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2021.04.03

花田清輝の論戦

鳥居哲男氏『わが花田清輝』の下巻,第10章「無敵の必敗精神を貫く論争」では,ゴロツキ論争,モラリスト論争,そして世紀の大論争と言われる,吉本隆明との論争が取り上げられている。

この章でとくに力を入れて記述されているのが,1956年から60年にかけて行われる吉本隆明との論争である。

老生が生まれる前のこの論争については何も偉そうなことは言えないのだが,文学者の戦争責任論を皮切りに,政治と芸術の関係に関して激しい論戦が繰り広げられ,最終的には埴谷雄高が出てきて「吉本の勝ち」と判定が下されたという全体の流れは知っている。

何が争われたのかを知らずに,「花田・吉本論争」というように人名を冠した論争名だけが知れ渡っているあたり(というか,もはや知れ渡っていないのかもしれないのだが),議論の対象よりも,人格とレトリックこそが重要だったと言えるのではないだろうか。

それはさておき,鳥居氏は,好村冨士彦氏の『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』をベースに,埴谷雄高の行司差し違えを高らかに宣言している。負けたふりをしていたのではないかというわけである。

好村氏が引用し,鳥居氏も引用している花田の一文がゾッとする。

「つまり,一言にしていえば,わたしは,相手をたえずよろこばせながら,いつの間にか,相手を破滅させてしまいたいのである」

なんという意地悪爺さん。

公家の使った,位打ちのような技か?

好村氏が指摘する吉本隆明の知的頽廃が花田清輝の完全犯罪の成功を立証しているように見えるからまあ恐ろしい。

(吉本ファンは知的頽廃などとは思わないだろうが,コム・デ・ギャルソン着て"an・an"(1984年9月号)に登場し,庶民でもインテリでもないものになり,悪い意味で超時代的になっちゃったあたりを見るとそんな気がする。ここ参照。ちなみにコム・デ・ギャルソン=川久保玲の方が高い思想性を誇る。)

『わが花田清輝』の上下巻を通して見ると,花田清輝が論争を挑むのは論争相手を見込んでのことで,むしろ敬意や激励に近いことが分かる。花田のレトリックがややこしいので,読み間違えると単なる難癖になってしまう。吉本が花田の意図をわかって応じていたらすごい芝居なのだが,そうじゃない可能性が高い。

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コメント

長らく新しく購入したパソコンの調子がおかしくて使用しなかったのですが、たまたま本日、試してみましたら開いてくれたので「わが花田清輝」の下巻の紹介をしてくださっているのを、拝読することが出来ました。ありがとうございます。当方は、昨年から高齢のため、ほとんど執筆作業がでいないような状況にありますが、的確なご紹介を頂いて、また残っている「風と光と波の幻想―アミターバ坂口安吾」第二部戦後篇を書き継ぐ気持ちにさせていただきました。感謝申し上げます。いつ、書き上げられるか、まったく先が見えませんが、頑張ってみます。本当にありがとうございました。御礼の遅れましたことを、お詫び申し上げます。なお、私のEメールアドレスが変更になり、torii@raboku.netになりましたことを申し添えます。

投稿: 鳥居哲男 | 2023.02.04 15:02

鳥居哲男様
コメントをありがとうございました。
執筆は過酷な作業であろうと拝察いたします。ご無理なさらぬよう,よろしくお願いいたします。

投稿: fukunan | 2023.02.13 14:58

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