ラオス史メモ:ビルマの脅威
インドシナ半島において9世紀から13世紀前半はクメールの時代であった。そして,13世紀後半から14世紀にかけてはタイ系民族の興隆期であった。15世紀はタイ系王国が覇権を競った時代。そして,16世紀はというと,ビルマ人にとっては栄光の時代,そしてタイ系民族にとっては危機の時代であったといえよう。
タイ系民族にとって,タビンシュエーティーとバインナウンは忘れられない名前である。
タビンシュエーティーはビルマのタウングー朝の王である。そしてバインナウンはタビンシュエーティーの乳兄弟である。そもそもバインナウンという名は「王の兄」という意味を持つ。
タビンシュエーティーは若くして即位した後,1539年にモン族のペグー朝,1541年にモン族の中心都市マルタバン,1545年にシャン族のアヴァ朝を滅ぼし,ビルマの中央部を掌握した。
1547年10月,タビンシュエーティー王はアユタヤ朝への侵攻を開始。これが1949年2月まで続く第1次ビルマ・シャム戦争の開始である。この戦いの中でバインナウンは王の右腕として活躍した。タビンシュエーティー王率いるビルマ軍は王都アユタヤに迫ったものの(第1次アユタヤ包囲),かの王妃スリヨータイの奮戦などもあり,アユタヤを陥落させるまでには至らなかった。
ビルマ軍の強さの原因の一つには,鉄砲を携えたポルトガル人傭兵隊の存在があった。当時の最新鋭兵器により,モン族,シャン族は平定されていったのである。しかし,第1次ビルマ・シャム戦争では,アユタヤ朝側もポルトガル人傭兵隊を擁していたため,圧倒することができなかった。
さて,第1次ビルマ・シャム戦争終結直後の1550年,タビンシュエーティー王は暗殺され,タウングー朝は混乱に陥る。これを救ったのが王兄バインナウンである。
バインナウンは国内の混乱を鎮めると,勢力圏拡大に乗り出し,1558年にはチェンマイを陥落させ,ランナー朝を服属させた。これ以後,2世紀にわたり,ランナーはビルマの属国となる。
1564年,先王の遺志を継ぎ,バインナウンはアユタヤ朝への再侵攻を開始した。王都アユタヤは再びビルマ軍に包囲され,アユタヤ朝は降伏し,属国となった(第2次アユタヤ包囲)。この後,アユタヤ朝は反旗を翻すが,1569年,王都アユタヤがビルマ軍により陥落し,アユタヤ朝は属国に戻った(第3次アユタヤ包囲)。
さて,このようにタイ系民族の世界がビルマの脅威にさらされていたとき,ランサーン王国は何をしていたか?
ポーティサラート王の場合,アユタヤ朝と対立していたため,ビルマと同盟した。第1次ビルマ・シャム戦争の際は北からアユタヤ朝を攻めるよう要請されている。
セーターティラート王の場合はどうか? 1558年にランナー朝の王都チェンマイが陥落すると,セーターティラート王は防御の体制を固めた。1560年には,アユタヤ朝と同盟を結んだ。また同年,王都をルアンパバーンからヴィエンチャンへと移した。
この遷都時,チェンマイから招来し,ルアンパバーンに安置されていたエメラルド仏(プラケオ)もヴィエンチャンへと移された。エメラルド仏を安置するためにヴィエンチャンに建立されたのが,ワット・ホー・プラケオである。
1569年,アユタヤが陥落した。バインナウン王が次に狙いを定めたのはタイ系最後の王国,ランサーンであった。
同年,ビルマ軍はランサーンの王都ヴィエンチャンを攻め落としたが,セーターティラート王はゲリラ戦を展開し,抵抗をつづけた。その結果,1570年,ビルマ軍は撤退を余儀なくされた。撤退するビルマ軍に対してセーターティラートは攻撃を加え,3万人の捕虜と100頭の象を手に入れたという。
ビルマの脅威が去ったためか,勝利の余勢をかってか,セーターティラート王はその後,1571年から1572年にかけてクメール(カンボジア)への遠征を試みた。しかし,そのさ中,ランサーン貴族や高僧の陰謀によりセーターティラート王は暗殺されてしまった。強力な王を喪ったランサーン王国では王位継承争いが発生。混乱に陥ることとなった。
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