ラオス史メモ:ランサーン,二度目にして最後の黄金期
ビルマの脅威を払いのけたのち,セーターティラート王はクメール遠征を開始し,その途上で命を落とした。
強力な王を喪ったランサーン王国では王位継承を巡る争いが起こり,在位年数の短い10人以上の王が次々に即位した。その間,ランサーンの国威は著しく減退した。
60年を越える長い混迷の時代を経て,1637年に即位したのがスリニャウォンサーである。スリニャウォンサーの統治は1694年まで続いた。この57年間にも及ぶ長い治世の下,ランサーン王国は繁栄を取り戻した。
スリニャウォンサー王の時代,初めてヨーロッパ人がランサーン王国を訪問した。オランダ東インド会社(VOC)社員のヘリット・ファン・ウストフ(Gerritt van Wuysthoff)とイエズス会宣教師ジョバンニ・マリア・レリア(Giovanni Maria Leria)神父である。両者はともにランサーン王国の繁栄について記述している。
ランサーン王国は繁栄を極めていたが,インドシナ半島の奥に位置する内陸国であるという点がやがて不利益をもたらすことになる。
マーチン・スチュアート=フォックスは次のように書いている:
「ビエンチャンの壮麗さにはかげりが見えていなかったかもしれないが,勢力の均衡は,孤立した内陸のマンダラであるラーンサーンには不利に,先進的な軍事技術を売り物にしていたヨーロッパの勢力と海上交易を行なっていた近隣王国には有利にと,ゆっくり,しかし確実に変化していた。」(『ラオス史』28ページ)
スリニャウォンサー王の治世の終わりがランサーン王国の終わりであった。
スリニャウォンサー王が崩御すると,王位継承を巡る争いが再び起こった。その際,アユタヤ朝とベトナム(黎朝)という近隣の大国が介入したことにより,ランサーン王国はルアンパバーン,ヴィエンチャン,チャンパーサックという3つの小王国に分裂してしまった。それぞれがシャムあるいはベトナムあるいは両方に服属するようになった。
こうしてランサーン王国の二度目にして最後の黄金期が終わりを告げた。
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