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2017.10.31

梅棹忠夫『東南アジア紀行』と松本信広『メコン紀行』

先日,神田神保町で松本信広編『メコン紀行』を購入したわけだが,松本信広率いる「東南アジア稲作民俗文化綜合調査団」がベトナム,カンボジア,ラオス,タイを巡ったのは1957年8月から翌1958年4月のことだった。

ここでふと思い出すのが,ほぼ同じころに梅棹忠夫率いる「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」がインドシナ諸国を巡ったことである。梅棹忠夫らは1957年11月から翌1958年3月にかけてインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。

その時の記録が,『東南アジア紀行』であるということはすでに過去記事に書いた(参照)。

ほぼ同じ頃にインドシナ諸国を回っていたのにもかかわらず,両者の軌跡が重なることがないのは不思議な感じがする。

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2017.10.30

山口県立美術館で「西大寺展」を観てきた

山口県立美術館で「西大寺展」を観てきた。

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既に東京と大阪で展示が行われ,山口県立美術館で行われているのが,今年最後の展示である。

東京と大阪では,あの美しい「吉祥天立像」(京都・浄瑠璃寺)が展示されていたのに,山口では見られず残念。

とはいえ,西大寺の秘宝の数々には息をのむばかりだった。

奈良後期に作られた「阿閦如来坐像」「宝生如来坐像」の二体は見事なものだったし,西大寺中興の祖,叡尊(えいそん)を模した国宝「興正菩薩坐像」(奈良・西大寺)は鎌倉時代の写実主義のレベルの高さを感じさせた。

西大寺の所蔵品ではないが,本展で併せて展示された如意輪観音坐像(元興寺)もまた素晴らしい仏像で,かたじけなさに涙こぼれかねない。

仏像のほかにも,金銅宝塔(鎌倉時代),金銅透彫舎利塔(これも鎌倉時代)等の国宝も見ることができた。精密な造りで,鎌倉時代の金属加工技術のレベルの高さがしのばれる。仏舎利も拝見できた。


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西大寺は孝謙上皇(称徳天皇)により平城京の中に造営されたものである。やがて,都が平安京へと遷ったことにより,宮廷や貴族の支援を受けられなくなった西大寺は衰退。

その後,鎌倉時代に叡尊が登場し,西大寺を再建。西大寺は真言律宗の中心地として栄えることとなった。叡尊は西大寺以外にも般若寺,法華寺,百毫寺ほか様々な寺を再建し,傘下に組み込んでいく。旅館再建請負人「星野リゾート」のようである。"EISON HOLDINGS"だね。飢餓救済活動も行ったし,宗教家のみならず,社会実業家としての側面も強い。

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佐藤洋一郎『稲と米の民族誌』を読む

アジア各地に稲作は広がっているが、稲作文化は一つではない。品種も栽培方法も調理法も多様である。その多様な稲作文化を紹介しているのが本書『稲と米の民族誌』である。

著者は農学者。遺伝学の立場から稲の起源を求めて30年に渡ってアジア各地を調査してきた。

本書では各地の稲作・米食文化の紹介に多くの紙数を割きつつ,時折,著者の専門である,稲の起源を巡る論争にも触れる,という形で話が進んでいく。

いま,稲作・米食文化と言ったが、本書では「稲作景観」という言葉を用いて,稲作・米食文化を自然環境と併せて表現している。ここで「景観」とは「人間やその社会とその周囲を取り巻く自然を含む一体的な関係」のことである。

本書では,ブータン、シッキム、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、中国といった地域の稲作景観が紹介されている。老生の仕事先が多くカバーされているので、とても嬉しい。例えば,ラオスではもち米のおこわ「カオ・ニャオ」がとても美味しいのだが,「もち米の国,ラオス」のところでそれが紹介されている。該当部分を読むと,カオ・ニャオの味や触感が蘇ってくるのを感じる。


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稲作と言っても,ジャポニカかインディカか,うるち米かもち米か,田植えをするか直播でいくか,畦に豆を植えるかどうか,等々,いろいろなパターンがある。

