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2016.08.05

ラオス史メモ:ランサーン王国の黄金期

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16世紀,ランサーン王国が巨大な帝国に成長する最初で最後の機会があった。

以前その話を物語仕立てで書いてみた(「百万の田と百万の象の帝国:失われたラオ人の帝国」)が,ここでももう一度取り上げてみたい。

ランサーン王家には長子相続や立太子制度のような仕組みがなかったため,王が崩御した後,必ずと言ってよいほど王位継承を巡る争いが生じた。このような争いはランサーンの国力を弱める原因となった。

ただし,治世の長い王がいた場合にはランサーンは繁栄した。

ウィスン(Visoun / Vixun / Visunarat, 在位1500~1520年),ポーティサラート(Photisarath, 在位1520~48年),セーターティラート(Setthathirath, 在位1550~1571年)の親子三代の王たちは,それぞれ在位年数が長く,ランサーンは繁栄し,黄金期を迎えていた。

ウィスンの時代にはラオス人の文化,宗教観が形成された。

ランサーン王国の建国神話を記したニターン・クンブロムが作成されたのはウィスンの治世下であったし,初代のファーグムがアンコール朝から招来した仏像を王都シエンドーンシエントーンに安置することを決定したのはウィスンであった。この仏像はパバーン仏と呼ばれており,これに由来して,シエンドーンシエントーンは後にルアンパバーンと呼ばれるようになる。

ウィスンの子,ポーティサラートは敬虔な仏教徒だった。民間の精霊(ピー)信仰を禁じ,多数の寺院を建立した。

ランサーンが繁栄し,勢力圏を拡大するにつれ,周辺の国々との衝突が激しくなってきた。

ポーティサラートはビルマと同盟を結び,1535年,1539年,1548年の3回にわたってアユタヤに侵攻した。

1540年にはアユタヤ朝が大軍を以てランサーン王国に侵攻した。しかし,サラ・カムの戦いでアユタヤ軍はランサーン軍に破れ,膨大な死者を出して敗走した。

1548年の侵攻はビルマ・シャム戦争の一環として行われた。ビルマ・ランサーン連合軍を迎え撃ったのは,アユタヤ朝のマハー・チャクラパット王と王妃スリヨータイである。王妃スリヨータイは夫を守って戦死したと言われている。この勇敢な王妃の話はタイでは大人気で,映画にもなっている(↓)。

ところで,ポーティサラートはランナーの王女を妃に迎えていた。ポーティサラートとランナーの王女の間に生まれたのがセーターティラートである。

セーターティラートの外祖父にあたるランナー王が1546年に崩御すると,ランナーの王族に男子がいなかったため,セーターティラートがランナー王として即位することとなった。

その後,1548年,ポーティサラートが象に押しつぶされて亡くなるという事故が発生した。これでセーターティラートはランサーンとランナーという2つの王国の王位を継承することとなった。

しかしながら,セーターティラートがランサーン王位を継ぐため,ランナーを離れると情勢は一変。ランナーの官吏や貴族たちが別の人物をランナー王として擁立した。

これにより,ランサーン・ランナー二重帝国が誕生する機会は永遠に失われた。

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