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2024.04.30

『デルスウ・ウザーラ』読了

デルスウ・ウザーラ』(東洋文庫55)を読み終わった。

アムール川流域の先住民ナナイ(ゴリド)の猟師デルスウ・ウザーラと,ロシア人探検家アルセーニエフが,1907年から1908年にかけてシホテ・アリニ山脈を踏破する話である。

この本に感銘を受けた黒澤明がソ連の全面的協力の下,映画『デルス・ウザーラ』を撮り,モスクワ国際映画祭金賞やアカデミー賞外国語映画賞を獲ったのは有名な話。

はじめは一日1章のペースで読んでいたのだが,この本に描かれている状況が理解できるようになると読むのが早くなり,最後は2,3章まとめて読むようになった。

読者はデルスウの素朴な世界観と狩猟民族としての知恵に惹かれるだろう。

デルスウの世界観はアニミズムのそれであり,人間も動物も機能するモノも全て「ひと」と見なされる。

それらの「ひと」たちに対する知識や態度は,デルスウとの関わり合いによって濃淡が変化する。

天体に対してはわりと塩対応だ。こういうエピソードがある。

・・・1907年8月25日の夜明け,東の水平線付近に彗星が見えた。

アルセーニエフが率いる探検隊のメンバーたちは彗星が何を予言しているのかと議論し合った。

アルセーニエフがデルスウに意見を聞いてみたところ,次のように答えた:

「あれはいつも空をいく,人のじゃまはしない」彼はつまらそうに答えた。

自然を人格化してみる彼の考えではあるが,それでも彼は正しかった。彼は事物をそのあるがままに判断した。

(長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ』「第7章 シャオケムに沿って」より)

このあと,アルセーニエフが太陽についてもデルスウに訊いてみるのだが,これも面白い:

「デルスウ」私は彼にきいた。「太陽とは何かね?」

彼はふしぎそうに私をみて,こんどは彼の質問を出した。

「あんたみたことないのか。みなさい」彼はこう言って,手でちょうど水平線にのぼった太陽の円板を示した。

みんなは笑った。デルスウは不満だった。その太陽自体が眼前にあるのに,太陽とは何かと人にたずねる。彼はからかわれたように思ったのだ。

(同じく『デルスウ・ウザーラ』「第7章 シャオケムに沿って」より)

天体に対してはこんな様子だが,魚やカラスやトラに対しては深い洞察を示す。

 

デルスウはこの旅の途上,老いによる視力の低下にショックを受ける(とは言ってもまだ58歳だったのだが)。旅の終わり,アルセーニエフはデルスウを自宅に引き取ることにした。

しかし,都市の生活はデルスウにはなじまなかった。なぜ,薪や水に金を払わないといけないのか? なぜ,街中で猟銃を撃ってはいけないのか? デルスウはアルセーニエフのもとを離れ,森に帰っていく。

それから二週間ほどたったある晩,デルスウは寝ているところを,何者かに襲われ,殺される。加害者はロシア人と推定されるが,捕まらないままであった。

デルスウは,事件を聞きつけたアルセーニエフに見守られながら埋葬された。

その2年後,アルセーニエフはデルスウを埋葬した場所を訪れようとするが,その場所には町が広がっていて,もはや探し当てることができなかった。

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2024.04.10

梅棹忠夫とモンゴル語

「モンゴルはわたしにとって,あこがれの国だった。中央アジアの高原のさわやかな空気にふれたかったのである。」(梅棹忠夫『実戦・世界言語紀行』岩波新書205)

さて先日,モンゴル・ウランバートルに出張した。ウランバートルに行くのはこれで2回目である。

温品廉三『モンゴル語のしくみ』や橋本勝『ニューエクスプレスプラス モンゴル語』でちょっと勉強してきたが,ちょっとのことでは歯が立たないのがモンゴル語。

日本語の「う」や「お」にあたる母音が全部で4種類もあり,とても聞き分けできない。

以前ご紹介した(ご参考),エル="Л (L)"の発音。これも手ごわい。「無声歯茎側面摩擦音」と言い,「ひ」とか「し」に聞こえる。

あとは"Х(kh)"がやたら多いが,これはまあ,ロシア語で練習済みなので,「か」と「は」を合わせたつもりで喉の奥で発音すればよい。

結局,現地ではご挨拶の

"Сайн байна уу?" (サェン バイノー)

ぐらいしかできなかったわけである。

(「ありがとう」を意味する,"баярлалаа"なんか,巻き舌р (r)と無声歯茎側面摩擦音л (l)が混在していて文字通り舌が回らない)

東南アジア諸国と違って,モンゴル人はお愛想で笑ったりしない。なので,通じたかどうかも不明のまま。

…ということで老生は苦戦していたモンゴル語だが,冒頭にあげた梅棹忠夫はあこがれの国の言葉ということで,実用上困らない程度にマスターしていた。

 

◆   ◆   ◆

 

実戦・世界言語紀行』の第2章「アジア大陸の奥深く」の半分はモンゴル語の話である。

1944年の春に蒙古聯合自治政府・張家口市に蒙古善隣協会・西北研究所が設立された。所長は今西錦司。梅棹忠夫は今西についていくことを決め,この研究所の嘱託(後に所員)となった。

モンゴルの牧畜社会を研究するにはモンゴル語が不可欠ということで,梅棹忠夫は勉強を始めた。まずは読み書き。なんと,というか当時としては当たり前のことなのだが,縦書きのモンゴル文字の読み書きを学んだということである。

読み書きの次は会話である。1944年5月に梅棹忠夫は西北研究所に着任するが,張家口市は漢族の街なので彼のモンゴル語会話力はなかなか上達しない。モンゴル人の間に入らないとダメだ,と思っていたところ,粛親王府の牧場を訪れる機会に恵まれた。ここでモンゴル人に囲まれて生活する中,ひと月ほどで日常会話ができるレベルになった。

日本語が使えない状況になると外国語が上達するというのはよく言われることである。モンゴル語ではなく,英語であるが,老生もそういう経験がある(上達したというよりも恐れずに話せるようになっただけ)。

梅棹忠夫のモンゴル語力はめきめきと上達。しかし,いよいよ本格的に研究を始めようとしたところで終戦。残念ながら大陸から引き上げざるを得なくなった。以後,数十年にわたってモンゴルに渡航することができなくなった。

しかしながらモンゴル語の能力を生かす機会は意外なときにめぐってくる。アフガニスタンのモゴール族探検(1955年)がそれで,この探検については『モゴール族探検記』(岩波新書青版F-60)に詳しいので,そちらをご参照ください。

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