また,米食も,うるち米のご飯を炊いたり蒸したり,もち米をモチにしたりおこわにしたり,また,米を粉にしてライスペーパーを作ったり麺を作ったり,というようにバラエティに富んでいる。米粉の活用,ということではベトナムは群を抜いている。

米は酒造りにも使われる。ラオスでは「ラオラオ」,タイでは「メコン」というもち米由来の強い酒が造られる。

もち米は甘いスナック菓子を作るのにも用いられる。竹筒にもち米を入れ,緑豆,ココナッツミルクを加えて焼く「カオラム」がそれである。老生もラオスで食べたものである。

ということで,本書では多様で楽しい稲作・米食文化が紹介されている。


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以前,「日本の農耕文化の起源:ニジェール河畔からのはるかな旅」という記事で紹介した中尾佐助は,佐々木高明と共に「照葉樹林文化論」を展開した。佐々木高明によれば,ブータンもまた照葉樹林文化の地域に含まれる。しかし,本書によれば,ブータンでは照葉樹林文化の重要な指標である,焼畑もモチ食も見られないとのことである。本書の記述は控えめであったが,ブータンを照葉樹林文化圏に含めるのは結構難しいように老生は思った。


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稲の起源についても触れておこう。

かつては「アッサム―雲南地方」が稲作の起源地とされていた。ジャポニカとインディカという2大グループの共通起源がこの地域にあったという。先ほどの「照葉樹林文化論」と合わせて,この説は一世を風靡した。

しかしながら,その後の考古学や遺伝学の研究の蓄積により,ジャポニカは長江流域で生まれ,インディカはその後で熱帯のどこかで生まれた,という二元説が有力となった。この二元説の前半部分は「ジャポニカ長江起源説参照)」と呼ばれ,本書の著者もその立場に立っている(その後,バイオインフォマティクスの発達によって,異説が登場。稲作起源論争は今もなお継続中とのこと)。

著者が「アッサム―雲南地方」起源説に与しないのは,同地方に近い地域での調査経験も踏まえてのことだろう。著者は上述したブータンの他,シッキムにも足を運んだ。この時,現地の稲作景観をつぶさに見て,稲作・米食文化の歴史の浅さを感じ取っている。「研究者が感覚に頼ってものをいうのは控えるべき」と断りつつも,体験によって著者は意を強くしたようである。

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2017.10.29

西京シネクラブで『わたしは,ダニエル・ブレイク』

西京シネクラブでツマと共にケン・ローチ監督『わたしは,ダニエル・ブレイク』を見てきた。

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観た人も多かろうと思うが本記事でも一応あらすじを書いてみる。

ダニエル・ブレイク59歳。40年間大工として働いてきた。
妻に先立たれ,今は一人住まいである。
心臓の病に見舞われ,仕事を続けられなくなった。

しかし,国から手当てを受けようとしたところ,就労可能と判断されてしまった。不服を申し立てようとすると,ネット上で申請しろだのあれこれ杓子定規な対応を受ける羽目に。

失業手当を受けようとすれば,ドクター・ストップをかけられているのにもかかわらず就労可能と判断されているため,就職活動を強制されるというナンセンスな状況にダニエルは追い込まれる。

理不尽な役所とのやり取りが続く間,ダニエルは困窮にあえぐ母子に出会う。自身も困窮しているのにもかかわらず,ダニエルはこの親子に救いの手を差し伸べる。

ダニエルや母子の生活には一瞬,一条の光が差し込んだかのように見えた。しかし,ダニエルも母子も次第により困難な状況に陥っていく・・・・・・。

ダニエルはあらゆる困難に粘り強く立ち向かう。そんな人間の尊厳を根こそぎ奪おうとするのが,イギリスの社会保障システムである。本作は,ケン・ローチ監督の弱者に対する暖かなまなざしと,現今の社会制度に対する静かな怒りに満ちている。

