【真田丸の舞台,沼田の大変残念な話】暗君・真田信直
上州沼田は真田一族のゆかりの地である。
徳川氏と真田氏の間に行われた第一次上田合戦は,沼田領の割譲を巡っての戦いであった。
小田原征伐もまた沼田領割譲問題に起因している。小田原征伐で功績のあった真田氏は秀吉から沼田を所領として安堵され,真田信幸がその城主となっている。
ということで大河ドラマ「真田丸」でも非常に重要な舞台となっている。
では沼田ではさぞかし真田氏が人気を集めているだろう・・・と思うとちょっと(全然)違う。
真田信幸の孫にして,初代沼田藩主の真田信直(のぶなお),通称信利(のぶとし)が,近世史上稀にみる暗君で,領民をひどく虐げて幕府から改易されたという暗黒の歴史が沼田にはある。真田氏は沼田ではアカン領主なのである。
詳しい話はWikipediaに譲るが,信直は本家・信州松代の真田家に対抗しようと思ったのか,表高3万石程度の沼田藩を実高14万4000石と過剰申告して見栄を張り,重税をかけて領民を苦しめたのである。松代藩邸に負けない江戸藩邸を作ったり,日夜酒色に溺れたりして,贅沢三昧。年貢を納められない領民は水牢に入れられたり,飢餓に追い込まれたりしていた。他にも領民には様々な労役や農機具に対する税まで課せられていて沼田は悲惨なことになっていた。
ここで登場するのが義人・杉木茂左衛門である。沼田領月夜野の百姓であったが,人々が塗炭の苦しみにあえいでいるのを見て,幕府への直訴を決意した。直訴は将軍・徳川綱吉の下に届き,天和元年(1681年)11月,真田信直は改易となった。
当時,直訴は重罪であって,茂左衛門は妻子もろとも磔刑となったという。茂左衛門は死後,人々の尊敬を集め,「茂左衛門地蔵尊千日堂」に祀られている。
なお,暗君・信直は奥平家お預けとなり,改易から7年後の貞享5年(1688年)に宇都宮で54歳で没している。上田城は改易の翌年,天和2年(1682年)に破却され,堀も埋められた。
…というわけで,真田昌幸・信幸・信繁たちが必死に守り抜いた沼田は,暗君・信直のせいで失われ,真田氏は領民からものすごく恨まれて沼田の地から追われることとなったのでした。茂左衛門は本当に偉い。
真田信直(のぶなお),通称信利(のぶとし)の悪行は,以下の記事でコンパクトに紹介されている:
「あの真田家は実は残虐な悪政?! 年貢を納めることができない領民は家族もろとも水牢で…」(2016年9月11日,産経新聞)
また,茂左衛門と沼田藩改易騒動についてはつぎのウェブサイトが非常に詳しい:
「かみつけの国 本のテーマ館: 第四テーマ館 磔茂左衛門と沼田藩騒動」
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 梅棹忠夫とモンゴル語(2024.04.10)
- 5月なのに山口オクトーバーフェスト|リターンズ(2023.05.09)
- 旧川上村の民具についての本(2023.01.20)
- 極寒のモンゴルにちょっと行ってみた(2022.12.07)
- 観光列車「〇〇の話」に乗ってきた(2022.08.15)
コメント