« 爆音上映で庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を見てきた | トップページ | エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』を見てきた »

2017.08.11

【再読】梅棹忠夫『東南アジア紀行』

1957年11月から翌1958年3月にかけて梅棹忠夫はインドシナ諸国を巡り,調査研究を行った。その時の記録が,『東南アジア紀行』である。

本ブログでは6年ほど前に「梅棹『東南アジア紀行』の時代」という記事で紹介したことがある。

東南アジア紀行 (上巻) (中公文庫)東南アジア紀行 (上巻) (中公文庫)
梅棹 忠夫

中央公論新社 1979-01
売り上げランキング : 95218

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
東南アジア紀行 下    中公文庫 M 98-3東南アジア紀行 下  中公文庫 M 98-3
梅棹 忠夫

中央公論新社 1979-01
売り上げランキング : 99083

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


老生は,この夏もまたラオスに行く。もう9回目となるか。

渡航前に同国に関する知識を整理するために『東南アジア紀行』の下巻,ラオスのことが記されている第17・18章を読み直したのだが,読み直してみると,いろいろな発見がある。

梅棹らの,ラオス滞在は,1958年3月7日から3月17日までの11日間である。この僅かな滞在期間で,ラオスの各地をまわり,自然や文物をよく観察し,充実した記録を残しているのだから大したものである。老生はラオスに行く度に梅棹らよりも長く滞在しているのだが,彼らほど物事を見ていない。

梅棹らはジープで南ベトナムのドン・ハーからアンナン山脈を越えてラオスに入り,チェポン,パラーン,サワナケート(サワンナケート),ターケーク,パーン・ポーン,ナム・カディン,パークサン,とメコン左岸を移動し,ヴィエンチャンに入った。

アンナン山脈の東,ベトナム側では,常緑樹生い茂る雨季の世界だったのが,山脈を超えてラオス側に移ったとたんに,落葉樹林広がる乾季の世界に変わる,というのが面白い。

ヴィエンチャンに入って以降は,飛行機を利用してシエンクワーンルアンパバーンナムターを巡っている。道が整備されていない国では,まず,飛行機が重要な交通手段なのだ。

シェンクワーンに入った梅棹はヴィエンチャン王チャオ・アヌの反乱について触れている。チャオ・アヌ(チャオ・アヌヴォン)がシャムに対して起こした反乱については,本ブログで以前取り上げたことがある(参考:「タイの政治的混乱はチャオ・アヌの呪い」)。梅棹は,シャムに敗れたチャオ・アヌがシエンクワーンに逃げた顛末を書いているが,この話,老生はすっかり忘れていた。

当時のラオス人口は推定130万人,公定レートは1ドル=35kip,というようなこと,シエンクワーンには総督がいたこと,等々,読み直すと,ああそうだったか,と再発見が多くて面白い。

|

« 爆音上映で庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を見てきた | トップページ | エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』を見てきた »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

東南アジア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【再読】梅棹忠夫『東南アジア紀行』:

« 爆音上映で庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を見てきた | トップページ | エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』を見てきた »