アレックス・カー『犬と鬼』読書ノート(2)
日本は――少なくとも20世紀の日本は――近代化に失敗した。この本の主張はこれに尽きる。
近代化とは単純な西欧化のことではない。伝統を一掃することでもない。伝統に立脚しつつ,テクノロジーをうまく活用し,移り行く状況に合わせて社会経済を改修していくことである。
日本は19世紀後半から和魂洋才の掛け声の下で西洋の技術を導入し,近代化を図ってきた。しかし,それは,マルバカイドウ(海棠)にリンゴを接ぎ木するようにはうまくいかず,木に竹を接ぐようなことになってしまった。
先日の記事に続き,今回はアレックス・カー『犬と鬼』「第5章 情報―現実の異なる見方」を取り上げる。
『犬と鬼』の「第5章 情報―現実の異なる見方」では,日本の企業・省庁に広がる「建て前」,あるいは情報操作の問題が指摘されている。
要点はこの章の冒頭にまとめられている。次の通りだ:
「伝統的に日本では『真実』は神聖不可侵ではないし,『事実』も本当のことである必要はない」(『犬と鬼』117頁)
「文化的相違ははるか昔にさかのぼり,現実よりも,理想の形が『真実』となる。 <中略> この考え方は広範に及んでおり,日常生活にある本音と建て前のベースになっている。建て前にあからさまに反する現実に直面しても,何とかして建て前を守ろうとする。和を保つには,本音を隠し続けることが重要だと考えるからだ」(『犬と鬼』118頁)
「建て前は和魂の名残で, <中略> 現代のシステムに混用してしまうと,思わぬ事故を引き起こす。客が茶室で粗相をした時は見ないふりをしたほうが良いという意味ならば,建て前は好ましい態度だ。だが,これを企業のバランスシートや原発の安全報告にまで適用すると,危険で予測のつかない結果をもたらす」(『犬と鬼』118-119頁)
このように述べたのち,カーはいくつもの具体例を示していく。例えば,金融界の帳簿操作「とばし」,省庁による情報の隠蔽「知らぬ存ぜぬ」,TV・新聞の「やらせ」,動燃の「プルト君」。
日本の官界・産業界には,調和を乱さぬように情報が操作されているという根本的な問題が存在しているというわけである。
このことは本書の著述にも悪影響を及ぼしている:
「要するに,どこを見ても情報はあてにできない。私も内心恐怖に苦しんでいる。本書は統計データだらけなのに,どれくらい正確か判断できないからだ」(『犬と鬼』140頁)
情報の透明性ということが近現代の社会経済システムの中で要請されているのだが,アレックス・カーが本書を上梓した2002年時点の日本では,それは不十分だった。では15年後の現在はどうか? 最近の政界・官界の動きを見ていると,情報の透明性が向上したとは言えないように感じる。
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