ニコライ・A・バイコフ『牝虎<めとら>』を読む
ニコライ・A・バイコフ作(上脇進訳)『牝虎<めとら>』(中公文庫)を読んだ。
【あらすじ】
満洲・横道河子(フンダオフーズ,heng dao he zi)に住む<私>は,旧友でベテラン猟師のアキンジン・ステパーノヴィチ・バボーシンとともに海林(ハイリン,hai lin)渓谷の密林を旅する。目指すのはグリゴーリイ・ゾートフの山小屋だ。
バボーシンによれば,グリーシャ(グリゴーリイ)は先ごろ,ナスターシャという美しい娘と恋に陥ったのだそうだ。
バボーシンは,ナスターシャはややこしい女だから付き合わない方がいい,とグリーシャに警告したのだそうだが,果たして,グリーシャの小屋にたどり着いたとき,中にいたのはナスターシャだった。
なぜ,ナスターシャがややこしい女だと言われるのか? それは,彼女には親が決めた結婚相手がいるからである。彼女の実家・チュマコフ家では,ナスターシャを金持ちの材木商ロジノフに嫁がせようとたくらんでいた。しかし,ナスターシャは密林に住むグリーシャのもとに逃げ込んでしまったのである。チュマコフ家の連中が黙っている筈がない。
この後,物語は
- チュマコフ家の男たちによるナスターシャの拉致
- グリーシャによるナスターシャの奪還
- 虎に襲われたグリーシャを救うナスターシャ
- ジプシー女に心を奪われるグリーシャ
- 再び虎に襲われたグリーシャの死
- バボーシンに芽生えた,寡婦ナスターシャへの恋心
- グリーシャの遺児とともに仔虎を育てるナスターシャ
- ナスターシャから離れ,満洲の密林の中に消えるバボーシン
というように,息もつかせぬほど劇的に展開する。
台詞回しは古めかしいが,一気に読める面白い小説だ。
この小説のタイトル『牝虎<めとら>』が意味するのは,狩猟の対象であるアムール虎のことではない。美しく力強く,男たちを惹きつけて止まないナスターシャのことである。
ナスターシャがグリーシャの遺児とともに仔虎に母乳を与えるシーンは,衝撃的であると同時に聖母像のように美しく崇高でもある。
物語自体も面白いが,原作者バイコフと訳者上脇進の関係も興味深い。
バイコフ(1872年,キエフ生まれ)は,いわゆる白系ロシア人で,満洲に住んでいた。満洲の密林とそこに住む動物たちを描いた作品で知られるが,特に『偉大なる王』はよく知られている。
上脇(1899年,鹿児島生まれ)は満洲・新京語学院に務めていた折,バイコフと交友を深めた。バイコフの作品をいくつか訳出しているが,そのうち,この『牝虎』は1943年に満洲日日新聞・大連日日新聞両紙に連載されたものである。
翻訳権は満洲日日新聞が所持していたが,第二次世界大戦終結とともに,同社は消滅。また,バイコフも終戦の翌年1946年3月15日にハルピンで発疹チフスのため死去した(と,本書の「はしがき」「あとがき」には記されている)。
これで,著作権者も翻訳権者もいなくなったわけで,「従って,翻訳,出版の権利が存するものとすれば,まず訳者より外に所有する者はない筈と思う」(『牝虎』278頁)と上脇は主張している。
ここまでは「ふーん。そんなものか」と思っていたわけだが,バイコフについて調べてみると,訳者の主張と違うことがわかってきた。
『牝虎』は1950年に万有社から刊行されたのだが,その際,上述の通り,上脇は1946年にバイコフが病死したものとしている。
ところが,バイコフは死んではいなかった。終戦直後,バイコフは中国を縦断し,香港にたどり着いていた。そしてそこから海を渡り,オーストラリアにたどり着いた。そして1958年3月6日にブリスベンで死去したわけである。墓は同地にある(参照)。
上脇は1962年に死去するが,死ぬまで,終戦翌年のバイコフの病死を信じて疑わなかったのだろうか?やはり,通信事情の悪い時代のこと,オーストラリアにバイコフが移り住んだことを知るすべはなかったのだろうか?
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