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2018.02.25

石井遊佳『百年泥』を読む

ツマが芥川賞受賞作2作が掲載された「文藝春秋」2018年3月号を買ってきた。

とりあえず石井遊佳『百年泥』を読んでみた。

あらすじはこんな感じ:

借金返済のため,インド・チェンナイのIT企業に日本語教師として送り込まれた"私"。チェンナイに来て3か月半経ったところで,100年に一度と言われる大洪水に遭った。

洪水から三日目,ようやく水が引き,"私"は泥を踏みしめながら勤め先に向かう。勤め先に辿り着くためには,アダイヤール川に架かる橋を渡らなければならないのだが,橋の上は,水量を増した川を見物しようとする人々で大混雑していた。そして橋の上の歩道には洪水による泥の小山ができていた。

一世紀に渡って川底に蓄積されていた泥。これを"私"は百年泥と呼ぶ。

チェンナイの人々,そして"私"は,この百年泥の中から掘り出された記憶のかけらや懐かしい人々に再会するのだった。

泥の中から過去の人々が現れたり,チェンナイのエリート層が翼を付けて飛翔して出勤したりと,およそ現実的ではないことが普通に書き込まれている。これはマジック・リアリズムの手法だ。エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』参照)や『薬草まじない』参照)を思い出した。

この小説,特筆すべきはその文体だろう。百年泥に相応しいねっとりした口語調の文体だ。

例えば,こんな感じだ:

急激に都市化したインドの街はどこもそうであるように,中学の地理で落ち武者ヘアーの社会科教師に「マドラス」と習ったこの街もまた信じがたいほど空気がひどい,だがこの騒々しく殺伐とした街のいたるところにただよう海の予感によって,それは多少やわらげられている。

もっと長い文もある:

土手へとつづく下の道路ぞいにならぶ工具店にペンキ屋,フルーツジュース屋,看板に<YAMAHA>と大きくジャパンブランドの書かれたバイク屋などの諸店舗はいまだ泥水の中,いつも露店のココナッツ売りがいたあたり,ぱん,と鉈で一撃した大ぶりの実のてっぺんにストローを挿しちゅうちゅう吸いあげる客たちがちらばってた樹下のへん,今はいちめんの茶色い水,その隣に公衆トイレのあったことは思い出さないようにしてたらふいに段差に蹴つまづきそうになる。

口語調だが口語ではない。計算された粘性の高い文章である。

「文藝春秋」2018年3月号の「選評」で山田詠美が「話すように書きながらも,書き言葉でないと成立しない文体の勝利」と評していたが,そうかもしれない。

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