梨木香歩『海うそ』を読む
2年ほど前に岩波現代文庫に入った小説,梨木香歩『海うそ』を読んだ。
昭和の初めのひと夏。人文地理学を専門とする若い学者・秋野は南九州の離島「遅島」を訪れる。かつて遅島では修験道が栄えていたが,明治に起こった廃仏毀釈の嵐によって,僧伽藍摩は破壊しつくされた。うっそうとした森林の中に点在する遺構によって,往時の隆盛がしのばれるばかりとなっていた。
カモシカ,野生化したヤギ,ミカドアゲハ,リュウキュウベニイトトンボ,アカショウビン,クイナ,アコウの巨木,珊瑚樹,ミツガシワ,イタヤカエデ,ウバメガシ等々豊かな動植物相,そして島の人々の暮らしぶりに秋野は魅了されていく。
とくに,島の若者・梶井君とともに遅島の山中を巡った一週間は,秋野にとって忘れられない体験となった。
そして50年が経過する。80を迎えた秋野は遅島を再訪する。そこで目にしたものは観光開発によって変わりつつある遅島の姿だった……。
この小説の舞台となる遅島は架空のものである。しかし,南九州の離島ということで思い出したのが,3年前に訪れた甑島のことである(参照)。ひょっとしてと思って,巻末の参考文献リストを見ると,甑島の学術調査報告書が含まれていた。著者が遅島の自然を構想するにあたって甑島を意識したことは間違いなかろう。
若き日の秋野が遅島を訪れるきっかけとなったのは,亡くなった師が残した調査報告書だった。師のみならず,両親,許嫁を相次いで失った秋野は,藪にうずもれていく寺院の遺構を思い浮かべ,そこを訪ねたいと思ったのである:
「決定的な何かが過ぎ去ったあとの,沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや,時間というものの本質が,少しでも感じられるような気がした」(17頁)
実際にこの島を訪れ,野山を巡り,人々と対話することによって秋野は「人の営みや,時間というものの本質」についての思索を深めていく。
例えばこんな感じだ:
「梶井君が熱心にこの道行きについてきてくれるのには,本人も意識しないでいる,「なぜ,自分はこの島にいるのか」という哲学的問い解明への,静かな熱情の後押しもあるのかもしれない,と,少し上記した彼の横顔を見ながら思った。
ひとは皆,気づけば生まれているのだ。事前に何の相談もなく,また,生まれる場所育つ場所の選定もかなわず。自分だけでない。父母も祖父母も曾祖父母も,生まれるに際しての選ぶ自由なくここに生まれ落ちた。選ぶ自由のあったところにまで遡ってその理由を知りたい,というのであろう。」(103~104頁)
「風など,自分に吹いてくれるな,と思う。こういう廃墟とも山ともつかぬ場所で,風に,吹かれるのは,耐えられない思いがした。けれど無論,寺院がしっかりと確かなもので,数百年もの間連綿と続き得た堅固さを持ち,誰もそれの存続を露とも疑わぬ日常のなかで吹かれる風は,これとは全く違ったものだっただろう。」(133頁)
こうした思索のプロセスを秋野とともに体験しようと思えば,本書をゆっくり秋野と同じようなペースで,例えば各章を一夜ずつ読んでいくと良いだろう。著者による動植物や天候の描写は見事で,鳥の声,日差しの強さ,亜熱帯の温湿度が伝わってくるようだ。
さて最後まで触れることを回避してきた「海うそ」とは何か?
それは,ある自然現象に付けられた名前で,本作を3分の1ぐらいまで読み進めれば答えが明かされる。しかし,真に重要な意味を持つのは本作の末尾である。秋野の半世紀の思いが「海うそ」に収斂していく。
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