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2016.08.03

ラオス史メモ:ランサーン王国以前

青山利勝著『ラオス―インドシナ緩衝国家の肖像』(中公新書)では,19世紀以前のラオスの歴史をバッサリと省略しているが,これは正しい姿勢かもしれない。

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というのも「ラオス史」というもの自体に大きな議論があるからである。

先日紹介したマーチン・スチュアート=フォックスは『ラオス史』(めこん)の中でこう書いている。

ラオス人以外の歴史家,特にアイデンティティーや伝統の形成,史料批判についてポスト・モダン的思考の影響を受けた人にとって,ラオス史の継続性は明白なものとは言えない。ラーンサーンの解体とフランス領ラオスの成立との間には約2世紀の隔たりがある。さらに,ラーンサーンの後継王国はラーンサーンを継承していると声高に主張したが,1828年からの65年間,そうした主張をするのに最も適した国はもはや存在していなかった。1893年,ラオスと呼ばれる政治的実体が再び形成された時,領土はかつてのラーンサーン王国の半分以下となり,人口もその一部が含まれているだけであった。実際,フランスがインドシナ連邦の1区域として創出し,ラオ人が1945年に独立国家に昇格させたものは,ラオ人による初期マンダラの直系の後継者であると全面的に主張できるはずもない新しい実体であった。(『ラオス史』34ページ)
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とはいえ,現時点でのラオス側の公式見解に立てば,ランサーン王国こそがラオス人およびラオス国家のアイデンティティーの基礎である。ラオスに関わる者にとって,ランサーン王国に関する知識は必須のものである。

そこで,今回から数回に渡ってランサーン王国についてのメモをまとめてみる。


◆   ◆   ◆


ファーグム王によるランサーン王国の建国(1353年)について語る前に,タイ系民族(英語では現在のタイ人を意味するThaiと区別してTaiと書く)の南下について触れないといけない。これはヨーロッパにおけるゲルマン民族,アフリカにおけるバンツー系民族の大移動に匹敵するレベルの民族大移動である。

だいぶ前の記事「メコン流域国について勉強中」でも書いたが,ここでおさらい。

タイ系民族は紀元1世紀前後に中国南部(雲南省南東部~広西省西部)から南下を始めた。おそらく,漢帝国の支配領域の拡大=漢族の南下による圧力を受けたためだろう。

タイ系民族の中にはミャンマー方面に移動したグループもいるが,ここではメコン川に沿って南下したタイ系民族の話に絞る。移動ルートを下図に示す。

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タイ系民族の大移動は何世紀にもわたるものであるが,8世紀~9世紀初頭にはタイ系民族のムアン(くに)がタイ最北部に成立していた。ムアンというのは近代の領域国家とは異なり,古代日本の国々と同じく,村落がゆるく結合してできた小国のことである。

さて,9世紀から13世紀ごろ,インドシナ半島で勢力を誇っていたのが,モン・クメール系民族のアンコール朝=クメール帝国である。

アンコール朝は現在のシェムリアップ付近を拠点として9世紀に成立。次第に勢力を拡大し,12世紀前半スーリヤヴァルマン2世の治世下,かのアンコール・ワットを建設した。そして,ジャヤバルマン7世(在位1181~1218年)のとき,インドシナ半島のほぼ全域を領土とした。いわゆるクメール帝国の成立である。

このクメール帝国の勢力圏に入り込んできたのがタイ系民族である。ジャヤバルマン7世が崩御後,クメール帝国の支配力が弱まり,13世紀および14世紀にはクメール帝国の勢力圏内にいくつものタイ系王国が樹立された。

マンラーイ王に率いられてメコン川流域を離れ,別の大河川,チャオプラヤー川上流のチェンマイに拠点を構えたタイ系民族のグループがある。このグループはランナー(「百万の田」の意)王国を成立させた(1259年)。後に触れるように,ランサーン王国と縁の深い兄弟国である。

チャオプラヤー川沿いに南下を続け,スコータイの地を拠点としたグループもある。これが現在のタイ王国を建国した人々,小タイ族,別名シャム族である。シャム族の人々はスコータイからクメール人を追い出してスコータイ朝を築いた(13世紀)。

チャオプラヤー川のさらに下流,現在のタイ王国の中部アユタヤに成立したのが,アユタヤ朝である(1351年)。この王朝はアンコール帝国の版図を蚕食して勢力を広げ,やがてはスコータイを服属させるようになる。

ここまではチャオプラヤー川には移ったタイ系民族について述べたが,そのままメコン川に沿って広がったグループもある。このグループをラーオ(ラオ)族という。13世紀中ごろまでにメコン川流域の広い範囲に定住していた。そして1353年,ラオ族のリーダー・ファーグム王が,ルアンプラバン(ルアンパバーン。旧名はシエンドーンシエントーン)を拠点としてランサーン(「百万頭の象」の意)王国を築いた。


◆   ◆   ◆


13世紀および14世紀にタイ系民族の王国が続々と誕生した背景には,モンゴル帝国/元王朝の影響があるとマーチン・スチュアート=フォックスは『ラオス史』(めこん)の中で指摘している。

そもそもランナー王国の始祖,マーンライ王がタイ最北部を離れ,チェンマイに移った原因の一つには,元による雲南・大理遠征によって,南詔国の首都,大理が陥落(1253年)したことが挙げられる。もっとも,後にランナーは元に対して朝貢することにしたわけであるが。

ジャヤバルマン7世崩御後,激しい後継者争いなどもあってアンコール朝の栄華には陰りが見えてきていた。そこにさらに打撃を与えたのが元の侵攻である(1283年)。こうしてモン・クメール系民族の力が弱まるにつれ,タイ系民族の指導者たちが覚醒し,続々とタイ系王国を築き始めたというわけである。

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