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2018.04.27

南北首脳会談にちなんで:再読『「大日本帝国」崩壊』

去年の終戦記念日に加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書2015,2009年7月)を読んだわけである(参照)。

本日,南北首脳会談が開催されているのだが,南北分断に至る原因の一端は当時の宗主国日本が担っていた。そこで,同書第2章の「京城―幻の「解放」」を再読したわけである。

以下はそのあらすじ。


1945年8月9日,ソ連は満洲に侵攻するとともに朝鮮の咸鏡北道・羅津への爆撃を行った。これはこの時点では朝鮮への侵攻を意図したものではなく,満洲にいる関東軍の退路を断つための支援攻撃であった。

この攻撃に朝鮮総督府は大慌て。日本が降伏したら,一気にソ連軍がソウルに入り,政治犯を釈放,親ソ政権が樹立されるものと恐れおののいた。

そこで,朝鮮総督府が考えたのは,朝鮮人リーダーたちに権限を移譲し,治安維持,とくに在朝日本人の安全を確保することだった。

この案に呂運亨ら朝鮮人リーダーたちも応じ,そうしてできたのが,「朝鮮建国準備委員会」(建準)である。

総督府と建準が共同で終戦処理に当たることができれば理想的なのだが,事態はそれを許さなかった。総督府の消極性に加え,ソ連の朝鮮北部への侵攻が始まり,総督府が地方機関を掌握できなくなってきた。機能不全になった総督府は事態の収拾を,出来て間もない建準に丸投げした。

建準は建準で問題があった。終戦直後,朝鮮では政治団体が雨後の筍のように乱立・対立し,建準はこれらをまとめることができなかった。

総督府も建準も頼りにならないということで,治安維持に乗り出したのは当時,朝鮮に展開していた第17方面軍(朝鮮軍)である。在朝日本人の保護に関しては,これまた総督府を頼れないということで,在朝日本人らが自ら「日本人世話会」を組織し,これを第17方面軍がバックアップするという体制ができた。ここまでが終戦後数日間の動き。

ここに至って,総督府は建準を見限り,あとは米軍にすべてを委ねることに方針転換。戦後処理プロセスから朝鮮人は外された。9月9日に総督府で日章旗が下ろされ,星条旗が翻ったのは象徴的であった。

米軍政下では呂運亨,安在鴻宋鎮禹金九といった独立運動の闘士たちによる争いが続いていたが,最後に米軍に選ばれたのは在米生活が長く,英語にも堪能な李承晩だった。残りの人々は権力闘争の中で暗殺されていく。

ここまでの話は朝鮮半島の南側の話。北側ではソ連軍主導で「奇妙な権力移譲」が行われた。ソ連軍によって,現地の日本軍および官僚の幹部が逮捕されると,新たに行政の担い手として朝鮮人たちによる「平安南道人民政治委員会」が誕生した。南側と異なり,北側では朝鮮人が当事者として行政に関わることができたが,内実は複雑だった。人民委員会は建準系と共産系との相乗り組織だったが,次第に共産系が主導権を握るようになり,さらに共産系も,ソ連軍の後押しを受けた謎の人物,金日成が掌握するようになる。


◆   ◆   ◆


ちなみに,南北分断を決めた38度線のことだが,本書によれば,これは8月10日から翌日にかけてワシントンで開催されたSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)で,朝鮮半島に関心を持たない軍人によって,思い付きのように引かれた線なのだそうだ。

当時,日本軍は朝鮮北部で頑強にソ連軍に抵抗しており,スターリンの関心は朝鮮半島ではなく遼東半島にあったという。朝鮮総督府と日本軍とが強力に朝鮮半島の保持に努めていたら,歴史は変わったかもしれないと愚案する。

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