桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』を読む
このところ,東南アジア史の本ばかり読んでいる。この方面での仕事が山のようにあるからだ。
この『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著,山川出版社・世界史リブレット)は薄い割には情報がてんこ盛り。2度読んで,ようやく全体像が掴めた。非常に刺激的な一冊だった。
著者はベトナムおよびチャンパーの歴史研究者である。
著者は本書の中で,東南アジア史の研究史を振り返り,前近代の東南アジア国家がどう理解されてきたのかを論じている。そしてその作業を通じて東南アジアという歴史世界が持つ特質を示している。
東南アジア史はここ数十年で興隆してきた分野である。そもそも,東南アジアという言葉自体,第二次世界大戦中に普及してきた用語[1]であり,この地域をまとめて論じようという学者はかつてはほとんどいなかった。
東南アジアの地理や歴史には,「多様性の中の統一(ビネカ・トゥンガル・イカ, Bhinneka Tunggal Ika)」というインドネシア共和国の国是がぴったり当てはまる[2]。様々な人々や勢力が渦のように離合集散し,複雑な姿を見せながら,それでいて,東南アジア的としか言いようのない,共通した何かを印象付ける。
それ,つまり複雑・多様でありながら統一性を持つ東南アジアの歴史をうまく言い当てようとして,日本史,中国史,西洋史の概念やモデルを持ってきてもダメ。例えば「東洋的専制」とか「封建制国家」といった概念は東南アジアの歴史には適用できない。東南アジアの歴史を語るためには,東南アジアの歴史のための概念やモデルが必要なのである。
そこで登場するのが本書で紹介される様々なモデルや概念である。例えば,タンバイヤの「銀河系的政体」,ウォルタースの「マンダラ」,ギアツの「劇場国家」である。
東南アジアの歴史研究には,従来型の歴史学者だけでなく,文化人類学者,民族学者,地理学者,経済学者,農学者等々,多様な分野からの研究者が参加しており,先日紹介したグローバル・ヒストリー(参照)の先進地となっている。上に述べた,東南アジア史独自のモデルや概念はグローバル・ヒストリー的なアプローチの成果である。
「○○国の歴史」という一国史のスタイルは東南アジアの歴史には相応しくない。地域・海域で総体的にとらえることが必要なのである。
著者が専門とするチャンパー史もベトナムの一地域の歴史に留まるものではない。チャンパー人は東南アジアの交易の担い手として,長きにわたって活躍してきた。チャンパーの歴史は決してベトナム南部の地に封じ込められるものではなく,広大な時空間の広がりを持つものだというのが,著者の主張である。
東南アジアの歴史を研究していくと,その多様性や関係する時空間の範囲の広さ故に,東南アジアの歴史とは結局何なのか,という根本的な疑問にたどり着いてしまう。たとえば,交易の範囲を考えると,インドや沖縄までが範疇に入ってしまう。東南アジアにこだわる必要性があるのだろうか,ということである。オーストラリアの研究者,ジョン・レックはその著書の中で「東南アジア史の脱構築」という一節を設けてしまったぐらいである。
この難問を前に,著者は最後にこう締めくくる:
「ややこしい時代になった。だがこれも東南アジア史研究が一人前になったからこその試練だ。学問はこうでなくてはおもしろくない」(桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』,87頁)
※注釈
[1]本書だけでなく,ジャン・デルヴェール『東南アジアの地理』でも,東南アジアという呼称がわりと新しいものであることが述べられている。
[2]レン・タン・コイ『東南アジア史』(文庫クセジュ)でも東南アジア史について「ビネカ・トゥンガル・イカ」という言葉で表現している。
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