『チベット仏教入門』を読む|マニュアルとトレーニングもしくは理論と実践
先日,ネパールに行ったときに携えていった本の一つが吉村均著『チベット仏教入門 』(ちくま新書) である。
本書でまず説かれるのは,チベット仏教という特別な仏教があるわけではないということである。にもかかわらずチベット仏教に注目が集まるのは,チベットには古い形の仏教が残されており,それが現代的な問題に向き合うためのヒントとなっているからだと言う。
序章において,ダライ・ラマ法王が自らの大病の体験をもとに慈悲の心の効能について述べたというエピソードが語られている。これなどは,仏教における教えとその実践が,生活の中で起こる危機的状況に対して有効に機能することを示しており,読者を仏教の世界へといざなう優れたエピソードだと思う。
さて,なぜ仏教では経典があんなにも多いのか。その理由が本書で氷解した。
釈尊は相手の理解力に応じて,説法を変えていった。これを「対機説法」というのだそうだ。だから,莫大な経典が存在するわけである。
また,釈尊の教えは「例え」である。仏教の究極の理解は,求道者自らが言葉の上だけでなく,体得して納得するという状態であるので,教えをうのみにするのではなく、それをヒントとして自ら考え,体感する必要がある。
仏教において言語は「月を指す指」である。師が月を指さしているとき,弟子は指先を見るのではなく,その先の月を見なくてはならない。言葉を言葉のまま捉えるのではなく,その意味するところを考えなくてはならない。仏典はマニュアルであり,それをヒントとして実践し理解を深めるトレーニングが必要である。 だが,一人で仏典を読んでいても誤読し,間違った修行をする可能性がある。そこで大事なのが,師の存在である。仏教とは釈尊を最初の教師として連綿と続く師弟の連鎖のシステムである。だから,仏法僧つまり,最初の教師・釈尊、法すなわち経典,そして僧すなわち教師の3者への帰依が重要視されているのである―― 。
――ということで,本書を通して仏教の全体像の理解が進んだ。
だが,経典の理解だけではダメ。実践へと結びつけるのが次のステップである。ルールブックを読んだだけではサッカーはできない。
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