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2024.02.24

宮内橋の話

コロナ前,2019年5月に金沢に旅行し,小幡家所縁の「宮内橋」に行ってきたという話はすでに本ブログに書いた(参考)。

その宮内橋のことだが,古書城田で購入した「歴史読本」1978年12月臨時増刊号「都市・地名ものしり読本」に宮内橋に関連する記事が出ていたので紹介する。

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戸部新十郎氏が書いた「石川県の人物地名21の由来」という記事(同増刊号359~360ページ)を読むと宮内橋についてこんなことが書かれている:

◇宮内橋(金沢市)

藩臣小幡宮内の屋敷脇にあった。宮内は前田利常の生母寿福院と義兄弟で名は長次。大坂の役後,累進して一万九百石を受け,御小姓番頭から家老・城代を歴任した。

宮内は風流人で,山城井手の玉川からカエルを取り寄せ,橋下の総構堀に放ち,夏季は,夜もすがらカエルの声を聞いて楽しんだ。維新後,総構を廃し,土居を崩したので,玉川のカエルは絶えたが,川縁の崖がかすかに名残りを偲ばせる。

この文の前半部分,小幡宮内長次の経歴については別の記事(参考)に書いたように,老生もすでに知っていることだったが,この文の後半については初耳だった。

風流人でしたか。

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2024.02.12

宮本袈裟雄『天狗と修験者』を読む

宮本袈裟雄『天狗と修験者』(法蔵館文庫)を読んでいる。

修験道は「山岳修行を通して超自然的・霊的な能力を獲得し,それをもとに人々の悩みを究極的に解決しようとする宗教であるといえる。」(『天狗と修験者』,10ページ)

修験道の担い手は修験者に他ならないのだが,その性格を時代とともに変化する。著者は次のように言う:

「中世迄の山岳修行は苦行性が強く,山岳修行を第一義とする理念と現実とがほぼ一致していたと言えるのであるが,近世に入ると理念と現実との差が顕著になり,全体としては山岳修行を懈怠(けたい)する傾向が強まる」(『天狗と修験者』,14ページ)

江戸時代になると山岳修行を経ず,村落に定住する修験者たちが増えた。この修験者たちは村落の祈祷師として活動し,山岳に対する庶民の信仰を集める役割をしていた。修行という面で見れば「懈怠」だが,修験道の信者を増やしたという意味では修験道に大きく貢献していると言える。

明治になると神仏分離,修験禁止令等により,修験道は禁止された。修験者は神職となるか,天台宗・真言宗に帰入するか,還俗するか,という選択を迫られた。修験者の多くは還俗した。

明治・大正・昭和と修験道の暗黒時代が続いたが,第二次世界大戦後は信教の自由が保障されることとなり,いくつかの修験教団が形成されることとなった。

現代の修験者たちの姿はどうなっているかというと,面白いことに中世の修験者の姿に近いものになっており,日夜厳しい山岳修行に打ち込んでいる。著者は具体例として石鎚山の行者たちのライフヒストリーを紹介している(「石鎚山行者伝承」『天狗と修験者』,70~83ページ)。あたらしい中世と言えようか?

 

さて,本書では修験道に関連するものとして天狗が紹介されている。ご存知の通り,昔話の天狗は修験者の服装をしている。

伝承の中の天狗の姿は時代とともに畏怖される神秘的な存在から滑稽であるが親しみやすい存在へと変化する。

これは山岳修行を懈怠し,村落に定住する祈祷師へと姿を変えた近世の修験者たちの姿にシンクロしているようで面白い。

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