バルガス=リョサ『ラ・カテドラルでの対話』を読む(了)
バルガス=リョサ『ラ・カテドラルでの対話』を読み終えた。断続的に半月かけて。
上下巻合わせて1200頁近くあると思う。「反抗と暴力とメロドラマとセックス」(バルガス=リョサ)で彩られた大作。
最初は独特の文体に面食らった。自由間接話法に違和感を感じたり,「別の時空での会話の断片が別の場面の途中に突然まぎれこんできたりして」(訳者・旦敬介氏による解説,下巻535頁),読み手の頭が混乱するからだ。
だが,こういった語り口に慣れてくると,むしろ読むのが快感となってくるから,習慣というのは恐ろしい。異なる時空の会話のつなぎ合わせは,映画におけるモンタージュ,フラッシュバックのような効果があり面白い。
前にも書いた(参考)が,サンティアーゴ,アンブローシオ,ドン・フェルミン,カヨ・ベルムーデス,オルテンシア(ムーサ),アマーリア,この6人の言動を追いかければ迷子にはならない。
下巻の最後は,この小説の起点ともいうべきサンティアーゴとアンブローシオの対話の場面に戻ってくる。
零落した二人,とくに何もかも失って,長い長いその日暮らしを続けているアンブローシオのセリフがいい(サンティアーゴも生活に困窮しつつあるが,記者としての仕事はあるし,家では妻アナがチュペ(ペルー風チャウダースープ)を作って待っており,まだ完全には零落してない)。
この対話の時点で,アンブローシオは狂犬病対策のため野犬収容所に臨時雇用されている。サンティアーゴがアンブローシオに今の仕事が終わったらどうするのか,と聞く。アンブローシオは答える。
ここかしこで働いて,もしかしたら,しばらくするとまた狂犬病が流行して,また呼ばれるのかもしれないのだった,そしてその後はまた,ここで,あそこで,そしてその後は,そうですね,その後はもう死ぬのではないのだろうか,違いますかね坊ちゃん?(下巻523頁)
ここで小説は終わる。
映画だったら数秒間の沈黙の後,暗転してエンドロール。そうそう,老生はこの小説を頭からしっぽまで映画として読んだのだった。
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