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2017.11.09

ラーベ『雀横丁年代記』を読む

海外出張の道中では訪問先の国と関係のない本を読むことが多い。そのことは前にプノンペンに滞在したときに記した(参考)。

今回のインドネシア出張でも例に漏れず,インドネシアと関係のない本を読んだ。その一冊がヴィルヘルム・ラーベ『雀横丁年代記』である。

これはラーベの処女作であり,同時に代表作となっている。シュトルムと言えば『みづうみ (Immensee)』,ラーベと言えば『雀横丁年代記』というわけである。

西岸良平『三丁目の夕日』を横丁モノと分類するならば,この『雀横丁年代記』もまた横丁モノである。
アマゾンの書評を見ると,この『雀横丁年代記』に対して「リアリズムと言いながら,牧歌的」という批評もあるが,詩的リアリズムであると考えれば,リアリズムと牧歌との間に齟齬はない。

ベルリンの片隅,雀横丁(Die Sperlingsgasse)に住む貧しい人々の悲哀を日記体で描いた小説である。全部で21日分の日記で構成されており,1954年11月15日の記事から始まり,翌年5月1日の記事で終わる。

雀横丁に長年住んでいる一人の老人,ヨハネス・ヴァッハホルダー(Johannes Wacholder,本書ではヴァッハホルデル)がこの小説の書き手であり語り手となっている。

日記の記事にはその日の雀横丁の出来事だけが記されているのではない。むしろ,語り手ヴァッハホルダーの追憶,さらに追憶の中の人々による追憶の方が多くを占め,複雑な構成となっている。つまりは複数の時間軸が絡まり合う作品である。

例えば,2月28日。ヴァッハホルダーはその日降り続いている雨のことを描写している。そしてやがて,友人ヴィンメル学士から送られた昔の手紙を取り出し,過ぎた日々のことを思い出す。そのうちに,意識は現代に戻り,ヴァッハホルダーは2月28日の雨の中,彼のもとを訪れた漫画家シュトローベル(Strobel)と会話し始めるのだった――という具合である。

同じ日の午後11時,日記には雀横丁で起きた悲劇が描写される。雀横丁に住むある踊り子の一人息子が病に侵され,死を迎えようとしているのだ。ヴァッハホルダーはつい先日,クリスマスの市にシュトローベルや踊り子親子と一緒に出掛けたばかりである。死を迎えようとしてる男の子の傍には,ヴァッハホルダーの他,家主の妻・アンナや医師エアハルトがいるだけである。踊り子は息子の命の炎が消えようとする中でも,生活の糧を稼ぐために劇場で踊らなくてはならないのだ――。

このように様々なストーリーラインが交錯する中,もっとも重要なストーリーが展開される。それは,ヴァッハホルダーが養育した美しい女性,エリーゼ・ヨハンナ・ラルフの成長記である。


◆   ◆   ◆


エリーゼはヴァッハホルダーの初恋の人・マリーと,ヴァッハホルダーの親友にして画家のフランツ・ラルフの間に生まれた娘である。ラルフ一家は,ヴァッハホルダーの家の向かいに住んでいたのだが,ある日突然マリーが死ぬ。夫フランツも心労によって衰弱,程なくして死去。天涯孤独となったエリーゼはヴァッハホルダーに引き取られることになる。

エリーゼはヴァッハホルダーの下で,横丁の太陽の如く明るく美しく育つ。やがて,同じく雀横丁に住んでいる幼馴染グスタフ・ベルクと恋に落ち,結婚する。エリーゼ,グスタフともに,生前からの奇縁で結ばれているのだが,ここではその説明を省略。

雀横丁年代記最終章,5月1日の記事の中では,エリーゼとグスタフの結婚式,二人のイタリアでの新生活,そして二人が幸福に暮らしていることに対するヴァッハホルダーの喜びが記されている。

雀横丁で起きてきた幾多の悲喜劇を見続けたヴァッハホルダーは最後にこう記して年代記を閉じる:

さらば,健在なれ,昼となく夜となく,我が愛する諸君よ。さらば,汝,夢見る偉大な祖国よ。さらば,汝,小さき狭き横丁よ。さらば汝,永遠の愛と呼ばるる,偉大な創造の力よ。――アーメン。これをもって,雀横丁年代記の終わりとする。

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