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2021.02.27

二冊の『大衆の反逆』

ここまで佐々木孝訳『大衆の反逆』(岩波文庫,2020年)に触れてきたが,実は老生の手元にはもう一冊の『大衆の反逆』がある(もちろん世の中にはほかにもいくつかの訳書がある)。

桑名一博訳『大衆の反逆』である。いまから30年前,1991年に白水社イデー選書の一冊として上梓された。

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大きな違いとしては桑名訳では「イギリス人のためのエピローグ」が省かれていることが挙げられる。桑名は「解題=訳者あとがき」で

「現在刊行されている版のなかにはさらに『イギリス人のためのエピローグ』(Epilogo para ingkeses, 1938)を付するものもあるが,その中心になっている『平和主義に関して』と題する小論は元来が独立した別個の論文なので,ここには強いて収めなかった。」(桑名訳『大衆の反逆』259ページ)

と述べているのだが,佐々木訳に収められている「イギリス人のためのエピローグ」を読むと,「大衆の反逆」の本文からの流れがあるので,カットしない方が良いように思った。

両訳を比較すると,約30年を経た佐々木訳の方が文章が柔らかく読みやすいように感じた。

「11『満足したお坊ちゃん』の時代」の最後の段落を比較してみよう:

「りっぱに組織された世界に生まれ,しかもその便宜だけを見て危険を見ようとしないこうしたタイプの人間は,ほかの態度をとろうとしても無理だろう。環境が彼を甘やかすからである。というのは,環境が『文明』――つまり一つの家庭――だからであって,『親元にいる子供』は自分の気まぐれな性質を捨て,彼よりもすぐれた外部の審判に耳を傾けるような気にならないし,いわんや,自分自身の運命の非情な根底に触れる義務など感じないからである。」(桑名訳,155ページ)

「あまりにも見事に組織化された世界に生れ落ち,その世界から危険ではなく便益だけを受け取るこの種の人間には,それ以外の身の処し方しかできなかったのである。そして周囲世界が彼を甘やかす。なぜならそれが『文明』――つまり一つの家庭――だからなのだ。『いいとこの坊ちゃん』は,彼を移り気な気質から抜け出させようとするもの,彼より上位の外部からの要請に耳を傾けるよう彼を励ますものに対して何も感じない。ましてや彼自身の運命の容赦なき根底に触れるよう強いてくるものにはなおさら何も感じないのだ。」(佐々木訳,195~196ページ)

「満足したお坊ちゃん」の時代について述べるのだから,「親元にいる子供」よりも「いいとこの坊ちゃん」の方が相応しいだろう。

桑名訳では第5章,第6章,第8章のタイトルを「統計的な一つのデータ」,「大衆人解剖の第一段階」,「大衆人はなぜあらゆることに介入するのか? しかも暴力的にのみ介入するのか?」としている。

これに対し,佐々木訳では第5章,第6章,第8章のタイトルを「一つの統計的事実」,「大衆化した人間の解剖開始」,「大衆はなぜ何にでも,しかも暴力的に首を突っ込むのか」としており,より日本語らしい表現となっていると思う。

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