今のイギリスには,一度でも貧困に陥ると,そこから抜け出すことができない,という恐ろしい現実がある。社会保障を受けようとしても,煩瑣な手続きの中で挫けてしまう。英政府はびた一文払いたくないのだ。加えて,寝室税という奇妙な制度まで作って困窮家庭への補助を大幅に削っている。そういう状況を作った,保守党内閣デーヴィッド・キャメロン首相とイアン・ダンカン・スミス労働・年金大臣の罪は重い。

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2017.10.28

『物類称呼』:「こま」とは猫の呼称

物類称呼』で発見したことなのだが,「こま」とは猫の別称らしい。

「飼猫を東国にて とら と云。こま といひ 又 かな と名づく。 <中略> 和名 ねこま 下略して ねこ といふ 又 こま とは ねこまの上略なり」(『物類称呼』岩波文庫,33頁)

つまり,猫は「ねこま」と称され,それが省略されて「こま」と呼ぶことがある,というわけである。

我が家のお猫様は「おこま」,すなわち「こま」という名である。つまり,老生らは猫を猫と名付けたということか。

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↑我が家のおこま嬢ご近影

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『物語 カタルーニャの歴史』再読

カタルーニャが独立すると息巻く一方,スペイン中央政府が直接統治するぞとカウンターパンチを繰り出し,えらい混乱になっている。

"Spain imposes direct rule after Catalonia votes to declare independence" (the guardian, Oct. 27, 2017)

かつて田澤耕『物語 カタルーニャの歴史―知られざる地中海帝国の興亡』(中公新書)を読んだことがある老生としてはカタルーニャ独立派に同情的である。

古くは地中海に覇を唱えたカタルーニャ・アラゴン連合王国の輝かしい歴史,近代に入ってはスペイン内戦,そして独裁者フランコ総統によるカタルーニャに対する苛烈な弾圧の歴史,これらを知ると,カタルーニャ独立派の主張はむべなるかな,と思う。

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2017.10.27

『物類称呼』:難読地名「特牛」を「こっとい」と読むことについて

神田神保町で買った『物類称呼』をパラパラ見ていると面白い記述がある。

牛の呼称に関してこのような記述がある:

「牛 うし〇特牛<をうし>を畿内及び中国四国ともに こつとい と云 東国には こてといふ」(『物類称呼』岩波文庫,32ページ)

山口県下関豊北町には「特牛<こっとい>」という地名があり,難読地名でもトップクラスとなっている。なぜ,特牛を「こっとい」と読むのか,理由はともかく,両者の関連を『物類称呼』は示しているのである。

まず,牡牛のことを「特牛」と書く。そして,西日本では牡牛を「こっとい」という。だから「特牛」は「こっとい」なのである。

江戸時代に編纂された,この『物類称呼』には記されていないが,じつは古語では重荷を負うことのできる強健な牡牛のことを,「特牛」と書き,「こというし」と言っていた。万葉集にも梁塵秘抄にも出てくる言葉である。万葉集では「こというしの」は「三宅」にかかる枕詞でもある。

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神田で『メコン紀行』ほか2冊購入

出張で神田界隈の某大学に行ってきたわけである。

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そうしたら「神田古本まつり」の準備の真っ最中。

それで刺激を受けてしまい,買ってしまったのがこの3冊:

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本で床は抜けるのか』を読んで本の購入は控えようと思っていたにもかかわらず,である。業としか言いようがない。

『メコン紀行』は1959年4月,読売新聞社刊。民俗学の大家,松本信広率いる「東南アジア稲作民族文化綜合調査団」が1957年にタイ,カンボジア,ラオスを巡った記録である。「バンコック」とか「ドン・ムアング空港」とか「アンコル・ワット」とかいう表記が時代を感じさせて良い。216円で購入。

ヴィルヘルム・ラーベ『雀横丁年代記』(岩波文庫)はジャケ買いならぬタイトル買い。ラーベの処女作である。「雀横丁」と「年代記」という言葉の組み合わせが良い。200円で購入。

