ラオス史メモ:チャオ・アヌの戦い
チャオ・アヌ (Chao Anou,アヌウォンとも言う)はヴィエンチャン王国の王であった。
若いころは宗主国であるシャムのチャクリー朝(ラッタナーコーシン朝)のラーマ1世およびラーマ2世に仕え,対ビルマ戦に参加した。
ラーマ2世の推挙により,1804年にヴィエンチャン王として即位した後,シャムとベトナムの双方に朝貢した。チャオ・アヌは仏教徒の王らしく振る舞い,ワット・シーサケットなどの寺院を建立した。
チャンパ―サック王国で内乱が発生した際,チャオ・アヌはこれを鎮めた。チャクリー朝はチャオ・アヌの忠誠を信じていたので,チャオ・アヌの王子をチャンパ―サック王とすることに同意した。
ヴィエンチャン王国はチャオ・アヌの下で繁栄を謳歌していた。
話はさかのぼるが,シャムのタークシン王の時代,ヴィエンチャン王国はビルマのコンバウン朝に朝貢していた。タークシン王はヴィエンチャン王国を支配下に置くべく,部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スック(のちのラーマ1世)をヴィエンチャンに派遣した。
この侵攻の際,多くのラオ人とワット・ホー・プラケオにあったエメラルド仏がシャムに持ち去られた。エメラルド仏は現在ではバンコク(クルンテープ)のワット・プラケーオに安置されている。
さて,1824年,ラーマ2世が崩御し,翌年,葬儀が行われた。この葬儀に参列したチャオ・アヌは新王ラーマ3世に対して,かつて連れ去られたラオ人やラオ王族の返還を求めたが,拒絶された。
このときのラーマ3世に対する恨みと,ヴィエンチャン王国の国力の充実とが,チャオ・アヌにシャムの軛から脱し,ランサーン王国を再興することを決心させたのかもしれない。また,ちょうどシャムはイギリスからの圧力(イギリスは第1次英緬戦争においてビルマに勝利していた)に悩まされているところだった。
1826年,チャオ・アヌは現在のタイ東北部イーサーン地方(もともとはランサーン王国の一部だった)に侵攻した。翌年にはシャムからの独立を宣言し,多くのラオ人を連れ帰った。
チャオ・アヌは,旧ランナー王国(チェンマイ)やラオ系の他の王国であるルアンパバーン王国,さらにヴェトナムの支援を受けられると思っていたようである(マーチン・スチュアート=フォックス『ラオス史』31ページ)。
しかし,イーサーンのナコーンラーチャシーマー太守の妻ターオ・スラーナリーによる反撃に遭い,退却を余儀なくされた(タイの歴代王朝は危機に陥った際,女性によって救われることが多い)。
1831年,ラーマ3世は討伐軍をヴィエンチャンに送り込んだ。このときの戦いでヴィエンチャンは完全に破壊され,廃墟と化した。ラオ人は連れ去れた。チャオ・アヌもバンコクに連行され,残酷な仕打ちを受けて死去した。
マーチン・スチュアート=フォックスはこのように書いている:
シャムの覇権から脱しようとしたアヌウォンの試みは,タイ(シャム)の歴史とラオスの歴史では,描かれ方がまったく異なっている。タイからすれば不満を抱いた臣下によるいわれのない反乱であるが,ラオスにとってはまさに独立闘争と見なされるものであった。この異なった認識は単に学問上のことではなく,ラオ人が現在ラオスよりもタイに多く住んでいるという事実によってさらに強化され,いまだにタイ・ラオス関係につきまとっている。(『ラオス史』31ページ)
チャオ・アヌについては以前にも記事を書いた(「タイの政治的混乱はチャオ・アヌの呪い」)。ご参考までに。
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