田中克彦『ことばは国家を超える 日本語,ウラル・アルタイ語,ツラン主義』を読む
面白そうな本が出たなぁ,と思いながら手を出したのがこの本,田中克彦『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま新書)である。
ウラル・アルタイ語族はだいぶ前に想定されていた言語グループである。ユーラシアの西(フィンランド語,ハンガリー(マジャル)語)から東(朝鮮語,日本語)まで覆う巨大グループ。
膠着語,母音調和などの共通する性質を有しており,共通の祖先がいるのではないかと,人類史規模のロマンを掻き立てた。それがツラン主義。
しかしながら,全体を通して共有している基礎語彙が無いため,今ではウラル語族とアルタイ諸語に分けて扱われている……。
そんな現状を知っている老生なので,「お? 最近になってウラル・アルタイ語族説が復活したのか?」と思って買ってみたら……違いました。
「音韻法則」一色に染まっているアルタイ語研究を「類型論」の立場から批判するというのが趣旨の本だった。
「音韻法則」というのは,印欧比較言語学で発達してきた考え方で,「複数の言語間に音韻の対応が成立する」というような法則性である。たとえば,ラテン語のpがドイツ語や英語のfの発音に対応するというような例がある:
pater (ラテン語) → Vater(ドイツ語),father(英語)
こういう音韻の対応がみられると,ラテン語やドイツ語や英語の間には母娘・姉妹関係が成立していることを理解でき,印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)という言語家族があるということを実感できる。
で,ウラル・アルタイ語(語族?)に関して「音韻法則」はどうか?
ウラル語族(フィンランド語やハンガリー(マジャル)語)内部では基礎語彙の対応表がまとめられている。アルタイ諸語においては音韻・基礎語彙の対応表をまとめようという努力が続けられているが,苦戦中。
というわけで,「音韻法則」でアプローチする限り,ウラル語族はともかく,アルタイ「語族」をまとめ上げたり,さらにウラル・アルタイ語族として大きなグループを形成することは無理そうである。
しかし,著者は「音韻法則」だけでアプローチすることには批判的である(「『青年文法学派』の精神が乗り移った」という表現で揶揄している)。
「単語やオトはちがっても,同じ方法で考えたことを表現する。――これが類型論がとりあげた問題」(185頁)と述べ,音韻や語彙ではなく,思考形式や表現の仕方で見れば,ウラル・アルタイ語(語族?)という言語グループを形成しうると考えている。
類型論で取り上げられる表現の仕方の例としては,所有の表現(印欧語風に「○○を持つ」と言うのか,「○○がある」と言うのかという違い)が挙げられている。具体的に言えば:
"I have a sister."
と言うのか,
「私には妹がいます。」
と言うのかという違いである。
ウラル・アルタイ語(語族?)に属すると考えられる言語では後者の表現が採られる。つまり,「ある・いる」という表現はウラル・アルタイ語(語族?)の特徴ということになる。
※本書ではロシア語(印欧語)でも後者の表現が採られていることが紹介されている。ウラル・アルタイ系民族に囲まれたロシア人が,ウラル・アルタイ語の影響を受けたのだろうというのが著者の説。
※※ ちなみにネパール語(印欧語)でも後者の表現であることを老生は知っている(参考)。ネパールのまわりにウラル・アルタイ系民族っていたっけ?
ということで,「類型論」の立場から近年の「音韻法則」アプローチを批判するというのが本書の一貫した姿勢である。
そもそもウラル・アルタイ語という枠組みは類型論から生まれてきたものであるし。
ただし,本書は堅い話ばかりのつまらない本ではない。
「ウラル・アルタイ語」についての基礎知識・研究史,ツラン主義等々,この本が抑えるべき事項は書かれているが,それだけでなく,ニコライ・ポッペ,大野晋,クルマ―ス,といった著名な言語学者たちの面白エピソードや,ヨン様とハングル熱の話,モンゴル出身の相撲取りが日本語を巧みに話す理由,食うに困った東京外語大時代の話などが盛り込まれており(脱線が多いとも言う),楽しく読める本となっている。
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