【大学改革失政】佐藤郁哉『大学改革の迷走』を読む(下)
佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書)の末尾はこういう文章で結ばれている:
「お花畑的なユートピア幻想に惑わされることなく,また次から次へと繰り出されてくるカタカナ用語やアルファベットの頭文字からなる借り物の改革用語に振り回されずに,地に足のついた改革をおこなっていくためには,徹底したリアリズムで現実を直視し,また,検証をおこなっていくという意味でのEBPM(Evidence-Based Policy Making; 科学的根拠にもとづく政策立案)がどうしても必要になってくるはずなのです。」(455頁)
「徹底したリアリズムで現実を直視」せよ,という主張が出てくる背景には,現在の(ここ30年間の)高等教育行政にリアリズムが欠けているという現実がある。
「お花畑的なユートピア幻想」とは,アメリカの大学は優れている,とか,日本の企業は優れている,とかいう幻想である。この幻想の上に,日本の大学は駄目だから改革していきましょう,という発想が生まれる。
しかし,リアリズムに立てば,こういう幻想は打ち砕かれる。
例えば,アメリカの大学は政府の支出に頼らず,民間企業からの外部資金で研究活動を実施している――という伝説がある。だが,これは事実と異なる。米国の大学は企業からの外部資金を受け入れているが,それを上回るのが,全米科学財団(NSF)や米国国立衛生研究所(NIH)などを通じて配分される連邦政府の補助金である。
人々は単純明快なストーリーが好きなので,米国の大学=善,日本の大学=悪または愚者という勧善懲悪劇の構図が与えられると,事実関係を踏まえずに,日本の大学は懲らしめられるべきである、そうだそうだと首肯する。
また,日本の企業は優れている,だから日本の企業の経営の仕組みを大学に移植すれば,大学経営は改善されるだろう――という幻想がある。たしかに大学経営は現在のままではダメな部分があるだろう。しかし,日本企業の経営はそれほど優れたものだろうか?この30年間,名だたる大企業が凋落し、次々に外資の軍門に下っていったのはどこの国の話だったか?
大学が自らを改革していこうと不断の努力を続けていくことは重要。だが,改革の方向を定めるためには徹底したリアリズムが不可欠である。
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