(続)佐藤進一『日本の中世国家』を読む
先月取り上げた佐藤進一『日本の中世国家』(岩波文庫)の件の続き。
昨今はあれやこれやで忙しく、読み終えるのにひと月かかってしまった。
以前にも触れたように、
「律令国家解体後に生まれた王朝国家と、東国に生まれた武家政権。中世国家の『二つの型』の相剋を読み解く」
という内容であるが、独立した2つの政権ががっぷり四つに組み合って闘うようなわけではなく、先に成立した王朝国家と、その分肢である武家政権とが、距離を保ったり依存しあったりしながら、最終的には武家政権を軸とした統一権力としてまとまっていく過程を描き出している。
今、分肢という言葉を使ったが、この本の内容を踏まえると鎌倉幕府は王朝国家あっての政権である。
のちに鎌倉幕府と呼ばれる武家政権には、創成期から二つの対立路線があった。一つは源頼朝によって代表される王朝再建論であり、もう一つは平広常によって代表される東国独立論である。
治承寿永の動乱、いわゆる源平合戦の間、頼朝と王朝側との間で何回か折衝が行われた。その中で、王朝国家が持つ国司権を超えて武家が一部の地方を統治する権力が公的に認められるようになった。国政史上初の権利であり、それを許可した宣旨を寿永二年十月の宣旨という。
治承四年挙兵後三年にして、伊勢から常陸に至る東海道十四カ国、美濃より下野に至る東山道五カ国、合計十九カ国に及ぶ地域を実力支配下に収めた頼朝権力は、寿永二年十月の宣旨によって、既存の統一国家権力である王朝から正式に国家権力の分肢たる地位を認められた。(94ページ)
ここで東国独立論は遠ざけられ、頼朝を中心とする武家勢力は王朝の分肢としての政治制度を整備していく。
面白いのはこの新しい政治制度は、国家権力の一部を頼朝に委譲し、頼朝は私兵集団である御家人たちを駆使して執行するという仕組みだということである。
そして、この時に気をつけなくてはならないのは、王朝から頼朝に認められた権力は、頼朝個人に認められたものに過ぎないということ、そして御家人たちの頼朝に対する忠誠も、頼朝個人に向けられたものであるということである。
武家側としては王朝国家から委譲された権力を頼朝一代ではなく恒久的なものとするべく、様々な手を打たないといけない。それが征夷大将軍補任であったり、政所を中心とする政治機構の整備であったり、さらに皇族を武家勢力のトップに置くという企てだったりする。
とくに本書で注目するべきは、皇族(あるいは皇族に近い貴族)を武家勢力のトップに置くというアイディアであって、頼朝の娘の入内計画や実朝の正妻選定計画など、様々な挫折を経た後、皇親将軍の迎立という形で実現する。これを著者は両主制(政権トップ=将軍と軍事団体トップ=武家の棟梁の二つの主)と呼ぶ。鎌倉幕府の一つの特徴であるが、後鳥羽上皇が見抜いたように、両主制は王朝国家と鎌倉幕府を繋ぐカスガイともなれば、両者を分裂させる原因ともなった。そしてまた、将軍と執権の対立という形で幕府内部の紛争を引き起こす原因ともなった。
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