【再読】梅棹忠夫『東南アジア紀行』
1957年11月から翌1958年3月にかけて梅棹忠夫はインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。その時の記録が,『東南アジア紀行』である。
本ブログでは6年ほど前に「梅棹『東南アジア紀行』の時代」という記事で紹介したことがある。
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老生は,この夏もまたラオスに行く。もう9回目となるか。
渡航前に同国に関する知識を整理するために『東南アジア紀行』の下巻,ラオスのことが記されている第17・18章を読み直したのだが,読み直してみると,いろいろな発見がある。
梅棹らの,ラオス滞在は,1958年3月7日から3月17日までの11日間である。この僅かな滞在期間で,ラオスの各地をまわり,自然や文物をよく観察し,充実した記録を残しているのだから大したものである。老生はラオスに行く度に梅棹らよりも長く滞在しているのだが,彼らほど物事を見ていない。
梅棹らはジープで南ベトナムのドン・ハーからアンナン山脈を越えてラオスに入り,チェポン,パラーン,サワナケート(サワンナケート),ターケーク,パーン・ポーン,ナム・カディン,パークサン,とメコン左岸を移動し,ヴィエンチャンに入った。
アンナン山脈の東,ベトナム側では,常緑樹生い茂る雨季の世界だったのが,山脈を超えてラオス側に移ったとたんに,落葉樹林広がる乾季の世界に変わる,というのが面白い。
ヴィエンチャンに入って以降は,飛行機を利用してシエンクワーン,ルアンパバーン,ナムターを巡っている。道が整備されていない国では,まず,飛行機が重要な交通手段なのだ。
シェンクワーンに入った梅棹はヴィエンチャン王チャオ・アヌの反乱について触れている。チャオ・アヌ(チャオ・アヌヴォン)がシャムに対して起こした反乱については,本ブログで以前取り上げたことがある(参考:「タイの政治的混乱はチャオ・アヌの呪い」)。梅棹は,シャムに敗れたチャオ・アヌがシエンクワーンに逃げた顛末を書いているが,この話,老生はすっかり忘れていた。
当時のラオス人口は推定130万人,公定レートは1ドル=35kip,というようなこと,シエンクワーンには総督がいたこと,等々,読み直すと,ああそうだったか,と再発見が多くて面白い。
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