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2024.05.23

『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む

有志舎からこの春に刊行された『<学知史>から近現代を問い直す』を読んでいる。

「学知史」という言葉は聞きなれない言葉だが,人文科学諸分野(歴史学とか思想史とか)の学説史・研究史を横断的に研究する方法論(リサーチ・メソドロジー)である。とは言っても形成途上の方法論なので,スタイルは固まっていない。

本書には大正期から最近までの様々な分野の研究の歴史をまとめた論文が収められている。

例えば斎藤英喜「『日本ファシズム』と天皇霊・ミコトモチ論―丸山真男,橋川文三,そして折口信夫―」とか山下久夫「『文献学者宣長』像をめぐる国学の学知史―芳賀矢一・村岡典嗣・西郷信綱・子安宣邦・百川敬仁―」とか。

学説史・研究史というのは研究者ありきなので,具体的な研究者名がサブタイトルに登場する。やはり人は人のことを知るのが好きなんですよ。

さて,面白そうな論文がひしめき合っている中,最も目を引いたのが,

栗田英彦「ポスト全共闘の学知としてのオカルト史研究―武田崇元から吉永進一へ―」

である。

最近「オカルト2.0」なんか読んだから「オカルト」に過剰反応する。

この論文,出だしの一文が良い:

「近年,オカルト(オカリティズム・エソテリシズム)史研究が国内外で脚光を浴びている。」(『<学知史>から近現代を問い直す』280ページ)

まさしくそんな気がする。

以降,オカルト史(エソテリシズム史)研究の日本代表として吉永進一を取り上げ,その研究の変遷,アプローチ手法のみならず,ニューウェーブSF読書経験やオカルト体験についても概説してくれる。要するにこの論文はほぼ吉永進一の評伝となっている。

栗田氏は吉永進一の発言を踏まえて,その研究姿勢を次のようにまとめている:

「つまり,アカデミズムのエティックな概念で対象化することで安全な立場に立つ,つまり「客体として取り出して整理する」というのではなく,「自己に戻って」自分の問題として捉えることを重視する。その意味で「オカルト」とは実体的領域を示す客観的概念というよりは,むしろその実体性や客観性を掘り崩して,自分の問題として考えるための方法論的な概念として用いられていることがわかる。」(『<学知史>から近現代を問い直す』295ページ)

そういえば,先日読んだ「オカルト2.0」の著者もオカルトを研究対象としつつも,自分の問題として捉えていた。オカルト史研究の典型的な研究姿勢なのだろう。

竹内裕=武田崇元=有賀龍太からの影響のほか,浅田彰や安彦良和にも少し触れられていたりして,オカルト史研究というのは,在野とアカデミズムの境目の無い,学際的な領域なのだなぁと感心した。

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2024.05.22

トマス・リード『人間の知的能力に関する試論』を読む

昨年から時折,トマス・リードの『人間の知的能力に関する試論』(上下 戸田剛文訳 岩波文庫)を読んでいるのだが,トマス・リードの正直さには感心する。

何が正直かというと,わからないものはわからないと述べていることが正直だというのである。

例えば,あなたにAさんという友達がいるとして,あなたがAさんについて何を知っているかというと,Aさんの属性(背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとか)しか知らないでしょう,本質はわからないでしょう,ということをリードは述べている。

今の例では人物を取り上げたが,物でも現象でもおなじことで,リードは『人間の知的能力に関する試論』の中で,あらゆる対象について

属性は明確にわかるけど,本質はわからない

ということを述べている。

具体的には第5巻第2章「一般概念について」の中でこういうことを述べている:

「われわれがあらゆる個体について持っている,あるいは得ることができるすべての判明な知識は,その属性の知識である。というのも,われわれは,どのような個体の本質も知らないからだ。それは人間の機能の届く範囲を超えているように思える」(下巻141ページ)

もちろん,背が高いとか低いとか,性格が明るいとか暗いとか,勉強ができるとかできないとかいった属性はAさんという主体なしには存在できない。赤い色は,赤い色をした自動車とか服とか具体的な主体がなければ存在できない。

だが,主体の本質となるとわからない。お手上げである。

「自然は,われわれに,思考することと推論することは主体なしには存在できない属性だと教えてくれる。しかし,その主体について,われわれが作ることのできる最良の思念も,そのような属性の主体だということ以上のことをほとんど含意していないだろう」(下巻143ページ)

今では,「複雑系」のように「全体は部分の合計よりも大きな何かである」という考え方がある。しかし,実際にわれわれが主体に関して語ることができるのは,属性の総和が関の山で,本質については想像以上のことを語ることはできない。

トマス・リードはスコットランド常識(コモン・センス)学派の代表格である。彼の著書には常識学派という通称に違わぬ考え方が示されている。

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2024.05.17

『オカルト2.0』を読む

竹下節子『オカルト2.0』を読んだ。

近年のフランスのオカルト事情や動物磁気説で知られるメスメル(1734~1815)の栄光と挫折の生涯など,興味の尽きない話題が提供されている。

著者はオカルトのビジネス化やカルト化に警戒しつつも,カオスの時代を生きる方法としての可能性を「オカルト2.0」に見出している。

死,病,事故,別れなど人生には避けられない「悲劇」もあるけれど,それはある意味で単純なものだ。その他に自分でややこしくこじらせているさまざまな心理的葛藤がたくさんあって毎日の現実を汚染している。

実存的な悲劇と心理的葛藤とを分けなくてはいけない。葛藤を一つひとつ解決する「治療」を求めるのではなく,それらを抱えたままで「大いなる健康」に向かう一つの方法がオカルト2.0であるかもしれない。(「あとがき」より)

従来のオカルトは正統的な科学や宗教の裏側に在ったり対抗していたりしたのだが,今や科学とオカルトは対立するものではなく,協調しうるものだ,というのが本書のスタンスである。

それにしても,ビジネス界隈で流行していた「コーチング」の源流が,神秘思想家ゲオルギイ・グルジエフやその影響下で形成されてきたエニアグラムにあったというのは初めて知った。不明を恥じる次第である。

オカルトとビジネスは実に相性が良い(有名な経営者がスピリチュアルなものに傾倒している例はいくつもある)。

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2024.05.07

ダイ・シージエ『バルザックと小さな中国のお針子』を読む

ダイ・シージエの『バルザックと小さな中国のお針子』を読んだ。

こんなあらすじである:

文化大革命下の中国。知識階級の子供と見なされた主人公と友人の羅(ルオ)の二人は下放された。

生まれ故郷の大都会・四川省の成都を離れ,電気もないド田舎,鳳凰山で農作業に従事することになった。

主人公と羅が住んでいる村には,時折,仕立屋がやってくる。その仕立屋の娘が表題の「お針子」である。「小裁縫」と呼ばれている。とても美しい娘で主人公と羅は恋をした。

毛沢東語録以外の本は所有禁止という状況下で,主人公と羅はフランス文学の翻訳本を入手した(盗んできた)。

娯楽に飢えていた二人はむさぼるようにそれらの本を読む。

そして,羅は小裁縫にバルザックなどを読み聞かせ,だんだんと親密になっていく。

羅は小裁縫に教養を付け,田舎には似つかわしくない洗練された女性に仕立てようとするわけだが・・・。

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フランス在住の中国人映画監督が綴る青春小説。

ある程度予想されていたことだが,最後のどんでん返しがとても良い。

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