時枝誠記(ときえだ・もとき)『国語学史』を読む
時枝誠記(ときえだ・もとき)の『国語学史』(岩波文庫)は言うまでもなく,国語の研究史の本である。だが,本題に入る前の序説が予想外に面白かった。
国語学とはこういうコトをする学問だ,というような天下り式の説明があるのではなく,国語研究者が持つべき認識と姿勢が述べられているからだ。
そもそも国語とは何か。これは国語研究者が常に考えなくてはならない究極の問題である。
本書では一応,「国語」の定義が示されている:
私は国語という名称を,日本語的性格を持った言語を意味するものと考えたい。(19頁)
そしてまた,誤った「国語」の定義や研究の方向についても注意を喚起している:
従来,しばしば国語を定義する場合に,国家の観念あるいは民族の観念をもって基礎づけようとした。そして,それがあたかも国語研究の正しい方向を示すものであるかのごとくいわれたことがあるが,それは誤りである。(21頁)
このように国語の定義が示されたからには,国語研究者はその定義の下で粛々と研究活動を展開すればよいのだろうか。
いや,そんなことはない。長くなるが重要な一節を引用しよう:
私は国語学の対象を規定するのに,国家や民族の観念を排除し,純粋に言語的特質に基づいて,国語,すなわち日本語的性格を持った言語であるとした。ところが,日本語的性格ということは国語学の究極において見出されるものであって,最初からこれが明らかにされているのならば,もはや国語研究の必要も消滅してしまうことになる。そこで,国語を他の何か明らかなもの,すなわち国家とか民族とかによって規定しようとする立場が現れてくるわけである。しかしながらこの立場は,あたかも「魚は水に住むものである」という定義に等しく,対象を外部的原理によって規定することであって,対象それ自体の持つ原理によるものではない。そこで必要な態度はともかくも対象として与えられた無規定な日本語を,それ自体の内に具有する原理,すなわち日本語的性格なるものを明らかにしつつ,対象を輪郭づけて行くことである。(25頁)
つまり国語研究者の仕事は国語の持つ日本語的性格とは何かということを明らかにする作業なのである。この研究作業において何が必要か時枝はこう述べている:
そこで必要なことは,最初に対象の本質をしっかり見通すことである。もちろん,この見通しは対象についての省察が進展すると同時に訂正せらるべき性質のものであるかも知れないが,その故にかかる見通しが不必要であるということは出来ない。国語学はむしろかかる対象の本質観の不断の改訂によって,次第にその目標に到達することが出来るのである。(28頁)
まず研究対象に対するイメージを描くこと。そして,研究を進めるにしたがって,そのイメージを修正し続けること。そうすることによって,研究対象を明らかにできるわけである。
結局のところ,国語学の任務とは何か。時枝はこう述べている:
国語学の任務は,国語の事実を適切に整理し,体系化するところにあるのではなくして,国語の発見ということが根本の任務であり,少なくともそれが他の科学的操作に先行するものでなければならないと思うのである。(29頁)
「国語の発見」,これこそが国語学の任務であるというのは実に名言で,他の学問分野でも通用しそうな言い回しである。
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