越谷吾山『物類称呼』(岩波文庫)もタイトル買い。江戸時代・安永年間に出版された諸国の方言集。200円で購入。

戦果を手にタイ料理屋でカオパット定食。

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2017.10.26

キネマ旬報11月上旬特別号,「ブレードランナー2049」特集の件

だいぶ前から「ブレードランナー2049」のことは気になっていて,「やっぱり見に行くべきなんだろうな」とぼんやり思っていたのだが,先日出た「キネマ旬報11月上旬特別号」は迷う老生への最後の一撃となった。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督や主演のライアン・ゴズリングへのインタビューに加え,ショートアニメ「ブレードランナー2022 ブラックアウト」の渡辺信一郎監督,『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁,アンドロイド制作の最高権威・石黒浩らによる寄稿もあり,読んでいるうちにもう映画館に行かざるを得ない状況になってしまった。

ちなみに,「キネマ旬報11月上旬特別号」の表紙をめくると,8月に観たエドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』デジタルリマスター版(参照)ブルーレイディスクの広告がドーンと登場。映画ってホントいいもんですね!と思わず呟いてしまうぐらい今号のキネマ旬報は良い。

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2017.10.20

桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』を読む

このところ,東南アジア史の本ばかり読んでいる。この方面での仕事が山のようにあるからだ。

この『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著,山川出版社・世界史リブレット)は薄い割には情報がてんこ盛り。2度読んで,ようやく全体像が掴めた。非常に刺激的な一冊だった。

著者はベトナムおよびチャンパーの歴史研究者である。

著者は本書の中で,東南アジア史の研究史を振り返り,前近代の東南アジア国家がどう理解されてきたのかを論じている。そしてその作業を通じて東南アジアという歴史世界が持つ特質を示している。

東南アジア史はここ数十年で興隆してきた分野である。そもそも,東南アジアという言葉自体,第二次世界大戦中に普及してきた用語[1]であり,この地域をまとめて論じようという学者はかつてはほとんどいなかった。

東南アジアの地理や歴史には,「多様性の中の統一(ビネカ・トゥンガル・イカ, Bhinneka Tunggal Ika)」というインドネシア共和国の国是がぴったり当てはまる[2]。様々な人々や勢力が渦のように離合集散し,複雑な姿を見せながら,それでいて,東南アジア的としか言いようのない,共通した何かを印象付ける。

それ,つまり複雑・多様でありながら統一性を持つ東南アジアの歴史をうまく言い当てようとして,日本史,中国史,西洋史の概念やモデルを持ってきてもダメ。例えば「東洋的専制」とか「封建制国家」といった概念は東南アジアの歴史には適用できない。東南アジアの歴史を語るためには,東南アジアの歴史のための概念やモデルが必要なのである。

そこで登場するのが本書で紹介される様々なモデルや概念である。例えば,タンバイヤの「銀河系的政体」,ウォルタースの「マンダラ」,ギアツの「劇場国家」である。

東南アジアの歴史研究には,従来型の歴史学者だけでなく,文化人類学者,民族学者,地理学者,経済学者,農学者等々,多様な分野からの研究者が参加しており,先日紹介したグローバル・ヒストリー(参照)の先進地となっている。上に述べた,東南アジア史独自のモデルや概念はグローバル・ヒストリー的なアプローチの成果である。

「○○国の歴史」という一国史のスタイルは東南アジアの歴史には相応しくない。地域・海域で総体的にとらえることが必要なのである。

著者が専門とするチャンパー史もベトナムの一地域の歴史に留まるものではない。チャンパー人は東南アジアの交易の担い手として,長きにわたって活躍してきた。チャンパーの歴史は決してベトナム南部の地に封じ込められるものではなく,広大な時空間の広がりを持つものだというのが,著者の主張である。

東南アジアの歴史を研究していくと,その多様性や関係する時空間の範囲の広さ故に,東南アジアの歴史とは結局何なのか,という根本的な疑問にたどり着いてしまう。たとえば,交易の範囲を考えると,インドや沖縄までが範疇に入ってしまう。東南アジアにこだわる必要性があるのだろうか,ということである。オーストラリアの研究者,ジョン・レックはその著書の中で「東南アジア史の脱構築」という一節を設けてしまったぐらいである。

