成立。ジェノヴァ、パルマ がサルデーニャ・ピエモンテに返還された。
1874年12月23日現在のスウェーデンの状況:
国威: 74
工業力: 355
軍事力: 31
ランキング第8位(列強)
人口: 10,907,000
現有資金: 1150
モザンビーク戦争(1875年2月~1877年12月)
政権:保守党
第二次イタリア統一戦争が終わるころから、我が国はマダガスカルの対岸、アフリカへの進出を企てていた。目指すはポルトガル領モザンビークである。当時、ポルトガルに対するイギリスからの独立保障が失効しており、ポルトガルを支援する国は存在していなかった。我が国は第二次イタリア統一戦争終結直後に輸送艦隊をマダガスカル島沿岸に移動させ、植民地兵の搭乗を始めた。
1875年2月20日、我が国はポルトガルに植民地戦争の宣戦を布告した。5月13日モザンビーク、5月20日ポートアミーリア、6月5日ソファラ、と各地をポルトガルから解放したが、その後、ポルトガル植民地軍の抵抗・我が国輸送艦隊の敗北により事態は膠着した。翌1876年に入って再び戦線が動き始め、1月9日ロレンソマルケス、1月17日イニャンバネ、4月11日ザンディアが陥落した。
ザンディア陥落後、我が国はポルトガルとの和平交渉を開始した。1877年12月16日にようやく交渉が成立し、イニャンバネ、ソファラ、モザンビーク、キリマネ、モサメデス、ポートアミーリア、ベンゲラ、サンパウロデロアンダ、ゴア、ビサウ、ティモール、サントメプリンシペ、カポヴェルデ諸島が我が国に割譲された。広大な領土を手に入れたものの、我が国は各植民地で発生する暴動に悩まされることとなった。
第三次イタリア統一戦争・第一次対露防衛戦争(1879年11月~1882年10月)
政権:保守党
1879年11月7日、両シチリア王国はイタリア統一を狙って、サルデーニャ・ピエモンテに対する三度目の戦争を開始した。フランスと我が国はサルデーニャ・ピエモンテを、オーストリアは両シチリアを支援した。
我が国がイタリア派兵の準備をしている最中、危機が訪れた。1880年5月17日ロシアが我が国に宣戦を布告してきたのである。我が国は動員令を発令、対露防衛に備えた。ロシアが我が国の要塞群を攻めあぐねている間、我が軍はヴァーサに進出し勝利を収めた。
しかし、我が軍がヴァーサで勝利を収めたまさにその日(1880年9月30日)、サルデーニャ・ピエモンテが両シチリアに併合され、イタリア王国が成立したのである。強大化したイタリアを相手にヴィテルボを守り抜かなくてはならなくなった。
我が国は粘り強く防御に努めつつ、イタリアとロシアに対し「現状への復帰」を条件とする和平交渉を繰り返した。その間、戦争による消耗は拡大し、財政は悪化の一途をたどっていた。
1882年1月10日、ようやくイタリアとの間で和平が成立した。ヴィテルボは失われずに済んだ。そして1882年10月28日にはロシアとの間にも和平が成立し、我が国はようやく存亡の危機を逃れた。
この2つの戦争の後、我が国はこれまでの領土拡大方針を改め、要塞建設と財政再建に専念することになった。
戦間期の政策(1882年11月~1887年6月)
政権:保守党(~1883年5月)、ランドマナ党(1883年5月~)
第三次イタリア統一戦争および第一次対露防衛戦争から立ち直るため、我が国では以下の3つの政治方針が立てられた。
一、財政方針。悪化した財政を立て直すため、税収を増やし、支出を抑制する。
一、外交方針。他国が新たな戦争を引き起すことを防ぐ。
一、軍事方針。戦争勃発時には勝てなくとも負けないようにする。
これらの政治方針の下、財政面では、関税の引き上げ、治安維持、社会予算の抑制が実施された。また陸軍維持予算も引き下げられ、常備軍一個師団あたり2000人程度が削られた。国庫に蓄積された金はすべてほとんどが国債の償還に充てられた。
外交面では対岸の大国、ドイツとの関係強化が図られた。実は第三次イタリア統一戦争前から我が国はドイツとの間で関係改善や技術の交換を図ってきた。これらの努力により、第一次対露防衛戦争中の1881年4月27日、我が国はドイツから独立保証を得ていた。ドイツを我が国の後ろ盾とし、仮想敵国であるロシア、イタリアから攻められにくい状況を構築し、維持することに努力を払うこととなった。
軍事方針は一言でいえば専守防衛である。ロシアに対してはフィンランド地方のトゥルク、ラップランド地方のトルニオ、オウル、カヤーニに強大な要塞を構築し、各プロビンスに正規兵と植民地兵からなる3個師団を常駐させることで対抗し、イタリアに対してはヴィテルボに要塞を構築し、やはり正規兵と植民地兵からなる3個師団を常駐させることで対抗することとした。
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