萩城下「猫町(ねこのちょう)」を歩く
この日曜日,萩の城下町を訪れたのは,おこま嬢のことと関係ないとは言い切れない。
≪出来事一つ一つは無関係なのだが,それらに関係というか運命を見出すのが人間なのだ≫
ということをミラン・クンデラが『存在の耐えられない軽さ』の中で語っていたように思う。
おこまはオリンピックイヤーにわが家にやってきて,その次のオリンピックイヤーにわが家から去った。
前のオリンピックイヤーは2016年であり,おこまをわが家に迎えて間もない2月11日に萩城下町旧久保田家で雛飾りを見物した(おこまを連れて行ったわけではないが)。
そして,延期になったとはいえ,次のオリンピックイヤーである2020年の2月11日におこまは逝去した。そして四十九日を迎える前日に再び萩城下旧久保田家で雛飾りを見物することにしたのである。
前回,萩城下で雛飾りを見物したときに,「猫町(ねこのちょう)」という通りの名を見たことをなぜか強く覚えている。おそらくその頃,老生の生活の重要な一部として三毛猫おこま嬢が入ってきたからだろう。
今回,その通りの名を確認するべく,ツマを引き連れて城下を巡った。
そして,猫町の名を記した埋め込みサイン(ブロンズ製)を確認した。
なかなか風情のある通りで,こんな壁も見かける。
萩市のウェブページに猫町の由来が記されている。
それによれば,この筋には毛利輝元の家臣・長井元房の屋敷があったという。輝元が死んだ際,長井は主君を追って殉死した。長井は生前ある猫をかわいがっていたのだが,この猫もまた,主人を追って主人の墓前で死んでいたという。この猫にちなんで筋の名がつけられたのだという。
猫町を抜けると再び埋め込みサインに猫町の名を確認することができる。
先ほどの埋め込みサインには椿の花が描かれていたが,ここには夏みかんが描かれている。
萩は夏みかんが名産である。
明治維新後,萩に残った士族たちは禄を失い困窮していた。この窮状を救うべく始まったのが,夏みかんの栽培である。
旧城下の空き地は夏みかんの畑となり,旧士族の生活を支えるとともに,城下町の敷地割を維持し,現在まで街並みを保つこととなった。
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