『宇部の散歩道』を練り歩く
古書店「ひかり書店」の郷土史コーナーで『宇部の散歩道』という冊子を購入した。昭和60年に宇部市国民健康保険が発行したもの。
健康増進のために散歩をしよう,という意図で発行されたものである。
35年前の冊子なので,掲載されている当時の地図と現状とはかなり異なる。
当時無かった道路が今は出来上がっていたり,かつては農地だったところが住宅地に変わっていたりする。
この冊子に記載された散歩道沿いの史跡・道しるべは今どうなっているのか?
それを確かめようと近所をうろうろしてみた。
この冊子に掲載されている「小羽山コース」を時計回りに歩いてみる。
すると,東小羽山のはずれに「西山の道しるべ」は今も残っていた。
良く読めないが
東 岐波井関木田吉見
西 岩ケ鼻大小ヤ末信
と書いてあるようだ。
この道しるべを見たのち,緑陰の小道を南下すると「人麿様」という社が現れる。
「人麿様」とは柿本人麻呂のこと。文化14年(1817年)に赤痢が流行した時,琴崎八幡宮の神主が石見(益田沖合の島が人麻呂終焉の地と言われる)から人麿大明神を勧請し,病魔を退散させたという。
その後,天保9年(1838年)にこの地域(西山)に疫病が流行した際,人麿大明神をこの場所に祀ったのだという。
それにしても人麿(平安以降はひとまる,と読んだらしい)が,「火止まる」という読みから火難防止,「人生まる」という読みから縁結び,夫婦円満の神として祭られているとは知らなかった。
人麿社を離れてさらに南下すると住宅地に至る。そこには「西山のお地蔵様」が祭られている。
このお地蔵さんに向かって右に曲がれば,その先に竹藪がある。
竹藪の中には「ひんがん寺跡」という遺跡があるらしいのだが,その手前が私有地となっており,近づくことはできなかった。
『宇部の散歩道』には
「ひんがん寺といわれたお寺もむかしの堀をのこすだけでどういう漢字で書かれていたのかも判明しない。」(同書81頁)
と記されている。
「ひんがん寺」とは何か?「悲願寺」であろうかなどと想像してみるが,もちろん手掛かりはない。
お地蔵さんを拝んだのち,さらに住宅地を南下すると,畑のわきに「猿田彦大神」と書かれた碑が現れる。
いつのものかわからないが,「道祖神」と同じく道の神,集落の境の神として祭られたものだろう。
さらに南下すれば他のお地蔵さんや道しるべが見られるようだが,とりあえず「猿田彦大神」の碑を確認した後は帰路に就いた。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 梅棹忠夫とモンゴル語(2024.04.10)
- 5月なのに山口オクトーバーフェスト|リターンズ(2023.05.09)
- 旧川上村の民具についての本(2023.01.20)
- 極寒のモンゴルにちょっと行ってみた(2022.12.07)
- 観光列車「〇〇の話」に乗ってきた(2022.08.15)
コメント