丸川哲史『竹内好』を読む
丸川哲史『竹内好』(河出ブックス)を読んでいるところ。
本筋と離れたところで面白いと思ったことをメモしておく。
「支那」と「中国」
戦前から戦中にかけて,日本人は中国のことを「中国」と呼ぶ一方で「支那」とも呼んでいた。戦後,ほぼ自動的に「支那」という呼び方はなくなり,「中国」に統一されていった。
「支那」という言葉は,"China"と同様,「秦」に由来する呼称で,本来は中立的なものだった。ところが,近代以降の日中関係の中で,しだいに侮蔑的な意味を含むようになっていった。それが,日本が敗戦するに至り,「支那」という呼称はまずいということで,出版界では,なし崩し的に「中国」という呼称に書き換えられることとなった。
しかし,「支那」が安易に「中国」に書き換えられる事ことに対して,竹内好は批判的だった。
竹内好の考えを本書の著者は簡潔にまとめている:
「『支那』というこのマイナスの負荷を帯びてしまった言葉を通じて中国を理解し切ること,『支那』という言葉が十分に消化されるまでそれを使い切るという態度を表明した。すなわち,そのことで日本人として中国に向かい合う主体性を確保しようとしたように読める。」(丸川哲史『竹内好』,23ページ)
だが,戦後社会の変化は歩みを止めず,竹内好もまた「中国」という呼称を受け入れながら言論活動を続けざるを得なくなる。
ちなみに,「支那」という呼称が主流を占めていた時代に竹内好が所属していた団体の名称は,「中国文学研究会」だった。
「何かのための文学」と「そうでない文学」
日本では,娯楽や教養や啓蒙を目的とした文学を「大衆文学」とし,その対極に「純文学」を据える。
中国では「大衆文学」に当たるものとして「通俗文学」があるが,「純文学」に当たるものが無い。
「通俗文学」の対極にあるのは「『何かの為にする文学』ではない文学」である,とするのが竹内好の考えである。その例として魯迅の文学がある。
「『何かの為にする文学』ではない文学」であれば,やはり日本の「純文学」ではないか,と思われるが,日本の「純文学」は非政治性を特徴とする。ところが,魯迅の文学は政治との関わりを持ちつつも文学としての自覚もある。そういった文学のことを本書では「まじめな文学」という言葉で表している。
以下,竹内好『魯迅』の文章の孫引き:
「魯迅の文学は,現われとしてはいちじるしく政治的であり,彼が現代中国の代表的文学者であると称されるのもその意味においてであるが,その政治性は,政治を拒否することによって与えられた政治性である。彼は『光復会』に加わらなかった。」(丸川哲史『竹内好』,42ページ。原文は竹内好『魯迅』,23ページ)
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 紀蔚然『台北プライベートアイ』を読む(2024.09.20)
- 『ワープする宇宙』|松岡正剛に導かれて読んだ本(2024.08.23)
- Azureの勉強をする本(2024.07.11)
- 『<学知史>から近現代を問い直す』所収の「オカルト史研究」を読む(2024.05.23)
- トマス・リード『人間の知的能力に関する試論』を読む(2024.05.22)
「中国」カテゴリの記事
- 『馮道』読んだ(2024.07.24)
- ダイ・シージエ『バルザックと小さな中国のお針子』を読む(2024.05.07)
- 納豆が食べたくなる本|高野秀行『謎のアジア納豆』(2023.04.20)
- 王独清『長安城中の少年』を読む(2021.06.04)
- 中国語1週間(第1日~第3日)(2020.07.14)
コメント