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2016.08.04

ラオス史メモ:ランサーン王国の創建

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13世紀から14世紀にかけて,メコンおよびチャオプラヤー川流域でタイ系の国々が次々に誕生した。ランナー,スコータイ,アユタヤ,そしてラオ人の国,ランサーンである。

ランサーン王国の建国(1353年)におけるファーグム (Fa Ngum) 王の功績は,ニターン・クンブロム (Nithan Khun Borom)という年代記に書かれている。しかし,ニターン・クンブロムは叙事詩であって,その記述内容をすべて信じるわけにはいかない。

グラント・エヴァンスの著書"A short History of Laos"によれば,ファーグム王およびその息子・サームセーンタイ王の存在はスコータイや中国といった他国の年代記からも確認できるとのことである。しかし,クメールやランナーの記録には出てこないらしい。

The actual existence of Fa Ngum is recorded on a Sukhothai stele as a lord from across the Mekong, and his son Sam Saen Thai seems to be mentioned in Chinese sources. There are, however, no other corroborating sources from Cambodia,Ayudhya, Vietnam or Lan Na. (Grant Evans "A short History of Laos", p.10)
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Grant Evans

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信頼性には乏しいが,ファーグム王の事跡は次の通りだという。

まず,ファーグムはシエンドーンシエントーン(後のルアンパバーン)の王族に生まれた。ファーグムは若いころ,よくわからない理由により父王に追放され,アンコール朝に逃れた。アンコール朝で妃と兵力を得たファーグムはシエンドーンシエントーンへの帰路に就いた。その途上で様々なムアンを征服し,王位に就いた。

ファーグム王はベトナム,ランナー,アユタヤと条約を結び,勢力圏を確定した。以上がランサーン王国の建国過程である。

しかし,ファーグム王は即位から20年足らずの1371年に謎の理由により追放されてしまう。

ファーグム王の妃がクメール人であったことでもわかるように,ファーグム王の後ろ盾はアンコール朝であり,宮廷には多くのクメール人が入り込んできたようである。妃がラオ人の間に上座部仏教をもたらし,ファーグム王がアンコール朝から仏像を招来するなど,ランサーン文化にはクメール文化の影響が強く表れていた。

マーチン・スチュアート=フォックスは,ランサーンの宮廷内においてクメール勢力と旧来のラオ人貴族らとの間に軋轢が生じ,それがファーグム王の追放に結び付いたのではないかと推測している。

マーチン・スチュアート=フォックスは1368年に起こった2つの事件に注目している。一つはアンコール朝の後ろ盾である元朝が明によって倒されたこと(トゴン・テムルの大都放棄)。もう一つはファーグムの妃の死である。この二つによってクメール人勢力は弱まり,ファーグム王は追放されてしまったというのである。

ファーグム追放の後,その息子,サームセーンタイ王が即位する。サームセーンタイとは「30万のタイ系の人々の王」という意味であり,その威光がしのばれる名である。

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