「清廉潔白な国防軍」神話
この7月に上梓された大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)が結構売れていると聞き,小生も読んでみた。
一部のミリタリーファンからは細部について異論が出ているようだが,小生にとっては,「日本の常識,世界の非常識」を知ることができ,収穫の多い本である。
何を言っているのかというと,専門家を除く一般の人々(といっても日本の場合は軍事史や現代史の愛好家ということになろうか)の独ソ戦に対する認識は,日本とドイツ(や米英)とで大きく異なることがわかったということだ。
ベルリンの壁崩壊までの間,西ドイツには"Saubere Wehrmacht"(「清廉潔白な国防軍」)神話というものがあった。
ドイツ国防軍は国家社会主義からは距離を置いた軍事のプロフェッショナル集団であり,戦争犯罪者ではない,という主張である。もっと平たく言うと,国防軍はヒトラーの共犯者ではない,ということである。
日本でいえば「悪いのは陸軍で,海軍は戦争を避けようとした」という海軍善玉史観と似ている。
この神話の流布に大いに貢献したのが,小生の本棚にも鎮座しているパウル・カレル(本名:パウル・シュミット)の『バルバロッサ作戦』や『焦土作戦』である(今は無き学研M文庫)。
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『バルバロッサ作戦』や『焦土作戦』では東部戦線で激突するドイツ・ソ連両軍の状況が克明に描かれており,読む者を圧倒する。困難な状況で奮闘するドイツ軍。邪魔するヒトラー。
パウル・カレルは後々まで,ヒトラーの干渉さえなければ,ドイツ国防軍は巧妙な作戦の展開により,ソ連に勝った可能性がある,と主張している。
パウル・カレルの著書は一部では批判があったものの,西ドイツなど西側諸国では好意的に受け入れられ,成功を収めた。
だが,これらの本の中では,アインザッツグルッペンによるユダヤ人・共産主義者・パルチザンの虐殺への国防軍の関与,また,占領地での食料収奪(飢餓計画="Hunger Plan")といった戦争犯罪については全く触れられていない。
パウル・カレルの評価が一変するのはベルリンの壁崩壊後。東西ドイツ統一,ソ連崩壊などに伴い,膨大な資料が公開されてからである。『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』で触れられているように,プロホロフカ戦車戦など,パウル・カレルの記述に欠陥があることがわかり,一挙に信憑性を失った。
パウル・カレルの著書はもはやまともな資料としては活用されていないようである。パウル・カレルに関するWikipediaドイツ語版の記事にはこんな一例が書かれている:
“Im Mai 2009 untersagten die Inspekteure des Heeres und der Streitkraftebasis die weitere Nutzung von Texten Paul Carells durch Ausbildungseinrichtungen und Truppenteile."
(2009年5月,陸軍総監と戦力基盤軍総監は各教育機関および各部隊がパウル・カレルのテキストを継続的に使用することを禁じた。)
"Saubere Wehrmacht"の言説も1995年5月から始まった"Wehrmachtsausstellung"つまり「国防軍展」の開催によって否定されてしまった。
Wikipediaドイツ語版にはこう書かれている:
"Es wird, obwohl wissenschaftlich unhaltbar, bis heute von Traditionsverbanden und politisch rechtsgerichteten Autoren propagiert."
(科学的には受け入れられないが、今日,伝統主義者や右翼によって主張されている。)
さて,日本はどうかというと,調べたわけではないが,パウル・カレルの著書は独ソ戦の基本文献として読み継がれ,「清廉潔白な国防軍」神話は広く信じられているのではないかと思う。
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