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2022.07.19

宮崎哲弥『仏教論争』をいまごろ読む

旬を過ぎた本を読む。今回は宮崎哲弥『仏教論争』(ちくま新書,2018年)である。

仏教は人間の苦しみ,とくに生きていることによる苦しみ=生存苦に焦点を当てている。

そして,パーリ語経典,小部(クッダカ・ニカーヤ)所収の自説教(ウダーナ)において,ブッダはそうした生存苦が生じるプロセスを十二支縁起(十二縁起,十二因縁)という十二段階の連鎖として説明している。

詳細は省くが,十二支縁起とは,「無明」(無知)からスタートして,認識,接触,物事への執着を経て,生老病死などの苦しみに至るという連鎖である。

では,苦しみを消滅させようとすればどうすればよいのか?

十二支縁起を踏まえると,「無明」を消滅させれば,の連鎖は止まり,苦しみも消滅するわけである。

ゴンダの『インド思想史』でもライトの『エッセンシャル仏教』でも十二支縁起は,初期仏教の教えの核心部分として紹介されている。

十二支縁起,なるほどこれがブッダの悟りか。これで万事解決!と思ったらそうはいかない。

現代の仏教学者の間では,十二支縁起はブッダの悟りそのものではない,とされているのだそうだ。あらまあ。

さらに,初期仏教と異なり,ナーガールジュナ以降,大乗仏教では縁起に対して否定的な態度が採られている。

たとえば,大乗経典のダイジェスト版ともいうべき般若心経では,この十二支縁起自体が否定されている。

「無無明,亦無無明尽,乃至無老死,亦無老死尽」

という般若心経の一節がそれである。

もちろん,このような般若心経の言説に対しては,パーリ語経典に基礎を置くテーラワーダ仏教側から強い批判が加えられている。

 

結局,縁起とは何か,そして縁起とブッダの悟りとの関係はどうなっているのか,等の問いに対して,仏教全体に共通する答えは無い,ということらしい。

そして,縁起に対する問いが仏教の発展史であり,また仏教徒として悟りに向かう歩みなのだとか。

 

というような壮大なプロローグを経て,本書は1920~30年代の第1次縁起論争,1978~1980年の第2次縁起論争へと進むわけである。

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