この難問を前に,著者は最後にこう締めくくる:

「ややこしい時代になった。だがこれも東南アジア史研究が一人前になったからこその試練だ。学問はこうでなくてはおもしろくない」(桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』,87頁)


※注釈

[1]本書だけでなく,ジャン・デルヴェール『東南アジアの地理』でも,東南アジアという呼称がわりと新しいものであることが述べられている。

[2]レン・タン・コイ『東南アジア史』(文庫クセジュ)でも東南アジア史について「ビネカ・トゥンガル・イカ」という言葉で表現している。

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2017.10.14

甑島のラグーン

先日,仕事で鹿児島の離島,甑島(こしきしま)に行ってきた。


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いちき串木野からフェリーで出発。

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途中,甲板で波しぶきを浴びながら

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上甑島(かみこしきしま)の里(さと)港に到着。

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何の仕事で行ったのか,ということについては別記事で書くことにして,今回はこの島の名物と絶景を紹介しておく。

島に到着した後,里港そばの「現在地」というレストランで昼ご飯を食べた。

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海鮮丼を頼んだのだが,なかなか豪華なのに880円(税抜き)でとてもお得。

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大事なのは,この島の名物「きびなご」の刺身が入っていること。

青魚は足が速いので,現地でないと刺身を食べることができない。


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昼食後,現地の方の案内でいろいろと施設見学をしたのち,この島の絶景「長目の浜」を見させてもらった。

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これが,上甑島の誇るラグーンの一つ,海鼠池である。左手が東シナ海であり,海鼠池は東シナ海とは丸い小石で形成された長さ約2kmの砂州によって仕切られている。

薩摩藩の時代に海鼠がこの池に放されたという。現在でも良質な海鼠が採れるのだそうだ。


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甑島からの帰路,佐藤洋一郎『稲と米の民族誌』(NHKブックス)を読んでいたら,偶然にもラグーンの形成についての記述があったので引用しておく。

「山に降った雨が海に向かって流れ出すいっぽう,海岸には海からの潮の影響を受けて砂丘が発達する。山からの水は行き場を失って砂丘の内側にたまって,海岸線に沿った細長い湖が出来上がる。これがラグーンである。」(『稲と米の民族誌』140~141頁)


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2017.10.11

今,話題の小学8年生

今,巷で話題の小学8年生を買ってみた。

本屋の幼年誌コーナーに行ったのは初めてかも。

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みんな,土器や将棋が大好きなんですよね。

え,それが話題じゃないの?

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2017.10.08

水島司『グローバル・ヒストリー入門』を読む

グローバル・ヒストリーが興隆していることは書店の棚を見ていてうっすらと知っていたし,うちの本棚に鎮座するブローデル『地中海』はその先駆けなのだろうということも感づいていたものの,具体的に旧来の世界史とグローバル・ヒストリーの違いについては明確な答えを持っていなかった。

そこで,グローバル・ヒストリーについての入門書を読むことにした。

歴史書でおなじみ,山川出版社から出ている世界史リブレットの一冊,水島司『グローバル・ヒストリー入門』である。

ありがたいことに,冒頭からグローバル・ヒストリーの特徴が示されている。それは次の5つである:

  1. 時間の長さ: 数世紀にわたる長期的な歴史動向を扱う。宇宙史・人類史のスケールに至ることも。
  2. 空間の広さ: 一国史ではなく,陸域・海域の歴史というように空間が拡大。
  3. ヨーロッパ世界の相対化
  4. 地域間の相互連関・相互影響を重視
  5. 対象となるテーマの幅広さ: 従来だと戦争・政治・経済活動・宗教・文化に焦点が当たっていたのが,疫病・環境・人口・生活水準など従来の歴史研究で扱われてこなかった日常的なものに拡大。

