加藤重広『言語学講義』を読む|言語学者のひそかな野望
加藤重広『言語学講義』(ちくま新書)を読んだ。
著者は本書の「はじめに」の中でこう語っている:
「この小さな本では,いまの言語学の全体像を俯瞰しながら,興味深いところや重要な分岐点にさしかかっている議論,新しい枠組みと変化しつつあること,古い知識をどう更新すべきか悩ましい問題などを,一見ランダムなやり方で取り上げることで,『言語学の今』を浮かび上がらせてみたいと考えている」(5~6ページ)
「一見ランダムなやり方で」というのはまさにその通りである。本書は,音韻論,形態論,統語論,意味論,語用論といった言語学の基礎分野について順を追って解説した本ではない。あるいは19世紀の歴史的比較言語学から20世紀前半の共時的記述的研究(ソシュールやヨーロッパ構造主義言語学等)を経て20世紀後半の理論言語学(チョムスキーの生成文法等)へと至る言語学の歴史を語った本でもない。
ではどのような構成になっているのかというと,第1章では社会言語学,第2章では語用論の視点から社会の様々な現象にアプローチする事例を示し,第3章では近代言語学(とくに印欧語学)の誕生とその功罪について述べ,第4章では言語学が自然科学であり続けようとするがための呪縛について語り,第5章ではこれまでの言語学における大前提を疑い,あらたな言語学の可能性を模索する,といった構成になっている。
このような構成であるため,各章・各節で取り上げられる話題,例えば「ネオ方言」「ヘブライ語の復活」「発達障害と言語学」「役割語の誕生」といったトピックはそれぞれとても面白いのにもかかわらず,読み進めている間は迷路をさまよっているようで,全体として著者が言いたいことがなかなか見えてこない。
だが,「おわりに」に到達し,著者の基本姿勢が「言語学の枠組みの見直し」と「言語研究全体の紐帯の構築」の二点であることがわかると,著者のひそかな野望が見えてくる。
それは言語学ではもっと規範的な研究活動をやっていい,ということ。そして,もっと積極的に「言語政策」に関わっていい,ということである。
著者は「記述的」という言葉と「規範的」という言葉を対比的に用いている。第4章に定義が書かれているのでそのまま引用する:
「記述的とはdescriptiveの訳語で『主観を交えずに事実をそのまま書き留めるような』姿勢をとることで,規範的とはprescriptiveの訳語で『何が理想的で望ましいかの判断を示すような』姿勢をとることを意味している。」(186ページ)
これまで言語学者は科学主義の立場から「記述的」な姿勢をとってきたわけである。上述した「言語学が自然科学であり続けようとするがための呪縛」というのがそれ。だが,十分な判断の論拠があるのであれば,正否の判断を行うような「規範的」な姿勢をとっても良いのではないか,というのが著者の意見である。この姿勢は頁を遡って第1章第4節の「政策としての言語」に関わってくる
日本語であれ英語であれ,日常生活にどの言語を利用するのかというのは個人の自由である。しかし,日本語で話している者同士がお互いに言っていることを理解できないとしたら大問題である。「正しい日本語」とは何かという問題が生じる。使用言語の選択とそれぞれの言語の管理は別々の次元の問題である。後者,言語の管理に言語の教育を加えたものが「言語政策」と呼ばれる。
言語政策には,文法・語彙・表記・使用文字の管理,さらにこれらをどう教育するかということが含まれる。英語教育の広がりや外国人材の登用といった社会経済の変化の中で,そろそろ日本語の言語政策について議論するべきときではないか,というのが著者の意見である。
それはごもっともだが,「アーリア民族」問題や「皇民化政策」といった,過去に言語学が関わった災禍を踏まえると,多くの言語学者は「規範的」な姿勢をとることに躊躇せざるを得ないのだろうと思う。これは小生の感想。
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