1930年代のヴィエンチャンの民族構成
今週からラオスに行くので,予習をしている。
だいぶ前に買ったSoren Ivarsson"Creating Laos"を再読しているところだが,1930年代のヴィエンチャンの民族構成について面白い記述があったので,紹介する。
1937年,ヴィエンチャンには12400人のヴェトナム人と9570人のラオ人が住んでいた。
つまり,人種構成で言えば,ヴィエンチャンはラオ人の都であるにもかかわらず,ヴェトナム系住民が多数派を占めていたわけである。
なぜ,こんなことになっていたのか?
昨年の今頃,本ブログに書いたように(「ラオス史メモ:チャオ・アヌの戦い」),ヴィエンチャン王チャオ・アヌのシャム(タイ)に対する反乱は失敗し,1827年から28年にかけて,ヴィエンチャンはシャム軍によって徹底的に破壊された。シャムは,さらにヴィエンチャンからチャンパ―サックにいたるメコン沿いの土地の過疎化を図った。これにより,ヴィエンチャン周辺のラオ人人口は激減した。
その後,紆余曲折があって,ヴィエンチャンを初め,ラオ系諸都市はフランスの植民地に組み入れられてしまうのであるが,ラオ人たちを統治するにあたって,フランスはヴェトナム人官吏や活用した。また,農耕・建築を進めるにあたってもヴェトナム人を重用した。
この結果,本来ラオ人たちのものであった,ラオ系諸都市にはヴェトナム人が多く住まうこととなり,ラオ人の人口を上回るようになった。
ヴィエンチャンではヴェトナム人が過半数を占めた程度だったが,1943年のターケークでは人口の85%,サワンナケートでは72%をヴェトナム人が占めるようになっていた。
ラオ人は言語・文化的にはタイ人に近いのにもかかわらず,政治・経済的にはヴェトナム人との強い紐帯を持っているという現状の素地は,フランス植民地時代に形成されたのである。
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