本書では,「ヨーロッパとアジア」,「環境」,「移動と交易」,「地域と世界システム」という4つの項目を立てて,これまでのグローバル・ヒストリーの研究例が紹介されている。

上述のブローデル『地中海』は,ウォーラーステインの世界システム論(『近代世界システムI―農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立―』),チョードリーのインド洋世界論("Trade and Civilisation in the Indian Ocean: An Economic History from the Rise of Islam to 1750"),リードの東南アジア論(『大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で』)に影響を与えた,グローバル・ヒストリーの先駆けとして「地域と世界システム」の章で紹介されている。

ウォーラーステインの世界システム論は,グローバル・ヒストリーの金字塔ともいえる研究成果なのだが,「ヨーロッパとアジア」の章では,ウォーラーステインすら「ユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)」と批判を受け,これを乗り越えようとするグローバル・ヒストリー研究が陸続と行われている様子が描かれている。ケネス・ポメランツ大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―』,アンドレ・グンダー・フランクリオリエント 〔アジア時代のグローバル・エコノミー〕』,ジャネット・アブー・ルゴドヨーロッパ覇権以前――もうひとつの世界システム』といった研究は,その流れに乗ったものである。


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グローバル・ヒストリーにおける日本人研究者の活躍も見逃せない。「発展の多経路性」,つまり,全ての国が西欧諸国のように発展していくわけではない,ということを実例を以て示したのは,歴史人口学者の速水融なのだそうだ。ヨーロッパの「産業革命 (Industrial Revolution)」に対して,日本の「勤勉革命 (Industrious Revolution)」という概念を提示して,日本の経済発展の独自性を示し,内外研究者にインパクトを与えたという。

そして小職にとって何よりも重要だと思ったのが,「環境」の章において,中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源 』が,グローバル・ヒストリーの先駆的研究として取り上げられていることである。この本については以前,本ブログで取り上げたことがある(参照:「日本の農耕文化の起源:ニジェール河畔からのはるかな旅」)が,「農耕文化基本複合」という概念を用いて,人類と地域と農耕と文化の相互の関連を明確に説明したあたり,世界に誇ってよい研究事例と言えるだろう。


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本書『グローバル・ヒストリー入門』は,従来の歴史学に飽きた読者をグローバル・ヒストリーの世界へと誘<いざな>ってくれる本である。本書で紹介されたグローバル・ヒストリーの研究書は,いずれも入手したくなってしまうような物ばかり。著者の紹介の仕方が上手いのだろう。だが,この間,書いたように,「本で床が抜ける」のではないかという懸念があって,悩ましいところである。

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八木澤高明『ネパールに生きる』を読む

ネパールに行ったのは今年の3月が初めて(参照)で,しかもカトマンドゥから一歩も出ていないので,ネパールについては知らないことばかり。


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なので,ちょっと勉強しようと手に取ったのがこれ,八木澤高明『ネパールに生きる』(新泉社,2004年)である。



本書の表紙を飾っているのは,笑顔が印象的なマオイストの女性兵士,コムレット・ノビナ。戦闘服を着て,ダルバートを食べている。

ノビナは取材後,政府軍との戦闘で命を落とす。ノビナとは誰か,マオイストとは何か,政府軍とマオイストがなぜ戦っているのか,その辺りが気になった人は本書を読んでいただきたい。

本書で取り上げられているのは今から十数年前,2000年代あたりのネパールの実情。今述べたマオイストと政府軍による内戦のほか,児童労働やアウトカーストのことが記されている。さらに,ミャンマーに生きる元グルカ兵のことや「東電OL殺人事件」のことなど,ネパール国外のネパールに関わる話題も取り上げられている。

<目次>

  • プロローグ ヒマラヤの向こうへ
  • 児童労働 こどもたちの現実
  • 王宮事件 見えざる王室の闇
  • マオイスト1 銃を取る若者たち
  • マオイスト2 出口なき混迷
  • グルカ兵 忘れられた兵士たち
  • アウトカースト・バディ 逃れられない宿命
  • エイズ 日常に潜む影
  • 東電OL殺人事件 夫の無実を信じて
  • ある女性兵士の生と死 あとがきにかえて

