バルガス=リョサ『ラ・カテドラルでの対話』を読む
先日,フエンテス『アルテミオ・クルスの死』を読んだ余勢を駆って,ラテンアメリカ文学に手を出している。
今読んでいるのはバルガス=リョサ作,旦敬介訳『ラ・カテドラルでの対話』(岩波文庫)である。
それにしても,ラテンアメリカ文学ってなんでこんなに分厚いんだ?
舞台は1950年代,オドリア将軍による独裁政権下のペルー。
偶然再会した,かつての「坊ちゃん」と「お抱え運転手」,サンティアーゴ・サバラ(Santiago Zavala)とアンブローシオ(Ambrosio)とが安酒場「ラ・カテドラル」で会話をする。その会話の中で複雑で腐敗したペルー社会の構造が見えてくる,という小説。
自由間接話法や複数の時間の交錯など,バルガス=リョサが様々な技法を凝らしていて,これも手ごわい小説である。フエンテス『アルテミオ・クルスの死』の一人称・二人称・三人称の使い分けなんて,むしろ理解しやすいものだった。
自由間接話法については訳者が下巻で詳しい解説をしているので,ここでは時間の交錯についてちょっとだけ触れてみたい。
例文として,サンティアーゴが「サン・マルコス大に入学したとき,アイーダという同級生の女の子に魅了された」という思い出を語っているところをピックアップしてみる:
「君に『夜をのがれて』を持ってきたよ」とサンティアーゴは言った。「気に入るといいんだけど」
「さんざん話してくれたから,読みたくてうずうずしてたの」とアイーダは言った。「わたしはフランス人が中国の革命について書いた小説をもってきたわよ」
「ブーノ街ってのは,旧ヘロニモ神父通りですよね?」とアンブローシオは言う。「あそこのあの家では今でも,あたしみたいな落ちぶれた黒人にも金を配ってくれるんですか?」
「あそこで僕らは試験をうけたんだよ,サン・マルコスに入ったあの年」とサンティアーゴは言う。「僕はそれまでも,ミラフローレスの女の子たちに恋心を抱いていたりしてたけど,ヘロニモ神父通りで初めて本当に恋に落ちたんだ」
「小説じゃなくて,歴史の本みたい」とアイーダは言った。
「ほう,そりゃいいですね」とアンブローシオは言う。「彼女のほうも坊ちゃんのことを好きになったんですか?」
「自伝なんだけど,小説みたいに読めるんだよ」とサンティアーゴは言った。「じきに≪長い刃物の夜≫っていう章で,ドイツの革命の話になる。すごいんだ,じきにわかるよ」
「革命の話?」とアイーダはページをめくってみて,急にその声と目には不信の色が浮かんだ。「でもこのファルティンというのはコミュニストなの,それとも反共なの?」
「彼女が僕のことを好きになったのかどうか,わからない,僕が彼女のことを好きだったことに,気づいていたかどうかも,わからない」とサンティアーゴは言う。「わかってたと思うこともあれば,わかってなかったと思うこともある」
「坊ちゃんにはわからなかった,彼女もわかっていなかった,複雑ですね,こういうことってのは,いつもわかってるものじゃないんですか坊ちゃん?」とアンブローシオは言う。「その女の子と言うのは誰だったんですか?」
(上巻127~128頁)
時制に気をつけないと,サンティアーゴとアイーダの会話にアンブローシオが入り込んでいるように思ってしまう。
そこで,サンティアーゴとアイーダの会話(回想)とサンティアーゴとアンブローシオの会話(現在)とを色分けしてみると次のようになる:
「君に『夜をのがれて』を持ってきたよ」とサンティアーゴは言った。「気に入るといいんだけど」
「さんざん話してくれたから,読みたくてうずうずしてたの」とアイーダは言った。「わたしはフランス人が中国の革命について書いた小説をもってきたわよ」
「ブーノ街ってのは,旧ヘロニモ神父通りですよね?」とアンブローシオは言う。「あそこのあの家では今でも,あたしみたいな落ちぶれた黒人にも金を配ってくれるんですか?」
「あそこで僕らは試験をうけたんだよ,サン・マルコスに入ったあの年」とサンティアーゴは言う。「僕はそれまでも,ミラフローレスの女の子たちに恋心を抱いていたりしてたけど,ヘロニモ神父通りで初めて本当に恋に落ちたんだ」
「小説じゃなくて,歴史の本みたい」とアイーダは言った。
「ほう,そりゃいいですね」とアンブローシオは言う。「彼女のほうも坊ちゃんのことを好きになったんですか?」
「自伝なんだけど,小説みたいに読めるんだよ」とサンティアーゴは言った。「じきに≪長い刃物の夜≫っていう章で,ドイツの革命の話になる。すごいんだ,じきにわかるよ」
「革命の話?」とアイーダはページをめくってみて,急にその声と目には不信の色が浮かんだ。「でもこのファルティンというのはコミュニストなの,それとも反共なの?」
「彼女が僕のことを好きになったのかどうか,わからない,僕が彼女のことを好きだったことに,気づいていたかどうかも,わからない」とサンティアーゴは言う。「わかってたと思うこともあれば,わかってなかったと思うこともある」
「坊ちゃんにはわからなかった,彼女もわかっていなかった,複雑ですね,こういうことってのは,いつもわかってるものじゃないんですか坊ちゃん?」とアンブローシオは言う。「その女の子と言うのは誰だったんですか?」
(上巻127~128頁)
回想の会話と現在の会話が交錯しているとごちゃごちゃして混乱するなぁと思ったが,よくよく考えると人間の意識の流れなんてこんなものだろう。
今ここにいて会話しているときに過去のことを思い出すと意識は過去に飛んでしまうわけである。意識は途切れることなく現在にあったり過去に戻ったりする。そういう意識の流れを踏まえたら,こういう文章になるのも道理である。
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