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2020.02.12

突然のお別れ

突然のお別れ。

2020年2月11日,愛猫おこま嬢が亡くなった。

……

2016年1月24日,雪の日のことだった。

うちの庭に居ついた野良のおこまを正式に飼い猫として我が家に受け入れた。

それから4年あまり。

手間のかからない,トイレの失敗が一回もない,おとなしく賢い猫だった。

ねこのかわいらしさ,素晴らしさを教えてくれた。

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いままでありがとう。おこまちゃん。

 

 

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コメント

こんばんは。
お力を落とされていることと思います。

愛猫、愛犬との別れは本当に堪えます。もしかすると親しい人を見送るとき以上かもしれません。少なくともわたしには、そう思えます。


以下は独り言です。

家族としてともに生活してきた動物が去ってゆくとき、なぜ人が去るときよりも一層つらいのでしょうか。いくたりかの経験ののちわたしにとって、そうしたつらさの根幹は無力感であると気づきました。
わたしは彼(わたしの場合は犬)と十分意思疎通できていただろうか。彼は私とともに生活して幸福だっただろうか。彼が苦痛を訴えていたとき私はそれをくみ取れただろうか。死の間際に彼がなにを求めているのか知りえただろうか。
なにもできていなかったのではないかという無力感にさらされるのです。
人と人の間の意思疎通も実際のところなにも保証するものはなく、両者は近しい概念を共有しているかのように思える、というあたりがせいぜいのところでしょう。
ではなぜ彼らを見送ったときに一層強い無力感に襲われるのか。考えてみた結果、それはわたしが人と動物はやはり異なるのだ、彼らは異なる言語ゲームに属しており、その差を無視することはできないと、わたし自身が本心ではそう思っているからだ、ということに行き当たりました。

そのわたし自身の推測にわたしは強い違和を覚えるのです。けしてそんなことはなく、わたしは人と同様に彼とも不確かながらもコミュニケーションを行い、意思や感情の交感を行いえた。それは私と彼にとって豊かな経験だったはずだ。
これは人間が一方的に納得しているだけのエゴイズムなのでしょうか。わたしはそれに結論を出せずにいます。そうだとも言えるがそう言いたくない。そうでないとも言えるが確証が持てない…
感情から自由になることはできないが、感情を考察することはできるというスピノザに倣ってつまらないことを書きました。

お目汚し失礼いたしました。

投稿: 拾伍谷 | 2020.02.13 23:57

お気遣いありがとうございます。
別記事にありますように,おこまを荼毘に付し,少し気持ちが落ち着いてまいりました。

ペットとの別れに関して,コミュニケーションや言語ゲームの視点からの考察は興味深いと思いました。そこから私は「ニーチェの馬」のエピソードやそのエピソードに触れたミラン・クンデラ『存在の絶えられない軽さ』内の考察まで思いを巡らせました。

投稿: fukunan | 2020.02.14 02:13

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