「東電OL殺人事件」は本書が出たずっと後,2012年にゴビンダ・プラサド・マイナリ氏の無罪が確定して一段落したため(事件自体は未解決だが),隔世の感を覚える。しかし,それ以外の章は現在のネパールの社会経済状況に直結する話ばかり。特に,貧困,不平等という,本書のあらゆるところに顔を出す問題は,この国が今もなお抱える病魔である。

内陸国で貧乏国といえば,老生がよく訪れるラオスもそういう国なのだが,ラオスとネパールとでは貧困や不平等の性質が全く異質。

ラオスの場合は現金の流れが悪いだけ。自給自足・物々交換のおかげでお金が無くても生きていける。貧富の差は拡大しているが,それが即差別等に結び付いたりはしない。

ネパールの場合は貧困・不平等の背後にカースト制が存在し,それが貧困・不平等の解決に対する大きな障害となっているように思う。カースト制度を何とかしない限り,この国に明るい展望は開けないのではなかろうか?

ちなみに,「立命館大学人文科学研究所紀要 No.102」(2013年11月)所収の「ネパール人のカースト序列認識の客観性と恣意性―ポカラ市住民のアンケート調査による考察―」(山本勇次,村中亮夫)という論文によれば,ネパールのカースト制度はネパール最初の成文法「ムルキ・アイン(Mulki Ain):民法典」(1854年)によって恣意的に導入されたものであるという。本家インドのカースト制度が長い年月を経ながら自生的に確立されていったのとはだいぶ異なる。ネパール人自身がネパールのカースト制度の歴史の浅さと恣意性を強く認識すれば,状況は変わるかもしれない。ということで,教育は重要だ。


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著者は1972年生まれの写真家・作家。写真週刊誌「フライデー」専属カメラマンを経て,フリーに。1994年からネパールに通い,児童労働,カースト制,マオイスト等,同国の社会問題を取材してきた。1998年には現地の女性と結婚している。本書の取材テーマから派生して,『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』や『娼婦たちから見た戦場』等の本を出している。

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2017.10.02

読書の身体性・書籍の物理性:西牟田靖『本で床は抜けるのか』

西牟田靖『本で床は抜けるのか』は蔵書と住まい,蔵書と家族の関係をつづったルポルタージュであるとともに,読書の身体性,書籍の物理性をつよく意識させる本でもある。

以前,松岡正剛の新書本を2冊一気読みしたときに,読書の身体性,書籍の物理性について触れた。(参照:「セイゴオ読書術2冊一気読み:『本の読み方(1)―皮膚とオブジェ』と『多読術』」,2013年6月10日)

セイゴオ先生が語るのは,本の内容把握だけでなく,読書中の身体感覚や感情の動きも読書体験として重要である,ということである。こうした読書体験の多重構造は,いわば,書籍の物理性がもたらすポジティブな効果だろう。

本書『本で床は抜けるのか』では,書籍の物理性のポジティブな効果も語られつつ,ネガティブな効果も語られる。

「物体としての本の存在感は読者に読む醍醐味を与える。本を手に持ち,ページをめくりながら,目を通していくからこそ読書という体験は豊かになる。だが,その物体性ゆえに,床が抜けそうになったり,居住空間が圧迫されたりもする。さらに,部屋に閉じ込められたり,果ては凶器となり怪我をしたりとあらゆる厄介事を抱え込んでしまうのだ。」(本書80ページ)

著者は書籍の物理性がもたらす,ポジティブ効果とネガティブ効果との間で揺れ動きながら,家族を喪い,その一方で,自分だけの部屋を手に入れる。いわば一つの暫定解にたどり着くわけである。

著者と同じく,書庫を建設するほどの財力を持たない蔵書家たちは,どうすればよいのか?

蔵書の一部を電子化し,物理的な書籍と電子的な書籍の割合を調整する,という折衷案でやり過ごしていくしかないのだろう,と本書を読みながら思った。

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