【大学改革失政】佐藤郁哉『大学改革の迷走』を読む(上)
社会学者がいい仕事をした。
『暴走族のエスノグラフィー』で知られる組織社会学者が,大学審議会「大綱化答申」に始まる約30年間の大学改革が一種の病であることを見抜いた。
文部科学省のお達しの下,原義も適用範囲もわからないまま,シラバスやPDCAやKPIという言葉を無理に駆使して改革に取り組む大学関係者たち。改革を行うこと自体が目的化し,ただ疲弊していく教育現場。この有様を描いたのが本書第1章から第3章である。
大学を舞台とすれば,この舞台の「大道具」はカリキュラム・学生数に応じた教員数・大学の財政・学生への国庫補助といった大学の制度・構造に関わるものである。
大学を改革しようとすれば,これらの大道具に手を付けないといけない。しかし,実際の大学改革ではこれらの大道具には手を付けず,シラバスやPDCAサイクルといった小道具の整備に専念するばかり。これを「改革ごっこ」であると著者は第4章で喝破する:
「これらの大道具,つまり制度的・構造的問題に関する抜本的な改革が非常に困難であるからこそ,中教審や文科省は,そららの問題をいったん棚上げにした上で,それにかわって,もっぱら目につきやすい小手先の『小道具』の整備を大学に対して要求してきたのかもしれません。また,それによって,改革を行っているというポーズを示してきたのです。それが日本では宿痾(長いあいだ治らない病気)となってしまった政策側の『慢性改革病』の主な病因の一つだと言えます。」(『大学改革の迷走』264頁)
「その結果として生じてきたのが,一種の『ごっこ遊び』としての改革です。実際,この本の第1章から第3章にかけて見てきたのは,シラバスごっこ,PDCAごっこ,そして経営ごっこでした。そして,これら三つはそのそれぞれが,より大きな枠組みである『改革ごっこ』の構成要素だったとみることができます。実際,それぞれの『ごっこ』にともなって考案されてきたさまざまな改革小道具――シラバス作成ガイドライン,PDCAチェックリスト,各種のKPIなど――は,その改革ごっこの道具立てだったと言えるでしょう。」(同書264頁)
しかし,「ごっこ遊び」と「改革ごっこ」の間には決定的な違いがある。
まず,「ごっこ遊び」は時間・空間が限定された遊びにすぎないのに対し,大学の「改革ごっこ」は社会,経済,人々の人生に影響を与えるという点。
そして,もっと重要な違いは,「ごっこ遊び」は子供同士の信頼関係の上に成立するのに対し,「改革ごっこ」は文科省と大学関係者の間の相互不信の上で演じられているという点である。
この相互不信の背景に迫るとともに,相互不信から脱却する方法を探るのが本書の第5章から第7章であるが,その話は次回以降。
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