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2019.06.28

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』を読む(その2)

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス: 東洋哲学のために』(岩波文庫)の話の続き。同書所収の講演記録「事事無礙・理理無礙ー存在解体のあとー」を読んだところである。

イブヌ・ル・アラビーの「存在一性論」を華厳存在論によって読み替えるという試み。

ごく自然に読み替えることができるということは,華厳と存在一性論とをヴァリアントとして包含するような東洋思想の根源的思惟パラダイムが存在しているということだろう・・・というお話。

 

◆   ◆   ◆

 

前半は華厳存在論の解説である。

我々の知覚している世界は「事」的世界と呼ばれる。それぞれの物事はちゃんと自立して存在しているように見える。

しかし,物事に境界線があって,それぞれが自立しているように見えるのは言語による妄念である。いわば海面の波がそれぞれ自立して存在しているかのように思うのと同じ。実は海水が時々刻々変化して波として現れているのを見ているのに過ぎない。

海面の波のような泡沫のような存在を「事」と呼んでいるが,その「事」のもととなっている,いわば海水のようなものを華厳 では「理」と呼ぶ。

もっと言えば,「理」というのは,真空(無)であり妙有(有)である「空」の「有」的側面である。「理」が「事」として現れることを「性起」という。

「我々は「理」(「空」の「有」的側面)を切り出して「事」として知覚しているのだ」という2重構造の世界観が華厳存在論である。

 

◆   ◆   ◆

 

後半はイブヌ・ル・アラビーの「存在一性論」 である。

華厳との大きな違いは「理」の世界が二重構造になっていることである。全くの「無」があって,そこから神が自ら顕現するのが第一段階。そして顕現した神が数々の「元型」=「有・無境界線上の実在」=「神名」=個別的「理」として分節するのが第二段階。ここまでが「理」の世界での出来事である。

そして,個別的「理」の感覚的・知覚的「鏡像」として,我々の日常世界に「事」が現れる・・・というわけである。

「イブヌ・ル・アラビーにおいて『神』と『存在』とは,哲学的には,完全な同義語なのですから。そして『存在』とは,この場合,極限的には『無』の暗黒から発出して,光のごとく拡散していく多層構造的『有』を意味します。」(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』113頁)

「『神』と『存在』とは同義語」という表現には痺れる。

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