ケストナー『一杯の珈琲から』(小松太郎訳)を読む
帰路の途上,車の中でエフエム山口・大和良子司会の「COZINESS」を聞いていたところ,古い歌「一杯のコーヒーから」が流れてきた。
これを聞きながら,
――そういえば,本棚に未読のまま放置していた『一杯の珈琲から』(ケストナー)があった――
と思い出し,ついに読む決意をした。
エーリヒ・ケストナーによる日記体のユーモア恋愛小説である。
「一杯の珈琲から」という邦題は,訳者の小松太郎によるものである。原題は"Der Kleine Grenzverkehr"で直訳すれば,「小さい国境往来」となる。
主人公ゲオルク(ドイツ人)は夏休みを音楽の都ザルツブルク(オーストリア)で過ごす計画を立てる。しかし,現金の国外持ち出し制限で,ひと月10マルクしかオーストリアに持ち出すことができない。そこで,歌劇をオーストリアのザルツブルクで楽しみ,宿泊をザルツブルクの隣,ドイツのライヘンハル(バート・ライヒェンハル,Bad Reichenhall)で済ませるということを考える。つまり,朝晩国境を往復して歌劇祭を楽しもうという魂胆。原題はこれに由来している。
ちなみに為替管理局からマルクの国外持ち出し許可が出なかったため,ザルツブルクではゲオルクはほぼ無一文。昼ご飯はライヘンハルから持ち込み,コーヒーはいつも友人のカールにおごってもらっている。
ある日ちょっとした事件が起きる。
8月21日,ゲオルクがいつものようにザルツブルクでコーヒーを嗜んでいたところ,カールが現れない。ゲオルクがコーヒー代の支払いに窮していたところ,助けてくれたのが,オーストリア人のお嬢さん,コンスタンツェ。某伯爵の宮殿で働いているという。
ゲオルクはコンスタンツェに夢中になり,交際が始まる。邦題はこれに由来。
8月24日にはゲオルクはコンスタンツェの部屋に泊まり,8月25日には結婚を申し込む。なんというスピード展開。
ところが,コンスタンツェには(読者にはバレバレだが,ゲオルクが気づかない)秘密があった……
娯楽小説の向上を目指したケストラーらしく,残忍さや猥雑さが全く無い小説である。子供向けかというと,ピルスナーやシャンパンなど飲酒の楽しさは子供にはわからないはずなので,やはり大人向けの小説である。
原著は1938年にスイスで出版されたが,同じ年の3月にアンシュルス(ドイツによるオーストリア併合)があって,本書で描かれた国境往来というものがなくなった。
そして,同じ年,ナチス政権下のドイツで禁書扱いとなり,それは敗戦まで続いた。
お気楽な内容にもかかわらず,歴史に翻弄された小説である。
ちなみに老生が持っているのは真鍋博によるカバー画のもの(1986年5月23日付け第16版)。
初版が1975年3月。11年あまりで16版も刷られているということは人気の高い小説だといえるだろう。