宮崎哲弥『仏教論争』をいまごろ読む
旬を過ぎた本を読む。今回は宮崎哲弥『仏教論争』(ちくま新書,2018年)である。
仏教は人間の苦しみ,とくに生きていることによる苦しみ=生存苦に焦点を当てている。
そして,パーリ語経典,小部(クッダカ・ニカーヤ)所収の自説教(ウダーナ)において,ブッダはそうした生存苦が生じるプロセスを十二支縁起(十二縁起,十二因縁)という十二段階の連鎖として説明している。
詳細は省くが,十二支縁起とは,「無明」(無知)からスタートして,認識,接触,物事への執着を経て,生老病死などの苦しみに至るという連鎖である。
では,苦しみを消滅させようとすればどうすればよいのか?
十二支縁起を踏まえると,「無明」を消滅させれば,の連鎖は止まり,苦しみも消滅するわけである。
ゴンダの『インド思想史』でもライトの『エッセンシャル仏教』でも十二支縁起は,初期仏教の教えの核心部分として紹介されている。
十二支縁起,なるほどこれがブッダの悟りか。これで万事解決!と思ったらそうはいかない。
現代の仏教学者の間では,十二支縁起はブッダの悟りそのものではない,とされているのだそうだ。あらまあ。
さらに,初期仏教と異なり,ナーガールジュナ以降,大乗仏教では縁起に対して否定的な態度が採られている。
たとえば,大乗経典のダイジェスト版ともいうべき般若心経では,この十二支縁起自体が否定されている。
「無無明,亦無無明尽,乃至無老死,亦無老死尽」
という般若心経の一節がそれである。
もちろん,このような般若心経の言説に対しては,パーリ語経典に基礎を置くテーラワーダ仏教側から強い批判が加えられている。
結局,縁起とは何か,そして縁起とブッダの悟りとの関係はどうなっているのか,等の問いに対して,仏教全体に共通する答えは無い,ということらしい。
そして,縁起に対する問いが仏教の発展史であり,また仏教徒として悟りに向かう歩みなのだとか。
というような壮大なプロローグを経て,本書は1920~30年代の第1次縁起論争,1978~1980年の第2次縁起論争へと進むわけである。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 小池正就『中国のデジタルイノベーション』を読む(2025.01.06)
- 紀蔚然『台北プライベートアイ』を読む(2024.09.20)
- 『ワープする宇宙』|松岡正剛に導かれて読んだ本(2024.08.23)
- Azureの勉強をする本(2024.07.11)
- 『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む(2024.05.23)
コメント