データ主導時代に抗して
3年ほど前の『學士會会報』に掲載された照井伸彦先生の「マーケティングにおけるビッグデータの活かし方」(『學士會会報』No.944,2020,pp.13 - 17)を読んだ。
ビッグデータの威力を認めつつも,データ至上主義に流れがちな実業界とアカデミアに警告を鳴らすような内容だった。
要約すれば:
――ビッグデータを扱う人々は,データ主導の「帰納-発見」アプローチに偏りがちで,中には
- 「量」が「質」を凌駕する
- 「検索」と「相関」ですべてが予測できる
- 「理由」ではなく「答え」があれば十分
と考える人々も登場している。
これは,従来の科学の共通認識である,分析対象を理解するための理論として構造(モデル)や変数間の因果関係が大事という考え方の軽視,換言すれば,理論主導の「仮説-演繹-検証」アプローチの軽視につながる。
学問にせよ,実務にせよ,両アプローチでバランスよく問題に取り組まなくてはならない――
という内容だった。
これを読んで思い出したのが,グレゴリー・ベイトソン。
ベイトソンは『精神の生態学へ』の序章「精神と秩序の科学」でこんなことを言っている:
「科学の発展は圧倒的に帰納的なプロセスであり,またそうであるべきだと信じている研究者が,特に行動科学の領域に多く見られるようだ」
帰納的なプロセスというのは,先の「データ主導の『帰納―発見』アプローチ」にあたる。
観察された事実から理論を構成するのは別に悪いことではないのだが,こればかりやっていると,適用範囲の小さい無数の理論ばかりになって,全体を見通せる理論を構成できなくなる,という事態に陥る。
(ちなみに科学における理論は,一定の期間,検証され支持されてきた仮説にすぎない。いずれの理論も,研究が進めば別の理論へと置き換えられる可能性を有している。)
ベイトソンは適用範囲の小さい無数の理論のことを,「いまだ検証中の『仮説』」,「『研究促進的』概念」と呼んでいる。
「研究促進的」概念を,多くのデータによって検証し,改善していけば,いずれ「基底の知」と言うべき根本の理論に到達するというのが研究者たちの考え方であるが,実際はどうか? 無数の「研究促進的」概念だらけになっているではないか,とベイトソンは指摘する。
「精神と秩序の科学」が書かれたのは1971年。それから半世紀経ってビッグデータの時代が訪れ,「帰納性偏重」の度合いはさらに強まっているのではないか。