トマス・リード『人間の知的能力に関する試論』を読む
昨年から時折,トマス・リードの『人間の知的能力に関する試論』(上下 戸田剛文訳 岩波文庫)を読んでいるのだが,トマス・リードの正直さには感心する。
何が正直かというと,わからないものはわからないと述べていることが正直だというのである。
例えば,あなたにAさんという友達がいるとして,あなたがAさんについて何を知っているかというと,Aさんの属性(背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとか)しか知らないでしょう,本質はわからないでしょう,ということをリードは述べている。
今の例では人物を取り上げたが,物でも現象でもおなじことで,リードは『人間の知的能力に関する試論』の中で,あらゆる対象について
属性は明確にわかるけど,本質はわからない
ということを述べている。
具体的には第5巻第2章「一般概念について」の中でこういうことを述べている:
「われわれがあらゆる個体について持っている,あるいは得ることができるすべての判明な知識は,その属性の知識である。というのも,われわれは,どのような個体の本質も知らないからだ。それは人間の機能の届く範囲を超えているように思える」(下巻141ページ)
もちろん,背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとかいった属性はAさんという主体なしには存在できない。赤い色は,赤い色をした自動車とか服とか具体的な主体がなければ存在できない。
だが,主体の本質となるとわからない。お手上げである。
「自然は,われわれに,思考することと推論することは主体なしには存在できない属性だと教えてくれる。しかし,その主体について,われわれが作ることのできる最良の思念も,そのような属性の主体だということ以上のことをほとんど含意していないだろう」(下巻143ページ)
今では,「複雑系」のように「全体は部分の合計よりも大きな何かである」という考え方がある。しかし,実際にわれわれが主体に関して語ることができるのは,属性の総和が関の山で,本質については想像以上のことを語ることはできない。
トマス・リードはスコットランド常識(コモン・センス)学派の代表格である。彼の著書には常識学派という通称に違わぬ考え方が示されている。
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