明治のころのネパールに関する知識
明治から昭和初期にかけて,ネパールに対する日本人の知識はどの程度のものだったのか知ろうと思って,国立国会図書館のデジタルコレクションを眺めているところである。
鳥谷部銑太郎編『世界之帝王』(1905(明治38)年6月15日,博文館発行)という本に当時のネパール国王のことが載っていたので,丸ごと引用する。
ネパールはヒマラヤ山脈中の独立王国にして,その称号はマハラジャ,ドヒラジャ,ビルチビ,ビル,ビクラム,シャムセル,ユング,バハヅル,サー,バハヅル,シャムセル,ユングという長き語なり。彼は1875年8月8日生まれて,同81年5月17日即位せり。国体は軍人政治にして,主権は王の掌中に帰せど,実際は宰相ビム,シャムセル,ユングの握るところたり。
この国はかつてシナに属したれど,後独立し,また英と戦いしかど1815年以来は,英と親交を結べり,常備兵は2万5千あり。
この国を訪いし者は,宮殿はじめ,仏教寺院は言わずもあれ,普通の建築にても,装飾に意を用うること非常なるに驚かざるを得ず。王はシナ皇帝,及びダライ・ラマと同年輩にして彼を訪いし英国人の記するところによれば,ネパール人中には稀に看る程の好男子にして,知識もまた進み,英語を語ること甚だ自由なりと。
王は万事英国風に倣わんと欲し,国民もまた王に倣うて,英国を模範とす。ロバート伯は,かつてネパール王宅に招かれたり。当時の記事によれば,王は欧州の事情を研究すること実に深し。国務大臣は,政治のごとき俗務を,王の耳に入るるは,彼の神聖を汚すものなりとて,ことごとく自身らにて処理すとか。
王は青年の頃,4人の妃を迎えたり。このうち2人は宰相の娘なりという。
(鳥谷部銑太郎編『世界之帝王』, pp.216 - 217)
さて,この文章に出てくる王様「マハラジャ,ドヒラジャ,ビルチビ,ビル,ビクラム,シャムセル,ユング,バハヅル,サー,バハヅル,シャムセル,ユング」とは,ネパール第7代国王プリトビ・ビール・ビクラム・シャハ (Prithvi Bir Bikram Shah पृथ्वी बीर विक्रम शाह)のことである。「マハラジャ,ドヒラジャ」は王の称号である。細かい話だが,この本では生年月日が1875年8月8日となっているが,正確には8月18日である。
当時は王家を差し置いて,ラナ家が独裁政治をしていた時代である。宰相「ビム,シャムセル,ユング」とはビール・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ (Bir Shamsher Jang Bahadur Rana वीर समसेर जङ्गबहादुर राणा)のことだと思われる。ただし,ビール・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナが宰相を務めていたのは1901年3月までのことで,この本が発行された1905年には弟のチャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ (Chandra Shamsher Jang Bahadur Rana चन्द्र समसेर जङ्गबहादुर राणा)が宰相を務めていた。
国王プリトビ・ビール・ビクラム・シャハはラナ家から実権を取り戻そうと試みて,結局宰相チャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナに毒殺されたという話だ。
王家が実権を取り戻すのは,国王プリトビ・ビール・ビクラム・シャハの遺児トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ (Tribhuvan Bir Bikram Shah त्रिभुवन वीर विक्रम शाह)の代,1951年のこと。カトマンズのトリブバン国際空港や名門トリブバン大学の名はこの王の名から取られたものである。
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